02 トリアス公爵
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「何がどうなっている?!」
トリアス公爵は無惨に破られた窓に駆け寄った。確かに藍色の髪に金色の瞳だった。だが3階の高さから飛び降りて逃げてしまった。
「何てこと。誤解させてしまったわ」
妻が首を振って立ち上がった。
「誤解?」
「あなたがいけないのよ。『脱がせろ』だなんて。乱暴されると思ったのよ」
「何だと?」
公爵は『ボンネットで髪が見えないから脱がせろ』と言ったつもりだった。護衛が馬小屋で藍色の髪の下女を見たと報告してきたからだ。
「男達に辱められる前に逃げたのね。私達はそれを楽しむ変態夫婦だわ」
「むむ…」
護衛は真っ青になっている。逃げる下女が侮蔑の眼で見たそうだ。公爵は警護に後を追わせた。領主館を囲む森は広くない。しかし一晩中探しても彼女は見つからなかった。
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「下女の名はディア。西の修道院で育った孤児だそうです。捨てられたのが15年前の11月というと、ちょうどお嬢様が拐われた時期と一致します。こちらに奉公に来て半年ですが、いつも髪を隠していたので誰も気づきませんでした。これが残された私物です。修道院から捨て子を包んでいた布も回収しました」
翌日、隠密が報告をした。公爵は古びた布を妻に渡した。
「…間違いないわ。私たちの赤ちゃんのおくるみよ」
妻は涙を流して布に頬擦りした。公爵は脱力した。あれほど懸命に探したのに、まさか自領にいたとは。この15年の苦労は何だったのだ。おまけに目の前で逃してしまった。
「まだ見つからないのか?」
公爵は警護隊長に訊いた。
「申し訳ありません。何故か猟犬が動かないのです」
「どういうことだ」
「文字通り、一歩たりとも歩きません」
仕方なく目視で探したが、娘は見つからなかったそうだ。公爵は残された荷物から本を手に取った。古生物学者ローエン・クリティシャスの著書だ。下女に相応しいとは思えないが。
「院長の話では、その学者に会うのが夢だと言っていたそうです」
それ以上の報告は無かった。版元は王都の学術書専門の出版社だ。公爵は王都に早馬を走らせた。
◇
ディアは森の木の上で夜を明かした。昨夜は猟犬の気配がしたので殺気で追い払った。まだ暗いうちに山を越えて街道に出る。途中の民家に干してあったローブを拝借して頭を隠した。トリアス公爵領を出てしまえば追手も来ないだろう。
(ローエンに会いに行こう)
公爵家の図書室で盗み見た貴族名鑑には、彼の名前しか載っていなかった。やはりあの本の出版社に聞こうと、ディアは3日3晩歩き続け、王都に辿り着いた。金や茶の髪色の人間が多い。彼女はフードを深く下ろして本屋街を目指した。
目的の出版社の看板を見つけた。既に夜中だったので明かりが消えている。明日出直そう。ディアは来た道を戻ろうとしたが、数人に囲まれた。彼女はスカートからナイフを出した。修道院の倉庫にあった古い剣を研いで作ったものだ。
「待て!話を…」
暴漢の1人が叫ぶ。構わずディアは突進した。今の彼女には鉤爪も牙も無い。大きな人間に勝つには、速さしかない。力も弱いので斬るより突く。5人の利き手を刺したところで美しい男が出てきた。公爵だ。
「止めんか!」
下衆だが大貴族、傷つけるのはまずい。ディアは撤退を決めた。すると公爵は意外な事を言った。
「クリティシャス博士に会わせてやる!」
「…」
少女は動きを止めた。院長が教えたのか。もう修道院にまで調べが及んでいた。
「神に誓って何もしない!私の話を聞いてくれたら必ず博士に会わせる」
金色の目は真剣だった。そういえば髪色もディアと同じだ。彼女は閃いた。
「もしかして、あんた私の父親?」
「そうだ!」
「死ね」
外道と話すことなど無い。言われなくても二度と公爵領には戻らないよ。ディアは吐き捨てると煉瓦造りの建物の外壁を駆け上がり、屋根に登った。
◆
また誤解だ。公爵は一息に屋根に飛び上がった。護衛達が役に立たないので自身で捕えるしかない。逃げる娘を全速力で追跡した。やがて川沿いの建物の屋上に追い詰めた。娘は長ナイフで向かってきた。
「話を聞け!お前を捨てたのではない!拐われたんだ!」
鋭い突きを躱しながら、彼は説明した。15年前に生まれたばかりの赤子が誘拐された。公爵に恋慕した侍女の仕業だった。愚かな侍女は赤子の行方を白状しないまま、首を吊って死んだ。公爵夫妻はあらゆる手段を使って藍色の髪と金の瞳の娘を探していたのだ。
「しかし見つからなかった!妻は体を壊して、ようやく回復したんだ!」
娘の攻撃が止んだ。
「本当?」
公爵は頷いた。やっと理解し合えた。彼は娘に手を伸ばした。
「さあ帰ろう。ディアナ」
偶然にも夫妻がつけた名と、今の娘の名は似ていた。ディアナはナイフを下ろして言った。
「帰っても良いけど、あたしはローエン以外の男の子供は産まない」
「…分かった…」
学者と孤児にどんな繋がりがあったのか。訊きたい気持ちを抑えて、公爵は了承した。感動的な再会ではなかったが、ようやく娘を取り戻したのだ。公爵は娘を王都の屋敷へと連れ帰った。