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尾呂血《おろち》 前編  作者: 谷貝
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失踪した恋人の故郷は古代史伝説の残る秘境の村だった

第一章 五年前


「うむ、見事な刀剣だ。実に素晴らしい」

 月影国光は鞘から姿を現した白く輝く刀身を眺めながら、思わずうなり声をあげた。刀匠として幾多の名刀を目にしてきた国光だったが、その刀身の醸し出す異様な迫力は別格だった。鑑定や評価などという人間の矮小な価値判断を一切寄せ付けない、超越した存在感が国光の全身を稲妻のように鋭く貫く。その存在感の正体は、神聖と邪悪、崇高と凶暴の両極を包含した絶対的な凄みだった。

 その刀剣の形状は通常の日本刀とは異なり、剣の両側に刃のついた直剣だった。一般的に日本刀と呼ばれるものは反りがあり刀身の片側に刃がある刀剣で、平安時代中期に出現したとされる。反りが生まれたことにより、斬る対象物に対して刃が斜めに入り少ない力で引き切れることにより、効率的にその威力を発揮できるようになる。国光の手にしている刀剣は明らかに日本刀出現以前の時代のものだった。日本では弥生時代までの刀剣は青銅製であったが、三世紀の古墳時代の幕開けと共に玉鋼を鍛造して作る鉄製の刀剣が登場する。青銅製の刀剣とは比べ物にならないほどの丈夫な武器の出現である。この頃の刀剣の形状は両刃の直剣だ。やがて、五世紀末ごろに片刃の直刀へとその形状は変遷していき、平安時代の日本刀へとつながっていく。

 剣に魅入る国光の顔を刀身から反射した光が下からギラリと照らした。剣の長さは一メートル弱。鞘は朴の木で作られており、赤い漆塗りに豪華な螺鈿細工が施され、所々、緑碧玉が埋め込まれている。こちらもかなり手の込んだものだったが、恐らくは後世に作られたものだろう。しかし、刀身本体は明らかに古墳時代に作られたものだ。レプリカでないことは一目で分かる。良好な保存状態からも、かなり高貴な家系で代々厳重に保管されてきたことが伺える。

 月影国光は現代日本を代表する刀匠の一人である。三十代の時、史上最年少で無鑑査刀匠に選ばれている。無鑑査刀匠とは、刀匠がその技を競い合う展覧会において受賞審査をもはや必要としないという称号である。つまりそれだけ卓越した技量を持っているという別格の証だ。刀匠の中で最高位の名誉と言っても過言ではない。また、現代の刀匠は分業が進み刀鍛冶が焼き上がった刀身を砥ぐことはまれだが、国光はかつての刀工のように研ぎ士としても一流の技術を持っており、鍛造から最終的な研磨までをすべて一人でこなしてきた。還暦を過ぎた頃、焼き入れに使用するための質の良い湧水を求めて八ヶ岳山麓に鍛刀場を兼ねた庵を設け、齢七十を超えた今でも毎年、目の肥えた刀剣愛好家たちを唸らせる逸品を自ら製作しながら、同時に皇室や神社が保有する国宝級の古刀の修復研磨を請け負っている。日本の歴史を彩ってきた数々の名刀を実際に手に取って修復研磨をしてきた経験により、刀剣の目利きには揺るぎない自信があった。今、国光が手にしている刀剣は間違いなく本物、それも特上級の名刀だった。


 その依頼人から電話があったのは、まだ八ヶ岳に雪の残る三月のことだった。保有している刀剣の修復をして欲しいという依頼だ。しかし、国光は既に皇室や著名神社の宝刀の修復依頼を多数抱えており、一見客の依頼を請け負う余裕はなかった。丁重にその旨を伝えて電話を切った数日後、突然その依頼人が剣を携えて八ヶ岳の鍛刀場を訪ねてきた。いささかの不快感を顔に浮かべながら、国光は玄関先でその依頼人を追い払おうとした。するとその依頼人は、

「月影さん、一度この刀剣を実際に見てみてください。そうすれば、きっとお考えが変わるはずです」

 と、国光を正面から見据えながら自信に満ちた笑みを浮かべたのだった。失礼な依頼人だと思ったが、形だけでも刀剣を吟味するそぶりを見せれば満足して帰るかと思い、国光は渋々とその依頼人を室内に通すことにした。今までも何人かの刀剣愛好家が自分で過大評価した凡刀を国光の元に持ち込んでくることがあったが、大抵の場合は相手を傷つけない程度に刀の実際の価値を伝えてやると、落胆の表情を見せながらも納得して帰っていったものだ。恐らく今回も同様だろう。

 依頼人は無言で国光の後に続き、庵の客間に足を踏み入れた。そして持参した長尺の錦袋から丁寧にその中身を取り出すと、やや緊張気味な表情を国光に向けた。国光は視線を依頼人の顔からその手元に移した。赤漆塗りの鞘の表面に彩られた見事な装飾が国光の目を引いた。国光が鞘に納められたままの刀剣を受け取ると、一瞬、全身に霊気が走る。帯電したように、尋常ではないエネルギーが刀剣を持つ手から体中に伝わってくる。刀剣には魂が宿っていると言われることがあるが、ごくたまに歴史上の名刀を手にした時にも同様の霊気を感じたことがあった。この依頼人、あながちただの凡刀を持ち込んできたわけではないのかもしれない。唾をごくりと飲み込みながら、右手を柄にかけそっと刀身を抜いてみる。途端に眩い光を放つ両刃の直剣が姿を現した。周囲の空気がぴんと張り詰めるのが分かった。同時に圧を感じるほどの強烈な気が国光を襲う。息を呑み刀身に魅入る。呼吸をすることも忘れて、ただただ刀身の放つ妖しく眩い光に吸い込まれていく。心臓がバクバクと大きく脈打つ。国光はやがて我を取り戻し、深いため息を吐いた。

「うむ、見事な刀剣だ。実に素晴らしい」

 国光は興奮して言葉を続けた。

「三世紀から四世紀ごろに作られた直剣だ。それにしても素晴らしい保存状態だ。前に稲荷山古墳から出土した直剣を実際に手にしたことがある。刀身に彫られた金文字の銘文から西暦四七一年に作られたものと推定されているものだ。しかし、あれはかなり腐食が進んでいた。恐らくこの刀剣は更に古い時代のものだろうと思うが、奇跡的と言ってよい程の素晴らしい保存状態だ。まるで刀身が呼吸でもしているかのように生き生きとしている」

 興奮して話し続ける国光を、依頼人はただ感情の消えた瞳で見つめている。

「ただ、残念なことに若干の刃こぼれがあるようだ。そして、そこから既に腐食が始まっている。このまま放っておくと更に腐食が進んで取り返しのつかないことになる。そして刀身もかすかに曲がってしまっているようだ。恐らくこの刃こぼれと曲がりは最近生じたものだろう。錆びの進行状態から判断すると、刃こぼれが生じてから十数年といったところか。恐らく、無茶な扱い方をした者がおったのだろう。何ということだ、こんな名刀を」

 非難するような国光の視線を無視して、依頼人は言葉を発した。

「月影さん、修復と研磨をお願いできますでしょうか」

 こんな名刀を目にして、放っておくわけにはいかなかった。

「もちろんだ。このような名刀をこんな状態で放っておくわけにはいかない。私の持ちうる全ての技術を駆使して、必ずやきれいに修復してみせよう」

 依頼人はその言葉を聞くと満足げな笑みを浮かべて去っていった。


 その夜から国光は早速、その依頼人の残していった直剣の修復に取りかかることにした。今朝まで取り組んでいた、伊勢神宮に奉納するための太刀の製作はひとまず中断することにした。通常は二つ以上の刀剣を同時に作業することはなく、必ず一太刀ごとに作業を完遂してから次の太刀に取り組むのが常だったが、今回は何故だか分からないが直剣の修復を最優先すべきだという頭の中の声に従うことにした。鞘に収まった直剣をそっと作業台の上に置く。鮮やかな赤い漆塗りの上に広がる螺鈿細工が照明の下で虹色に輝いている。よく見ると螺鈿は龍の姿を描いており、両目には緑碧玉が埋め込まれている。蒔絵螺鈿と呼ばれる平安時代の技法だ。恐らく、元々存在した鞘が劣化したので平安時代に鞘だけ作り直したのだろう。そこにも確かな技術が見てとれた。この鞘だけでも国宝級の見事な逸品だ。ゆっくりと鞘から刀身を抜く。再び空気が張り詰め、異様な霊気が国光を襲う。全身の血管を帯電したような血液がドクドクと巡る。心臓の鼓動が激しくなり、こめかみの血管が膨らむのが分かった。思わず深呼吸をして自分を落ち着かせた。拡大鏡を鼻にかけ、丁寧に刀身を観察していく。不自然な力を加えたのだろう、やはり刀身が曲がっている。しかし、一体誰がこのような名刀をこんな状態にしてしまったのだろう。貴重な玉鋼を何度も鍛錬して作られる刀身は不純物が少なく、通常は粘り強く強靭になり、剣の力量のある者が使う限り刃こぼれや曲がりが生じることは滅多にない。恐らく、誰か刀剣の扱いに不慣れな者が闇雲に振り回したのだろう。しかし、このような名刀を使って一体何を切る必要があったのだ。

 刃こぼれと錆びの手当てにとりかかる前に、まずは曲がりを修復する必要があった。国光は刀身の強度を確かめながら慎重に作業を進めることにした。力を加えすぎると取り返しのつかないことになるので全神経を集中させて、刀身と会話をしながら徐々に曲がりを修正していく。骨の折れる作業だったが、まるで必要な力加減と力の角度を刀剣自らが指示を出しているかのように的確な作業が進められた。一心不乱の作業が夜通し続けられ、東の空が白み始める頃には刀身の曲がりは完璧に修復されていた。

 国光はここで一旦、休憩をして食事と仮眠をとろうと思ったが、何かがそれを許さなかった。頭の奥で、休むな、このまま続けろ、という有無を言わさぬ声が響いた。それは抗うことを許さない絶対的な声だった。時空を超えて直接、国光の脳内に響きわたる声。国光はその声に命令されるがままに作業を続けた。

 今度は刃こぼれの修復と錆びの除去だ。刃が不均一にやせ細らないように、慎重に研磨作業を進める必要がある。またもや刀剣が的確な研磨の粒度や角度を指示してくれているような気がした。全神経を集中した繊細な作業が延々と続く。陽が沈み、陽が昇った。刀剣は本来の姿を取り戻すにしたがって、嬉々とその放つ霊気の強さを増していく。一方の国光は全身の精気を奪われるかのように、急速に衰弱していった。刀剣の凄まじいエネルギーと対峙するには、国光は歳を取り過ぎていたのだ。朦朧とする頭の中で国光はある考えを巡らせていた。どうもこの刀剣はただの刀剣ではなさそうだ。今まで扱ったことのあるどんな名刀や宝刀とも違う、何か尋常ではない力を宿している。それはとても常人には制御できない絶対的な力だ。邪剣ではないが、恐ろしい剣だ。もしかするとこの剣は…ある考えが国光の頭に浮かんだ。いや、そんなことがあるはずはない。馬鹿げた妄想だ。しかし、このような剣が他に存在するだろうか。いや、そんなことはあり得ない。しかし、やはり…。国光はおもむろに作業台の脇の電話機に手を伸ばし、あるダイヤルを回した。


 最後の仕上げの研磨に取りかかった時には、既に何回目かの朝を迎えていた。いつの間にか、天井付近に霧のような白いものが立ち込めていることに気づいた。その不思議な乳白色の物体は国光の作業を監視するかのように妖しく頭上に滞留している。朝靄だろうか。しかし庵の窓は閉まっているはずだ。極限にまで達した疲労がただ幻覚を見せているだけかもしれない。

 国光はもう何も他のことは考えられなかった。とにかく、手元の刀剣を本来の姿に戻すことだけに全神経を集中していた。何かに追い立てられるように、命を削って作業に没頭した。陽が沈むころ、全ての修復作業が完了する。刀身は満足したかのように、妖しい光とほとばしる霊気を四方に発散させている。衰弱した国光はその霊気を浴びるほどに心臓の鼓動が弱まっていくのを感じた。刀身の放つ圧倒的なエネルギーにかろうじて耐えながら、最後の力を振り絞って刀身を鞘の中に納める。そのまま意識が遠のいた。


 人の気配がした。目を開けると、先日の依頼人が刀剣を錦袋にしまっているところだった。依頼人は床に倒れている国光を見下ろしながら、静かに呟いた。

「月影さん、見事な仕事です。感謝します」

 国光は猛烈な喉の渇きに気づき、かすれた声を発した。

「あんたか。悪いが水を一杯くんできてもらえんかな」

 しばらくすると、依頼人がコップに水をくんで戻ってきた。床にひざまずいて国光にコップを手渡す。国光は貪るようにコップの水を喉に流し込むと、激しくむせ返った。やがて咳がおさまると、弱々しい瞳で依頼人を見上げた。

「あ、あんた、その刀剣はどなたの持ち物なのかな」

 依頼人は幾分、憐憫の色を帯びた瞳で国光を静かに見下ろしている。床に横たわっている老人の命がもうあまり長くないことを察しているのだろう。

「これは八津神様の神剣です」

 それは国光がこの世で耳にした最期の言葉だった。


第二章 失踪


「ひょんなことから、とんでもない事実を探り当ててしまったかもしれない。もう少しこちらに滞在することにします」

 その留守電が、山根美穂からかかってきた最後の電話だった。それ以降、プツリと連絡が途絶えた。館畑大輔たちはただいすけは心配になり、何度か美穂の携帯に電話をかけたが、その度に「おかけになった番号は…」という冷たいメッセージが返ってくるだけだった。何か事故でも起きたのだろうか。そもそも美穂はどこに行ったのだろう。こちらとはどこのことだ。おかしな話だが、大輔は美穂と一緒に暮らし始めてもうすぐ一年が経つというのに、美穂のことをほとんど何も知らないことに改めて気づかされた。


 美穂と初めて会ったのは、大輔がたまに仕事をもらっている週刊風聞の創刊十周年パーティの席上だった。昨今のネット情報サイトの隆盛に伴い、紙媒体である週刊風聞もご多分にもれず苦戦していたが、社会派記事に軸足を置いていた初代編集長が更迭された後、二代目編集長が誌面構成を大きくゴシップ記事寄りに軌道修正してからは、若干だが発行部数を持ち直すことに成功していた。その代わり雑誌としての品格というものは欠片も残っておらず、著名人の浮気や醜聞などのえげつないスキャンダル記事が誌面に溢れるようになった。しかしこの路線変更は、恐らく殺伐とした今の世相の要求を的確にとらえた正しい選択だったのだろう。社会の寛容や遊びといったかつて存在した余裕がますます失われていく現代、皆が日頃のストレスのはけ口として各々の正義感を存分に振りかざすことができる糾弾対象を求めているのだ。ただその結果、社会派記事を専門に書いている大輔に回ってくる仕事は以前に比べて大分減ってしまった。食いつないでいくためにはこういったパーティにも出席して、編集長はもとより自分よりはるかに年下の編集部員たちにも愛想を振りまいておくことが必要だった。

 パーティと言ってもチェーン展開している大手居酒屋の座敷を借りてのささやかな飲み会だ。細長く置かれた座卓の中央には編集長と広告会社の社員、その周りに編集部の正社員たち、そして端の末席には編集部の契約社員と大輔の様な身分保障のないフリーのライター達。総勢二十人ほどだろうか。ここにも自然と社会のヒエラルキーに沿った序列が形成されている。ニコチンと歯槽膿漏臭の混じった息をまき散らしながらの編集長のスピーチに続いて、歌舞伎町のホストのようなスーツを着た広告会社の社員が乾杯の音頭を取った。その後は特に何の趣向も用意されておらず、ただ歓談が続く。大輔は早速ビール瓶を持って席を立ち、目一杯の愛想笑いを作りながら編集長に酌をしに行く。一言二言、おどけた軽口をたたいてから自席に戻り、ふうっと大きくため息をついた。同時に首筋や肘の内側が無性に痒くなった。もう随分と前から悩まされているアトピーがまた出現したのだ。何度か医者に診てもらったこともあるが、社会の中に溢れている様々な化学物質に大輔の体が過敏に反応しているらしく、結局は現代人として生きている限り、痒みと付き合っていくしかないとのことだった。

 その時、ふと向かいの女と目が合った。色白の肌に金色に染めた髪が品よく映える若い女だ。

「お互い、弱い立場の人間は大変よね」

 その女は人懐っこい笑顔を見せながらそう言うと、大輔のグラスにビールを注いでくれた。

「まあ、仕方ないさ」

 大輔も女にビールを注ぎ返す。女のグラスに自分のグラスを軽く当てた後、生ぬるいビールを口に運んだ。苦い味だけが喉に残る。

「あなた、編集部で見たことあるわ。確か、たち、何とかさん?」

 女はその大きな瞳をまっすぐに大輔に向けてきた。

「舘畑大輔。ただのしがないフリーのライターさ」

「私は山根美穂。同じくしがない契約社員よ」

 そう言って女は自嘲気味に笑った。山根美穂という名前は聞いたことがあった。確か芸能人の浮気などのゴシップ事件を専門に追っているアグレッシブな若い契約社員がいると古い付き合いのライターが言っていたことを思い出す。

「君が山根さんか。有能な記者だという噂を聞いたことがあるよ」

 軽い社交辞令のつもりでそう言うと、美穂は意外にも頬を赤らめながら大げさに首を横に振った。

「私の書いているゴシップ記事なんて二束三文の価値もないわよ。私は食べていくために、矜持もなくただくだらないスキャンダルを追っているだけ。有能だなんて言われたら恥ずかしいわ」

 美穂は声を潜めてそう言うと、まだ琥珀色の液体が半分ほど残っている大輔のグラスにビールを注ごうとした。大輔は美穂からビール瓶を取り上げて机の上に置いた。

「山根さん、変に気を遣わなくていいよ。お互い手酌でいこうじゃないか。気を遣うならそのエネルギーを編集長たちに使った方がいい。お互い食べていくためにね」

 大輔が片目をつぶりながらそう言うと、美穂は薄くリップを塗った口元からきれいに並んだ歯を見せた。そして好奇心の強そうな瞳をまっすぐ大輔に向ける。

「私、舘畑さんの書く記事、好きよ。人々が自分のことだけで忙しい日常生活を送る中、つい素通りしてしまうような社会の不条理を丁寧に拾い上げて、それでいて読者に何かを上から目線で押しつけるわけでもなく、今まで見過ごしてきた大切なことや目を背けてきたことに読者が自然と気づくように導いてくれる、そんな温かくも強い矜持を行間に感じるの」

「おいおい、それは言い過ぎだよ。編集長からはいつも内容が地味過ぎて面白みに欠けるってお叱りを受けているんだ。実際、俺に与えられるページ数は年々減っているのだから」

 そう謙遜しながらも、大輔は美穂の賛辞に思わず頬が緩むのを感じた。大輔が大切にしていることを美穂が的確に指摘してくれたことがうれしかったのだ。フリーのライターという社会的に不安定な立場に甘んじてはいたが、大輔は少なくとも矜持を失いたくはなかった。記事を書くからにはそれが何らかの意味を持ち、誰かの価値観を刺激し、少しでも社会をよくすることに役立ってほしいと願っていた。今の弱肉強食の競争社会は本当に人々を幸せにしているのだろうか。たまたま裕福な親の元に生まれたから、育った家庭に文化的な理解があったから、そういった一部の恵まれた者たちだけが家庭教師を雇い、高い学費の高等教育を受けて、高い報酬の仕事を得て社会的成功者となっていく。一方で、塾などの学費を賄えない者、進学に対する理解のない親を持つ者、家庭内介護に追われる者などの将来には多くの場合、低報酬の仕事しか残されていない。どんな家庭環境に生まれたかは決して本人の責任ではないはずだ。徒競走で全員が手を繋いで一緒にゴールするというような極端な結果の平等を求める全体主義社会はごめんだったが、一方で今の社会は能力主義や自己責任といったスローガンばかりが喧伝され、巧妙に掲げられた機会の平等という張りぼてのルールのもと、努力と才能によって人々が振り分けられるのは仕方がないという風潮に満ちているが、実際は本人の責任とは全く異なる要因による機会の不平等が蔓延している。大輔は微力ながら自分の書く記事を通して、人々にこういった矛盾と不条理に気づいてほしかった。ただ、問題は大輔のそういった姿勢が今の編集長の目指す誌面作りとは合致していないということだった。自分に与えられるページ数がどんどん減っていくことからもそれは明白だった。

「舘畑さんの書くものは、私が書いているようなゲスな記事を浄化してくれる存在だわ。あなたはまさに週刊風聞の良心よ」

 グラスに残る気の抜けたビールを見つめながら呟く美穂の言葉は、大輔の心に深く染み込んでいった。


 美穂とは何となく意気投合し、パーティ終了後に自然と二人で近隣のバーの扉を開けることになった。じめじめとかび臭いコンクリートの階段を下りた地下、古びた木のカウンターの中に寡黙な老齢のバーテンダーがいるだけの小さな枯れた店だ。大輔は時間ができると一人でここを訪れ、水割りを傾けながら静かに小説の構想を練ることがあった。今はフリーのライターをしているが、ゆくゆくは社会問題をテーマとした小説家として独立したいと考えていたのだ。小説のストーリーの中に、機会の不平等や格差問題を取り込むことによって、自然に読者に現代社会の不条理や理不尽さに気づいてもらうことができるのではないかと考えていた。実際、既に三つの中編小説を書き上げていたが、なかなか発表の機会が得られず、それらは大輔のパソコンの中に保存されたままになっている。

 美穂はギムレットを注文した。カウンターの中の老人は大輔には何も聞かず、黙って濃いめの水割りを用意した。美穂のカクテルグラスに自分のタンブラーを軽く当てる。

「カクテル言葉って聞いたことあるかな」

 大輔は昔、カクテルについての記事を書く機会があり、様々なカクテルの持つ意味や由来を調べたことがある。

「初めて聞いたわ」

 美穂は体を大輔の方へ向けた。その口元から搾りたてのライムの爽やかな香りが漂う。

「それぞれのカクテルには花言葉のように意味が込められている。ギムレットには「遠い故郷を偲ぶ」という意味が込められているそうだ。ギムレットはチャンドラーのロンググッドバイのイメージが強いかもしれないけど、元々はイギリス海軍兵士が遠洋航海中に故郷を偲びながら船上で飲み始めたことに由来するそうだ」

 大輔がそう言うと、美穂は一瞬、その瞳に困惑の色を浮かべたかと思うと、ゆっくりと手元に視線を落とした。何かまずいことを言ったのだろうか。

「あっ、ごめん。つまらない蘊蓄だったね」

 大輔は慌てて取り繕いの言葉を発し、気まずさを誤魔化すために自分のグラスを口に持っていった。静かに流れるジャズの音色とともに、重たい沈黙が流れる。美穂はカクテルグラスを手の中で弄びながら中の液体を半分ほど飲み干すと、再び大輔を見やった。

「舘畑さんの故郷はどちら?」

 かすかに強張った声だったが、美穂の方から沈黙を破ってくれたことにほっとする。

「岩手の奥州市。藤原氏三代の都さ。舘畑姓の八十パーセント以上は岩手県出身者だそうだ。自然が豊かな所だけど人はどんどん減っている。もうずいぶんと長い間、帰っていない」

 咲き乱れるリンドウで紫に染まった夕暮れ時の畦道の光景が脳裏をよぎり、懐かしいような哀しいような感情が胸の奥で燻った。

「いずれは故郷に帰るつもりなの?」

「さあ、どうだろう。分からないな」

 故郷で一人暮らしをしている老齢の母の顔が浮かび、チクリと心が痛む。美穂はグラスを見つめたまま、かすかに頷くだけだった。


 結局その晩、美穂は自分のことはほとんど語らずに、大輔の話に耳を傾けているだけだった。それでも特に退屈な素振りを見せるわけでもなく、大輔の話に興味をもってくれているようだった。美穂の絶妙な相槌に促されるように、大輔は常態化していた鎧の下から久しぶりに素の自分が顔を覗かせているのを感じ、自分でも驚くほどだった。こんな風に誰かの前で生の自分をさらけ出して饒舌に語ることなど、六年前に真由美と離婚して以来なかったことだ。美穂の瞳がそうさせるのだろうか。美穂のその大きな瞳は、何事にも興味を示す強い好奇心に溢れていた。それは世界中のことを何でも知ってやろうというような若く貪欲な吸引力を伴っていた。特に美穂は大輔の書いている小説に関して強い興味を示してくれ、是非とも読ませてほしいと切望した。結局、翌日メールで原稿を送ってやることにした。


 数週間後、編集部の入っているビルでばったり美穂と遭遇した。

「舘畑さん、読ませてもらいました」

 美穂は悪戯っぽい笑みを浮かべながら、大輔に駆け寄ってきた。金色の髪が上気した頬の横で軽やかに揺れている。

「お世辞抜きで素敵でした。骨太のテーマをうまくストーリーに乗せているし、舘畑さんの高い筆力が全体に安定感を与えている。私、二回も読み返しちゃいました」

 当然お世辞だろうとは思ったが、大輔は素直にうれしかった。小説を書く作業というのは孤独なものだ。数か月の労力をかけて一人黙々と書くわけだが、その間、常に自分の中の疑心暗鬼と葛藤することになる。果たして自分の書いているものが、何らかの価値を持ちうるのだろうか。単なる自己満足の駄文を連ねているだけで、他人が読んだら面白くもなんともないのではないか。そういった疑念を振り払いながら、無理やりに根拠のない自信を奮い立たせて筆を進めるしんどい作業だ。たとえお世辞でも、他人からポジティブな評価を貰えることはうれしかった。書き続けるための原動力となる小さな自信になる。

「舘畑さん、全部で三作書いたって先日お聞きしましたけど、是非あと二作も読ませてください」

 美穂が輝く瞳で大輔を見上げた。


 やがて定期的に美穂と待ち合わせて食事をするようになった。美穂は若い女性にしては珍しく魚より肉料理を好んだので、大抵は洋食屋のような手頃な店で安いワインを片手に、お互いの仕事や話題の本や雑誌などに関して語り合った。美穂は自分の現状や将来に関しては生き生きと語るのだが、話題が過去や生い立ちに及ぶと途端に口をつぐんでしまう。自然と大輔も美穂の過去に関しては一切触れないようになっていった。やがてお互いを舘畑さん、山根さんではなく、大輔さん、美穂と呼び合うようになっていく。美穂は残りの二作の小説も絶賛してくれた。

「大輔さんには絶対に小説を書く才能があると思う。いつかきっと日の目を見る時が来るはず。この才能を世間が放っておくわけないわよ。その時が楽しみだわ」

 美穂は常に大輔の脆い自信を支えてくれた。美穂のまっすぐな賞賛を浴びているうちに、むくむくと書く力が湧いてくる気がした。


 季節が変わり、初めて肌を重ねた夜、美穂がポツリと呟いた。

「私、とても閉鎖的なところで育ったの。皆が同じ一つのことを信じているような、そんなところ。大輔さん、想像つかないでしょ」

 美穂が自分の過去について語ったのはそれが初めてのことだった。窓から射しこむ月の光が美穂のまつ毛を蒼く照らしている。

「それが嫌で、高校を卒業すると同時に故郷を出たの」

 大輔は返す言葉が見つからず、ただ美穂の瞳を曇らす影を見つめていた。いつも前向きな明るさをたたえているその瞳は、今は深い哀しみの色に覆われている。

「東京に来てからは、生きていくために必死だった。高卒の十八の小娘が一人で生きていくには、東京は決して優しい場所じゃなかった。でも、自分の尊厳を傷つけるようなことだけはしなかった」

 月明かりの下、青白く浮かび上がる美穂の顔の陰影が深くなる。大輔は、もっと美穂のことが知りたかった。どんな場所で少女時代を送り、どのような家庭で育ったのか。しかし、その寂しげな瞳を見ていると、とても何かを質問する気にはならなかった。そしてただ頷いてやることしかできない自分がもどかしかった。

「大輔さんと巡り合えてよかった」

 美穂は細い腕を大輔の背中に回し、強く自分のほうに引き寄せた。


 美穂と一緒に暮らし始めるようになるまで、そう時間はかからなかった。お互いのプライバシーを確保できるよう、狭いながらも二部屋あるアパートを借りることにした。美穂は相変わらずアグレッシブにゴシップ事件を追って、昼夜を問わず精力的に飛び回っていた。大輔のほうは資料探しなどで外出するとき以外は、大抵、自室に籠って記事の執筆をするのが日課だった。結婚生活で一度苦い思いをした大輔にとって、適度な距離感を持ったこの共同生活はちょうど心地よいものだった。そして、小説の執筆にも好影響をもたらした。美穂との生活が新たなインスピレーションを与えてくれるのか、前にも増して筆が進んだ。


 一度、美穂がスキャンダル取材に使っている道具を見せてくれたことがある。視線を向けた方向を怪しまれずに撮影できる隠しカメラを内蔵した眼鏡、駐車した車のバンパー下部に設置しておけば行き先が追える小型GPS発信機、相手のポケットなどに忍び込ませておく超小型ICレコーダーなどなど。これらを駆使して、マークしている人物が誰と会っているのか、車がどこのホテルやマンションに向かったのか、そこでどのような会話が交わされているのかが手に取るように分かるとのことだった。

「まるで探偵の七つ道具だな。美穂のターゲットにされた人物に同情するよ」

 半ば呆れながらそう呟く大輔に向かって、美穂がはにかんだ笑みを見せる。

「ゲスな仕事だけど、それはそれで結構楽しいのよ。私、宝探しをするみたいに隠された秘密を暴くのが好きみたい。きっと性格ね」

 確かに美穂の大きな瞳はいつもその好奇心を満たす対象物を貪欲に探しているようだった。


 気が向くと、美穂は朝まで大輔のベッドで過ごすことがあった。大輔の胸元に寄り添って小さな寝息をたてている美穂を見ていると、遠い昔に実家で飼っていた猫を思い出す。猫を撫でるような仕草で美穂の髪を撫でてやると、安心するのか鼻先を大輔の首元に寄せてくる。甘く温かい寝息が大輔の頬をくすぐる。暗い天井を見つめながら、大輔は今のこの生活がずっと続くことを祈った。


 ある晩、体を揺らされるような感覚で目が覚めた。胸元で寝ている美穂の体が不規則に痙攣しているのだった。静かに寝息をたてていたかと思うと、急に歯を食いしばって体を硬直させる。そして突然ビクンと体を痙攣させる。何か辛い夢でも見ているのだろうか、眉間には深く皺が刻まれている。そっと美穂の肩に手を回してやると、口元からかすかな寝言が漏れた。

「とうちゃん、ごめん」

 閉じている美穂の瞼から一筋、涙がこぼれた。大輔の前でいつも明るくふるまっている美穂は、この華奢な肩で一体、どんな過去を背負っているのだろうか。美穂は何も話さないし、大輔も何も聞かない。ただ、いつか自分もその重荷を分かち合いたいと願った。


 秋も深まったある朝、美穂が旅行鞄を抱えて部屋から出てきた。

「大輔さん、しばらく実家に帰ります」

 美穂の口から実家という言葉を聞いたのは、この時が初めてのことだった。

「高校を卒業して以来、ずっと帰っていなかったのだけど、父が危篤なんです。私、幼い頃に母を病気で亡くし、父だけが唯一の残された肉親なの」

 伏し目がちにそう言う美穂の表情は髪に隠れてよく見えなかったが、明らかに動揺している様が見てとれた。

「そうか、お父様の容体が回復することを祈っているよ」

 大輔の言葉に力なく頷くと、美穂は無言で出ていった。


 翌日の夜、大輔の携帯が鳴った。画面を見ると非通知の文字。何かのセールスかと思ったが、画面をタップした。ざわざわとした雑音とともに、聞き覚えのある声が漏れてくる。

「あ、大輔さん。美穂です。残念ながら昨日、父の臨終には間に合いませんでした。急遽、葬儀を今日、執り行ったところです。」

 沈んだその声からは、深い悲しみが伝わってきた。いつかの晩、美穂が発した寝言が頭に蘇る。父ちゃんという言葉が妙に生々しく美穂の濃密な親子関係を想像させた。

「そうか、何と言っていいか分からないけど、ご愁傷さまでした」

 気の利いた言葉が出てこない自分がもどかしい。

「明日、友達と会うことになったので、もうしばらくこちらに滞在します」

 美穂から郷里の友達という言葉を聞いたのも初めてのことだった。高校卒業以来、久しぶりに会うのだろうか。かつての友と会うことによって、父を失った悲しみが少しでも癒えるのなら良いことだ。

「気の済むまでゆっくりと過ごしたらいい。疲れが出ないようにね」

 電話の向こうで美穂がコクリと頷く気配がした。

 

 それから四日後、大輔が編集部の人間と打ち合わせをしている時、胸元の携帯が振動した。マナーモードにしていたので、そのまま留守電につながるはずだ。打ち合わせが終わり、携帯を取り出すと非通知の着信履歴と留守電の表示。再生ボタンをタップすると、雑音に交じって美穂の声が流れてきた。

「ひょんなことから、とんでもない事実を探り当ててしまったかもしれないの。もう少しこちらに滞在することにします。コンサートには間に合うように帰ります」

 幾分興奮気味のその声を聞き、美穂の好奇心に満ちた瞳が思い出された。父の逝去のショックから少しは立ち直ってきたのだろうか。

 コンサートとは、美穂が楽しみにしているNiziUのコンサートのことだ。美穂はNiziUの大ファンだった。大輔はそのグループの名前くらいしか聞いたことがなかったのだが、この九人組のガールズグループは若い女性に圧倒的な人気を誇っているようだった。韓国での厳しいレッスンに耐えた少女たちのレベルの高いパフォーマンスに美穂は夢中だった。特にメンバーの中のリクがお気に入りで、彼女にあやかって自分の髪も金色に染めたのだという。当然、コンサートチケットを手に入れるのは至難の業で、美穂は残念ながら一度もライブを見たことはないと言っていた。それを聞き大輔は何とか美穂の望みをかなえてあげたいと、ダメもとで雑誌業界の知人のつてを頼ったところ、偶然、十一月十三日の東京ドームコンサートのチケットを一枚、譲り受けることができたのだった。チケットを渡した時の美穂の喜びようは尋常ではなかった。頬を上気させ、ぴょんぴょんと跳ねたかとおもうと、歓喜の悲鳴を上げながら勢いよく大輔に抱きついてきた。その光景を思い出すたびに大輔の頬は緩むのだった。今日はまだ十一月八日だ。コンサートまで故郷でゆっくりすればいい。どのような理由があったのかは知らないがずっと離れていたのだから、久しぶりに会いたい人たちもいることだろう。


 その後数日、美穂からの連絡はなかったが、特に心配はしなかった。きっと今頃、旧友たちと昔話に花を咲かせているのだろう。しかし、ずっと一緒にいる生活に慣れていたせいか、美穂がいなくなると何か大きなピースが生活から欠落してしまったようで落ち着かない。執筆も今一つ手につかないことに気づいた。美穂はまるで俺のミューズだなと、一人苦笑いをした。


 しかし、何の連絡もないまま土曜日になると、さすがに心配になってきた。あんなに楽しみにしていたコンサートはいよいよ明日だ。さすがに今夜までには戻ってくるだろう。

 しかし、夜になっても美穂は帰ってこなかった。食卓の上にはコンサートチケットが置かれたままだ。家に立ち寄らずにコンサートに直接行くことはあり得ない。深夜、何度か美穂の携帯に電話をかけてみたが、その度に「おかけになった番号は…」という冷たいメッセージが返ってくるだけだった。そう言えば、美穂からかかってきた電話は非通知だった。携帯を持っていくのを忘れたのだろうか。何か事故でも起きていなければよいのだが。そもそも美穂はどこに行ったのだろう。こちらとは一体どこのことだ。


 うまく眠れないまま日曜の朝を迎えた。依然、美穂は帰ってきていない。ネットを開いてニュースを確認してみる。闇バイトによる強盗やSNS上での虐めによる女子高生の自殺など気の滅入るようなものばかりで、交通機関の事故や遅延を報じているものは見当たらなかった。再度、美穂の携帯に電話してみるが、何度試しても同じメッセージが流れるだけだ。

 結局、何も手につかないまま夕刻を迎える。既に東京ドームではコンサートが始まっている時間だ。やはりおかしい。あれだけNiziUのコンサートを楽しみにしていた美穂が連絡もなく帰ってこないなど考えられない。大輔は急に不安になってきた。何か尋常でないことが美穂の身の上に起きたのではないだろうか。

 更に時間は過ぎ、夜が更けていく。コンサートはとうに終了している時間だ。朝から何も食べていなかったことに気づいたが、何も食べる気にならなかった。明日が締め切りの原稿があることを思い出すが、とても机に向かう気にならない。美穂という存在が自分にとっていかに大きなものだったかをあらためて痛感する。

 何をどうしていいか分からないまま、ただうろうろと部屋の中を歩き回っているうちに不安は更に高まっていった。もしかすると美穂は助けを必要としているのではないだろうか。ふと、そんな考えが頭をよぎった。今すぐにでも助けに行くべきなのではないだろうか。時間が経つほど、美穂を取り巻く状況は悪化してしまうのではないか。何の根拠もなかったが、美穂の身に何か良からぬことが起こったのではないかという不安が時間と共に増大していく。やがてそれは抑えきれないほどの衝動と化す。このまま部屋で待っているわけにはいかない。手遅れになる前に行動を起こさなくては。しかし、一体どこへ行けばよいのだ。美穂は自分の故郷のことを今まで一度も語ったことがなかった。美穂の実家の場所など見当もつかない。いや、冷静になって考えてみよう。そもそも美穂はどうやって父親が危篤だということを知ったのだろうか。父親本人か周囲の人が美穂に連絡をしてきたはずだ。その場合、電話か手紙かメールか。電話かメールだった場合には美穂の携帯がここにない限り、何も手掛かりを得ることができない。ただ、手紙の可能性もあるはずだ。その場合、美穂はその手紙をどこにしまったのだろうか。

 二人で今のアパートに引っ越してきて以来、大輔は美穂の部屋に入ったことはなかった。一緒に暮らしているといっても、美穂のプライバシーを侵すことはしたくなかったからだ。ただ、今は非常事態だ。後で美穂に叱られるかもしれないが、このまま何もしないよりはましだ。そっと美穂の部屋の扉を開けてみた。かすかに淡いアロマの香りが鼻孔をくすぐる。狭い部屋にはほとんど家具はなかった。小さなベッド、小さな木の机、そして簡素な鏡台。二人で引っ越しをするときに全て美穂が量販店で買ってきたものだ。大輔との新生活を始めるにあたり、過去を思い出すような古い家具は一新したいと美穂が言っていたことを思い出す。そうやって美穂は過去を振り払い、常に前だけを見つめて生きてきたのだろう。しかし郷里の父親の危篤という連絡を受けて、再び過去に舞い戻ってしまった。そしてそこで何かが起きたのだ。大輔は片隅に置かれた机に歩み寄ると、悪いと思いながらも引き出しに手を伸ばした。三つある引き出しの上二つには仕事関連の原稿や資料が整然と納められていた。一番下の引き出しを開けると、何やらカラフルな小物がたくさん詰まっているのが目に入る。よく見ると、それはNiziUのファングッズだった。写真集、キーホルダー、ハンカチ、バッジ、アクセサリー、全てにNiziUのメンバーたちの愛らしい笑顔が溢れている。よくまあこれだけ集めたものだ。こんなに好きなのに、どうしてコンサートまでに戻ってこないのだ。

 結局、机の引き出しからは何も手掛かりを得られず、大輔はベッド脇の鏡台に視線を移した。女性の鏡台、それは男の大輔には全く馴染みのないものだったが、最もプライベート臭の強い、他人が手を触れてはいけない聖域に思えた。しかし、大切な手紙をしまうとするならばここではないだろうか。募る罪悪感を胸の内に抑えつけながら恐る恐る、鏡台の小さな引き出しを開けてみる。手前にはカラフルな化粧品と見慣れない化粧道具が収納されていた。その奥に何か箱のようなものが見える。引き出しをまるごと鏡台から引き抜いてみた。奥にあったのは古い文箱だった。途端に心臓の鼓動が速くなる。文箱に手を伸ばし、そっと箱を開けてみる。中には封書の束が収納されていた。全て美穂宛てに届いたものだった。裏の差出人名を見ると、どれも葦原恵美子という女性からのものだ。咄嗟に差出人住所に目を移す。そこには鳥取県日野郡日南町卑埜忌村(ひのきむら)とあった。美穂は鳥取県出身だったのだろうか。束の一番上の封書には速達の印が押されていた。消印は十一月一日、美穂が出かける二日前のものだ。恐らく、この速達が父の危篤を知らせるものだったのだろう。今まで他人に届いた手紙を無断で読んだことなど一度もなかったが、意を決して封筒から中の便せんを取り出し広げてみた。そこには青いインクの丸っこい手書き文字が並んでいた。


 美穂へ、お父さんが危篤です。数日前からこじらした肺炎がかなり悪化しています。美穂がお父さんに複雑な思いを持っていることは知っていますが、一応、お知らせしておきます。恵美子


 やはり、美穂はこの速達を受け取って郷里に向かったのだ。そして美穂の郷里は鳥取の卑埜忌村というところなのだろう。大輔は早速、ネットで鳥取県の地図を検索してみた。日南町は鳥取県の中でも西南の外れ、海からは程遠い中国山地の奥深くに位置していた。その西隣はもう島根県の奥出雲町だ。県境に船通山という山があり、その鳥取県側の山麓に卑埜忌村という小さな表記を見つけた。初めて聞く村名だ。東京の街を颯爽と飛び回る美穂の姿と山陰の奥深い村とが、どうもうまく重ならなかった。

 葦原恵美子という女性は美穂とどういう関係なのだろうか。一旦、美穂宛の手紙を読んでしまった今、自制心のたがが外れてしまったようで、大輔はつい速達の下の封筒にも手を伸ばしてしまった。消印は半年ほど前の日付だ。罪悪感に勝る好奇心に抗うことができず、中の便せんを取り出した。


 美穂へ、久しぶりに美穂から近況が聞けて、とてもうれしく思います。ずっと連絡がなかったからどうしているかと思っていました。そうですか、そんなに才能のある素敵な男性とお付き合いをしているとは、本当に良かったですね!今の美穂がとても幸せなこと、文面からよく伝わってきました。私もうれしいです。東京に出てから今まで随分と苦労をしたのだから、存分に今の幸せを堪能してくださいね。私は結婚してもう七年になりますが、まだ子供もできず啓一と二人の相変わらずの生活です。ここは時間が止まったような日々が続いていますが、歳だけはどんどん取ってしまいます。またお手紙くださいね。楽しみにしています。恵美子


 葦原恵美子の丸っこい文字を追いながら、大輔は目頭が熱くなるのを感じた。半年前の消印ということは、美穂と暮らし始めて数か月が経った頃だ。美穂がお世辞ではなく本当に大輔の才能を信じてくれていること、そして大輔との生活に幸せを感じてくれていることを葦原恵美子に報告をしたのだろう。美穂に対する愛おしい感情がこみ上げてくるとともに、その安否に対する不安が再び襲ってきた。今すぐにでも卑埜忌村に美穂を探しにいかなくては。

 葦原恵美子からの残りの手紙の消印は、どれも大輔が美穂と知り合う前のものだった。恐らく数年に一度といった頻度で二人は手紙をやり取りしていたのだろう。さすがに自分と知り合う以前の美穂宛てに届いた手紙を開ける気はしなかった。

 何の気なしに封書の束をめくっていると、一番下に筆跡の異なる文字が書かれた一通の封書を発見した。差出人名を見ると、山根巌とある。その途端、とうちゃん、という美穂の寝言が頭をよぎった。封筒は全体に黄ばんでおり、随分前に受け取ったもののようだ。消印を確認すると、十年ほど前の日付が押されている。宛先にある美穂の住所は東京都あきる野市となっている。美穂が東京に出てきてからまだ間もない頃に住んでいた場所なのだろう。肉親からの手紙は、友人からの手紙以上に開けてはいけないと思えたが、大輔は既にたがが外れてしまった自分の好奇心を抑えることができなかった。震える手で中の便せんを取り出して開く。黒いインクの力強い筆跡が目に飛び込んできた。


 美穂へ、手紙などを送ってくるのはやめなさい。お前は卑埜忌村を捨てたのだから、ここのことはもう忘れなさい。お前が出ていったあと、純平君は自暴自棄になり、俺は黒い手紙に悩まされている。二度と村に足を踏み入れることのないように。巌


 やはり美穂の父からの手紙のようだ。それにしても厳しい内容の文面だ。一体、二人の間で何があったのだ。たった一人の肉親から拒絶されながらも、美穂はその手紙を捨てることができなかったのだろう。ずっとこの手紙を大切に保管していた美穂の心の内を想うと、胸が痛んだ。大輔は丁寧に便せんを折り畳み、封筒に戻した。それにしても文中に出てくる純平とは誰だろう。そして黒い手紙とは一体何のことだ。いずれにせよ、一刻も早く美穂を探しに卑埜忌村に行かなくては。何かが起きているのだ。美穂の無事を祈らずにはいられなかった。

 大輔は卑埜忌村について調べてみようとインターネットで検索をかけてみた。しかし鳥取県の市町村の一つということ以外、ほとんどめぼしい情報は見つからなかった。今の時代、ほとんどの自治体が独自のホームページを開設しているにもかかわらず、卑埜忌村のホームページは存在していなかった。観光情報らしきものも一切見つからない。地方の自治体がお互いに競い合いながらその存在をアピールしている昨今、不思議なほど存在感の希薄な村だった。しかし、地図を見ると確かに鳥取県の奥深くに存在している。宿泊施設などがあるのかも不明だったが、大輔はとにかく卑埜忌村に向かうことにした。


第三章 卑埜忌村


 翌朝、一番早い便で羽田を飛び立った。米子空港に降り立ちJRに揺られること二時間弱、日南町の生山駅に到着する。地図を見ると卑埜忌村はここから更に山間に奥深く入ったところのようだ。駅前のひなびた観光案内所で卑埜忌村への行き方を尋ねると、近くまではバスで行けるとのことだった。ついでに宿泊施設について聞くと、村に一軒だけきこり荘という民宿があるとのことだったので、今晩の宿泊の予約を入れてもらった。しかし、卑埜忌村に関する観光パンフレットの類はないとのことだった。

 指定されたバス停で待つこと三十分、やっと現れたのはバスとは名ばかりで、定員九人ほどの小さなワンボックスカーだった。乗客は大輔の他には見当たらない。程なくしてバスは出発した。

「お客さん、どちらまで」

 優に古希は過ぎていそうな運転手の男が、伸びた白い眉毛に隠れてしまいそうな小さな目を瞬かせながらルームミラー越しに聞いてきた。

「土蜘蛛口で降ります」

 先程の観光案内所で教えてもらったバス停の名前を口にすると、運転席の老人はしばらく無言でルームミラー越しに大輔を見つめていたが、やがて小さく頷いた。

 しばらく車は収穫を終えたばかりの棚田の中を走っていたが、やがて深い木立に覆われた山道へと入っていく。深い沢に沿って湾曲した道を静かに進んでいく。老人と二人きりの車内は不快なほど暖房がきいていて、時折かすかな加齢臭が鼻をついた。かすかに窓を開けると、晩秋の澄んだ空気が流れ込んでくる。静かなエンジン音を響かせながらバスはひたすら木立の中を進んでいく。

 興味を持たれているのか、時折、老人がルームミラー越しに大輔を観察しているのが分かったが、気づかないふりをして窓の外を流れる景色に視線を預けていた。不意に老人が口を開いた。

「あんた、尾呂血湖おろちこに行くのかい?」

 一瞬、何のことだか分からなかった。前方を見やると、ミラー中の老人と目が合った。

「尾呂血湖?」

「卑埜忌村にある湖じゃ」

 老人はくねくねとした峠道を運転しながら、ミラー越しにちらちらと視線を送ってくる。大輔はせっかくだからこの老人に卑埜忌村のことを聞いてみることにした。

「卑埜忌村に行くつもりなのですが、湖があるのですか」

 ミラーの中の老人が頷いた。

「いつも霧に覆われていて、なかなかその全貌を現わすことのない湖だそうじゃ。高地にあるので周囲から流入する河川がなく、湧き水だけでできておるらしい。その昔、須佐之男命すさのおのみことが剣の血を洗ったという言い伝えが残っておる」

 老人はミラー越しに幾分得意げな表情を浮かべた。

「須佐之男命はお隣の島根県出雲の話ではなかったでしたっけ?」

 鳥取県で須佐之男命の名前を聞くとは意外だった。確か古事記の記述では須佐之男命は天照大神の弟だったが粗暴なふるまいにより高天原を追放され、出雲に降り立ったはずだ。

「このあたりは昔、伯耆ほうきの国と言ってなあ、お隣の出雲の国と一つの文化圏だったのじゃ。だから出雲神話と言われるものの半分は、元々ここ伯耆に残っていた伝承じゃ。須佐之男命にまつわる言い伝えも随分とこの辺りに残っておる。この地域が鳥取と島根に分かれたのはずっと後になってからのことじゃ。」

 老人はその後もおらが国、伯耆について誇らしげに語り続けた。老人によると伯耆は古代より独自の先進文化が栄えた地域で、古事記にもその地名が残っているそうだ。当時の重要戦略物資であった鉄の生産を一手に担っていたらしい。

「伯耆は古代の昔から良質な玉鋼を生み出すたたら製鉄が盛んでのう、日本で最初に鉄製の刀剣を作り出したところなのじゃ。お客さん、伯耆安綱ほうきやすつなの名前を聞いたことはあるかのう?」

 ミラーの中の老人がどや顔を見せた。大輔はミラーに向かって首を横に振る。

「平安時代に活躍した伯耆の刀匠じゃ。酒呑童子の首を切り落としたと言われる天下五剣の一つ、童子切安綱どうじぎりやすつなも伯耆安綱の作じゃ。今では国宝として東京の国立博物館に展示されておる」

 一通り老人の語りを拝聴し、区切りの良い所で大輔は質問をした。

「ところで卑埜忌村はどんなところなのですか」

 先程までの得意げだった表情がふっと消え、困惑の色が浮かんだ。

「昔から変わった村じゃった」

 そこで老人は口をつぐんでしまった。大輔は老人の反応に興味を抱き、その先を促した。

「どう変わっているのですか」

 老人はしばらく口をもごもごさせていたかと思うと、おもむろに語りだした。

「このあたりでは一番古くからある村でのう、奈良の時代より前から存在していたらしい。ただ、ひどく閉鎖的な村で昔からわしら近隣の村とはほとんど交流がないのじゃよ。バスの乗り入れも頑なに拒否しておって、このバスも土蜘蛛口までしかいかんのじゃ。おまえさんもそこから三十分ほど峠道を歩くことになる」

「おじさんは卑埜忌村に行ったことはあるのですか」

「いや、ない」

 そう言うと老人はピタリと黙ってしまい、その後は大輔に視線を送ることもなく、眉間に皺を寄せたままただくねくねとした道を無言で運転するだけだった。


 老人に礼を言い土蜘蛛口のバス停で降りると、いきなり深山の冷涼な空気に包まれた。鬱蒼とした原生林の葉擦れのさざめきと、沢から聞こえるせせらぎの音が耳に心地よい。卑埜忌村へはバス道路から脇に伸びる沢伝いの林道をまっすぐ歩けば着くとのことだった。雑草に覆われた林道にはくっきりと轍の跡が前方へと続いている。恐らく卑埜忌村との間に最低限の車の往来はあるのだろう。

 樹々から降り注ぐ野鳥の鳴き声を全身に浴びながら、杉の巨木の間を縫う林道をひたすらに歩いた。まだ陽は高く、森のあちらこちらに柔らかな木漏れ日が射しこんでいる。周囲には針葉樹特有の清涼感のある香りが充満している。時折目にする広葉樹は、その鮮やかな紅葉で大輔の目を癒してくれた。

 道はしばらく沢に沿って続いていたが、やがて沢から離れ徐々に上りの勾配を強めていった。息が上がり額や首筋に汗が滲んでくる。背負ったリュックの重さが肩に食い込んでくる。日頃、机に向かって執筆ばかりしている大輔にはこたえる坂だったが、原生林が放出する濃密な酸素が肺の隅々にまでいきわたることが気持ちよかった。

 峠に到達する頃、胸元の携帯が鳴った。画面を見ると編集部の担当者の名前が表示されている。恐らく、今日が締め切りの原稿の催促だろう。今はとても電話に出る気にならなかった。そのまま無視し続けると、留守録につながり静かになった。

 峠を越え下り道が始まると、あたりの空気が一変する。それまで抜けるような青さを見せていた空はいきなり灰汁色の鈍重な雲に覆われ、穏やかな温もりは麓から吹き上げてくる冷たい風によって一気に追いやられた。軽やかに歌う小鳥たちはいつの間にか姿を消し、代わりに樹上に群れを成す漆黒のカラスたちの威嚇するような視線が大輔に向けられている。冷気のためか大輔は思わず身震いをした。その時、ふと路傍に何かの気配を感じた。大輔に向けられた威圧するような視線。ぎょっとしてそちらを見やると、生い茂るクマザサの隙間からこちらを睨みつけている古い石像と目が合った。地蔵ではない。歯を剥き目を大きく見開き今にもこちらに襲いかかってくるような恐ろしい形相で、通る者を威嚇している何かの像だ。土地の道祖神だろうか。かなり古いもののようで、表面は長年の風雨で洗われ一面苔に覆われている。その後も数体の石像を目撃した。邪鬼や野獣などそれぞれに異なった風貌をしていたが、どれも恐ろしい顔でこちらを睨んでいることに変わりはない。何のための像だろうか。まるでここから先に足を踏み入れる旅人を拒んでいるかのようだ。

 下りの傾斜が緩くなってくるとやがて森が途切れ、前方の視界が開けた。どんよりと曇った空の下、眼前の斜面には畑や放牧地が広がり、その間にいくつかの民家が点在しているのが見える。どの家も庵のような風情の質素なものばかりだ。その向こうには湖が広がっているようだったが、そのあたりは深い霧に覆われていて全貌は見えない。ここが卑埜忌村、そしてあの湖が尾呂血湖だろうか。この村のどこかに美穂がいるはずだと思うと、自然と胸が高鳴った。大輔はもうすぐ美穂に会えるはずだと逸る気持ちを抑えながら、足早に峠道を下っていった。

 そこは山奥に突然出現した、隠れ里のような村だった。中心の湖を護るかのように周囲のなだらかな丘に集落が形成されている。まだ陽のある時間のはずだったが、空を覆う鉛色の厚い雲のせいで村全体はどんよりと暗く沈んでいる。侘び色に干からびた水田の脇には収穫したばかりの稲が束にされて稲架に干されている。どこからか枯草を燃やしているような煙臭が晩秋の風にのって流れてくる。いくつかの民家からは囲炉裏の煙が立ち上っている。

 まずは一刻も早く美穂の実家を訪ねてみたかった。もしかしたらそこで美穂に会えるかもしれない。山根巌氏の住所はメモしてあった。携帯を取り出し、グーグルマップを開こうとしたがつながらない。いつの間にか圏外になっていた。先程の峠ではつながっていたのに。美穂が自分の携帯から連絡してこなかったことを思い出した。恐らく美穂はどこかの固定電話を借りて電話をしてきたのだろう。仕方がない、誰か村人を見つけて山根家の場所を尋ねてみよう。しかし、何故かなかなか村人には遭遇しなかった。目に入るのは野良犬ばかりだ。今どき、野良犬がいるとは珍しいことだ。奥州で過ごした少年時代を思い出す。子供の頃には郷里でも野良犬をよく見かけたものだが、東京に出てきて以来その存在をすっかり忘れていた。犬たちには野犬のようなどう猛さは感じられず、どの犬も愛嬌を見せながら尻尾を振り付きまとってくる。何も餌になるようなものを持っていないことを犬たちに詫びながら人影を探した。

 たまに遠くで作業をしている村人を見かけるのだが、大輔が近づこうとするといつの間にか小屋の中に入ってしまい、なかなかつかまえることができない。しばらく歩くとようやく前方に一人の老婆を発見した。畔道に腰を下ろして湖の方角を一心に見つめている。ぱさぱさに黄ばんだ白髪と染みの浮き出た土色の顔。粗末な着物からは枝のような手足が覗いている。大輔は相手を驚かせないようにわざと大きな足音を立てながらゆっくりと老婆のもとに歩み寄っていった。そして愛想のよい笑みを浮かべながら老婆に話しかけた。

「すみません、道を尋ねたいのですが」

 老婆は聞こえないのか、黙って湖を見つめたままだ。

「すみません」

 もう一度声をかけると、老婆は独り言のように言葉を発した。

「こんなはずではなかった」

 途端に熟柿のような嫌な臭いが周囲に広がる。足元には徳利が数本転がっているのが目に入った。老婆はその後も独り言をぶつぶつと口の中で呟き続けた。湖を見つめるその瞳は濁って焦点を失っている。酩酊しているのだろう。大輔は諦めて老婆のもとを離れた。

 その後も村人をつかまえることができず、そうこうしているうちに湖畔に辿り着いてしまった。穏やかな波が粒の細かい白浜に静かに打ち寄せている。湖は峠から見た時よりもずっと大きいようで、鈍色の湖面が霧の彼方まで続いている。先程は気がつかなかったが、どうやら沖合には島があるようだ。湖面を覆う深い霧の切れ目から、鬱蒼とした樹木が茂る島の断片をかすかに垣間見ることができた。時折、湖を渡る風とともに何とも言えない高雅な香りが流れてくる。馥郁とした優美な香り。島で誰かがお香でも焚いているのだろうか。

 沖合からの冷たい風を受けながらしばらく湖沿いの道を歩くと、やがて古い木造の郵便局に出くわした。戦前からあるようなレトロな趣の建物だ。ちょうど良かった、ここで道を尋ねようと、古びた木の扉を押し開く。思いがけずにギギッと大きな音が響いた。途端に扉の向こうから刺すような視線が大輔に向けられる。窓口には事務の女性が一人、その奥に中年の男性局員、そして窓口の手前に佇む一人の老人、その全員が大輔に向かって一斉に射るような視線を浴びせかけてきたのだ。大輔は一瞬怯むも、視線を押しよけるように窓口に歩み寄り、笑顔を作りながら声をかけた。

「あの、道を尋ねたいのですが」

 女性は聞こえていないのか、驚いたような顔でただ大輔を見つめている。大輔は構わず続けた。

「山根巌さんのご自宅にお伺いしたいのですが」

 女性は強張った顔で大輔を見つめていたかと思うと、助けを求めるように後ろの男性局員を振り返った。男性局員は大輔に視線を定めたまま、奥の自席から窓口にやってきた。

「あんたはどちら様?」

 男は棘のある警戒感を隠そうともしなかった。道を尋ねただけで、こちらの素性を聞かれることに軽い違和感を覚えたが、大輔は顔に貼り付けたままの笑顔を男性局員に返した。

「舘畑といいます。山根巌さんにご焼香をしたいとおもいまして」

 男性局員は探るような視線を大輔に向けながら、しばらく迷っているようだったが、やがて大輔から視線を逸らすと吐き捨てるように言葉を発した。

「うちは交番じゃないから、他で聞いてくれ」

「教えてやればよいではないか」

 突然、手前に佇んでいた老人が割って入ってきた。髪も髭も真っ白く、白衣を着て紫色の袴をはいている。神職関係の人だろうか。男性局員は睨みつけるような視線を老人に向けた。

「まあよい、舘畑さんとやら、私が教えてやろう」

 老人はそう言うと柔和な笑顔を浮かべながら、扉の外へ大輔を連れ出した。そして山根家までの道筋を丁寧に教えてくれたのだった。


 老人に丁重に礼を言って、教えてもらった道を再び歩き出した。山根家は湖畔から斜面を上った田園地帯にあるそうだ。秋蒔きの葉物野菜が実る畑や、収穫を終えて水の抜かれた田んぼの畦道を歩く。どこからともなく野良犬たちが寄ってきて、しっぽを振りながら後をついてくる。皆、あまり痩せていないところを見ると、村人たちから頻繁に餌をもらっているのだろう。自由に生きながら餌に不自由をしないとは、犬にとっては理想的な生活だ。飼い主の玩具に成り下がった都会の飼い犬たちが哀れに思えてくる。

 時折、焚火の燻すような匂いが漂ってくるが、相変わらず人影は見当たらない。落穂目当てに集まっていたカラスの一群が大輔を警戒して一斉にバタバタと飛び立っていく。

 背中に軽く汗を感じはじめた頃、前方に古い粗末な平屋建ての木造家屋が見えてきた。きっとあれが山根家だろう。美穂が生まれ育った場所。美穂がずっと語ることのなかったプライベートの奥深くを覗き見るような気がして、軽く気が咎める。しかし美穂と音信不通となってしまった今、ここで引き返すわけにはいかない。それにもしかしたら、美穂はあの家の中にいるかもしれない。一人、病に臥せっていることも考えられる。自然と足が速くなった。

 その平屋の周囲にも小さな水田と畑があったが、水田の稲は収穫されることもなく全て無残に枯れ果て、畑は旺盛な雑草に覆われていた。その脇には錆びた農機具が無造作に放置されている。軒先に掲げられた古い表札には、かろうじて判読できる墨文字で山根と書かれている。確かにここだ。大輔は玄関の外から声をかけた。

「ごめんください。どなたかいらっしゃいますか」

 中から美穂の弾けるような声が返ってくることを期待したが、いくら待っても返事はない。晩秋の寂しい風の音だけが耳元で鳴っている。いつの間にか犬たちもいなくなっていた。一瞬の躊躇の後、思い切って木の扉を横に押し開いてみた。鍵はかかっていなかった。家の中は玄関から一望できるほどの狭さだ。八畳ほどの居間と小さな板間の台所、たったそれだけだ。人影はない。枯色に退色した畳は擦り切れており、所々補修の跡が目立っている。居間の中心には囲炉裏があり、傍らには赤く錆びた鉄瓶が転がっている。大輔は玄関で靴を脱ぎ、恐る恐る畳に上がってみることにした。一歩踏み出すたびに床が軋み、かすかにカビの匂いが鼻先に漂う。周囲を見渡すと、粗末な棚の上に幾つかの写真立てが置かれ、色褪せた写真が掲げられている。制服を着た少女が校門の前で緊張気味に微笑む姿、父と思しき男性と仲睦まじく浴衣を着てはしゃぐ少女、ロウソクが掲げられたケーキの前で無邪気な笑顔を見せる少女、全て同じ少女だ。好奇心の強そうな大きな瞳、屈託のない笑顔、それは一目で美穂だと分かった。美穂の父はあの手紙を送った後も、きっと美穂の面影を大切にして生きてきたのだろう。大切に飾られている自分の写真を目にした時、美穂はどんな思いだったのだろうか。心の奥に抱えていた懊悩を少しは軽くすることができたのだろうか。美穂が父の臨終に間に合わなかったことが改めて悔やまれた。

 室内を見回すと、部屋の片隅に見覚えのある旅行鞄を発見した。美穂が出かけていった朝に持っていたものだ。旅行鞄の脇には愛用していたハンドバッグもある。美穂は旅館をとらず、ここに滞在しているのだろうか。今、自分は美穂のすぐ近くにまで来ているという感覚がこみ上げてくる。もうすぐ美穂に会えるはずだ。そう思うと胸の奥にじわっと温かいものが広がっていく。ただ、何故かこの場所には人が生活をしている気配が全く感じられないことが気がかりだった。

 更に部屋の中を見渡すと、北側の片隅の床に妙なものが置かれていることに気づいた。木製の小さな社のようなもの。かなり古い物のようだ。正面の扉は閉ざされ、その手前に形の異なる小さな白い陶磁器が並べられている。水や塩や酒をお供えするためのもののようだが、どれも中身は空っぽだった。恐らくこの社のようなものは、仏教の位牌にあたる霊璽れいじを納めるための祖霊舎それいしゃだろう。山根家は神道を信仰していたのだろうか。そうすると、恐らくあの扉の中には美穂の父の霊璽が納められているはずだ。

 何気なく手元に視線を戻した時、何か違和感のあるものが視界に入った気がした。咄嗟にそちらの方向に視線を戻す。囲炉裏の灰の上にくすんだ色の薪のかけらが幾つか転がっている。そしてその中に、なにかが燃え残って散乱している。紙のようなもの。大輔は軽い胸騒ぎを覚えながら、その燃え残りを手に取ってみた。それはハガキの燃え残りだった。かろうじて残っている宛名を見ると、全て山根巌宛てとなっている。差出人名はどこにも書かれていない。そして奇異なことに裏面は一面黒く墨で塗りつぶされている。何だ、これは。ふと、美穂の父の手紙の文面が頭をよぎった。黒い手紙に悩まされている。黒い手紙、一体これは何なのだ。何か意味があるのだろうか。手紙を持つ腕に思わず鳥肌が走る。

 大輔は冷えた畳の上に胡坐をかき、美穂の帰りを待ち続けた。時折、風が木戸を揺らす音の他は何も聞こえない。誰もいない部屋の中、静かな時間が過ぎていく。片隅の旅行鞄をぼんやりと見ながら美穂のことを考えた。一体どこにいるのだ。ここで生活をしているのなら何故、連絡をしてこないのか。いつまでここにいるつもりなのだ。何か連絡ができない事情でもあるのだろうか。いくら考えても分からないことばかりだった。

 どのくらい、そうしていただろうか。急にあたりが薄紫色の夕闇に覆われていることに気づいた。しんしんとした冷気が体を包み込む。大輔は一度身震いをすると、おもむろに立ち上がった。暗くなる前には宿に入りたい。また明日、ここを訪ねてみよう。そう思い玄関に向かおうと思った矢先、ふと北側の壁の暗がりに置かれた祖霊舎に目がとまる。そうだ、せっかく来たのだから美穂の父に焼香だけでもしておこう。神道に焼香というものがあるのかどうか分からなかったが、とりあえず山根巌氏の霊璽に手を合わせておこうと、祖霊舎の前にひざまずいた。それは縦横五十センチほどの大きさで社のような屋根をもち、全体は檜でつくられていた。正面の扉は閉ざされている。小さな取っ手に両手をかけ手前に引くと、扉は簡単に開いた。中には檜の鞘に覆われた霊璽が安置されていたが、意外にもそれは全部で三つあった。一つはかなり古く飴色に色褪せている。あとの二つはまだまっさらな白木のままだ。古い方の霊璽を手に取り鞘を外してみると、霊璽本体には山根澄江命之霊という(おくりな)が書かれていた。裏を見ると、平成七年二月十日帰幽とある。美穂が幼い頃に亡くなった母のものだろう。美穂が父子家庭で育ったと言っていたことを思い出す。次に隣の真新しい霊璽を手に取り、鞘を外してみた。霊璽本体には山根巌命之霊とあり、裏には令和四年十一月三日帰幽とあった。美穂が東京を発った日だ。ほんのわずかの時間差で父の臨終に間に合わなかったというわけか。せめて最後に一言、父と言葉を交わしたかっただろうに。落胆した美穂の顔が目に浮かぶとともに、深い憐憫の情が胸に込み上げてくる。そっと山根巌の霊璽を祖霊舎に戻して合掌する。目を開くと隣の霊璽が視界に入った。それは山根巌の霊璽と同様にまだ真新しい白木のままだった。一体誰のものだろう。心臓の鼓動が不規則になり、嫌な予感が全身を駆け抜ける。大輔は恐る恐るその霊璽に手を伸ばしてみた。鞘を外そうと思ったが、何故か躊躇した。霊璽を持つ手はかすかに震えている。いや、そんなはずはない。息を呑みながら思い切って鞘を外してみた。そして無理やり視線を霊璽本体に向ける。白木の表面に並ぶ墨文字。次の瞬間、息が止まり背筋が凍った。そこには、真新しい墨文字で山根美穂命之霊と書かれており、裏には令和四年十一月九日帰幽とあった。最後の留守電が残されていた日の翌日だ。何だ、これは。霊璽を持つ手がブルブルと激しく痙攣する。苦い胃液が喉元に逆流する。何故、美穂の霊璽があるのだ。一体どういうことだ。誰がこんな質の悪い悪戯を、縁起でもない。全身を鳥肌が駆け巡る。思わず畳の上に尻もちをついた。その音に驚いたように屋根の上のカラスたちが一斉に気味の悪い鳴き声を上げた。

 やっとの思いで霊璽を祖霊舎に戻すと、混乱した頭を抱えながら大輔は家を飛び出した。一刻も早く外の空気を吸いたかった。屋根の上に陣取っていたカラスたちがバタバタと飛び立っていく。既に辺りは薄暮に包まれていた。美穂は一体どこにいるのだ。教えてくれ。誰かいないか。畑の向こうの家の庭で野良着の女性が洗濯物を取り込んでいる姿が目に入る。大輔は狂ったようにそちらに向かって走り出した。女性はすごい形相で走ってくる大輔に気づくと、慌てて家の中に逃げ込んでしまった。大輔はその家の玄関に辿り着くと、無遠慮に扉を叩いた。

「すみません、教えてください。山根美穂はどこにいるのですか」

 応答はない。構わず扉を叩き続けた。

「美穂を探しているのです。誰か、教えてください。お願いです」

 大輔が叫び続けているとやがて扉が開き、中から険しい顔をした壮年の男が顔を出した。

「お前は誰だ」

 男は右手に農作業用の鎌を構えていた。

「舘畑と言います。東京から山根美穂を探しに来ました。お願いです、山根美穂がどこにいるか教えてください」

 男は哀願する大輔の様子をしばらく見ていたかと思うと、やがて鎌を構えていた腕をそっと下におろした。

「山根さんとこの娘さんは死んだよ。親父の後を追うようにね」

 男の静かな低い声は、大輔の脳髄の奥に直接響いた。それは大輔が聞きたくなかった、最も恐れていた答えだった。

「うっ、嘘だ」

 思わず男を睨みつける。

「嘘じゃない。既に葬儀も済ましている」

 何を言っているのだ。信じられない。

「どういうことだ。何故死んだんだ」

「悪いがもう帰ってくれ。それ以上のことは知らん」

 男はそう言うと、勢いよく扉を閉めた。


 大輔はそれからどこをどう歩いたのかを全く覚えていない。気がつくと、樵荘に辿り着いていた。湖畔に立つ木造二階屋の民宿だ。あたりは既に深い宵闇に覆われており、宿の前に広がる湖は漆黒に沈んでいる。棟門をくぐると、質素な着物姿の老女が灯籠の灯りに照らされて佇んでいた。

「あんたが舘畑さんかい」

 どうやら宿の女将のようだ。老女はあまり愛想の感じられない表情で大輔を見やった。

「山根さんとこに早速行ったそうじゃのう」

 この村では大輔のようなよそ者の行動は筒抜けなのだろうか。

「山根さんとこも不幸続きじゃったわ」」

 老女の声に、さほど同情している響きはない。老女はそう言うと、玄関扉を開けて先に入っていった。

 記帳を済ませると、大輔は虚ろな瞳を女将に向けた。

「山根美穂さんは本当に死んだのでしょうか」

 老女は一瞬、ぎろりと大輔を凝視する。

「ああ、死んだわ。自ら命を絶ったそうじゃ」

「自殺だと?ど、どこで」

「神島じゃ」

 老女は暗い湖の彼方を指さした。

「あそこには尾呂血神社の本宮がある」

 湖の沖合に見えたあの島のことか。あそこには神社があるのか。

「何故、自殺など?」

「わからん。そもそも神島へは渡しの重男の舟でないと渡れんのじゃが、あの日、重男は誰も乗せておらんと言っておる。不思議なこともあるものじゃ」

 老女はそこで言葉を切ると、湖の方を見やった。

「あの娘は村を捨てた女じゃ。そのことを悔いて八津神様やつがみさまに懺悔に行き、自ら命を絶ったのじゃろう。自業自得じゃ」

「八津神様?」

 老女はついしゃべり過ぎてしまったという表情を見せると、そのまま黙ってしまった。


 結局その晩、大輔は夕食も風呂も断り、自失状態のまま布団に倒れ込んだ。暗い天井を見ながら美穂のことを考える。本当に美穂は死んだのか。それも自殺だと?あの快活な美穂が自ら命を絶つなど、到底考えられなかった。それに、美穂は最後の電話で何かを探り当てたと興奮気味に語っていた。そんな時に自殺などするはずはないのではないか。どうしても納得できない。思考は同じところをただぐるぐると回り、気がつくと東の空が白み始めていた。結局、一睡もできないまま朝を迎えることになった。


第四章 異俗


 朝食後、大輔は女将をつかまえ美穂の自殺を誰が発見したのかを尋ねてみた。その人物に会えれば、もう少し詳しい話が聞けるはずだ。女将によると、第一発見者は稗田宗子という代々続く村の医師とのことだった。氏子総代も務めている村の有力者だそうだ。大輔は早速、稗田のもとを訪ねてみることにした。

 稗田医院は樵荘から湖畔沿いに二十分ほど歩いたところにあるとのことだった。晩秋の重苦しい曇天の下、身を切るような風を横顔に受けながら襟を立てて湖畔の道を進む。風の音以外は何も聞こえない。いつの間にか数匹の野良犬が後ろをついてきたが、構う気がしなかった。犬たちも大輔の悲痛な心持ちを察したのか、やがてどこかへ消えていった。朦朧とした頭で美穂のことだけを思い浮かべながら歩いた。何故、自殺などする必要があったのだ。湖には細かい白波が無数に立ち、その向こうの神島は乳白色の霧の中にその姿を隠している。沖合からは今日もかすかに高雅な香りが流れてくる。

 稗田医院の建物はすぐに見つかった。周囲に点在する民家から浮きたつように、その木造の洋館は遠くから目をひいた。二階建てのコロニアル風の建物全体には白い横板が張られ、正面玄関に設けられた小さなポーチの欄間には見事なステンドグラスがはめ込まれている。建てられてからかなりの年月が経っているようだったが、地元の名士宅にふさわしい明治期の趣を残す立派な建物だった。玄関脇の檜の一枚板には揮毫のように堂々と稗田医院と書かれている。

 大輔が呼び鈴を鳴らすと程なくして扉が半分ほど開き、若い看護婦が顔を覗かせた。大輔の顔を見るや否や口元に手をやり、慌てて奥へと走っていく。やがて白衣に聴診器を提げた背の高い女が現れた。髪は既に白く、骨ばった顔の中央には一際目立つ鷲鼻。皺だらけの乾いた皮膚の中でつり上がった眼だけが鋭く光っている。

 大輔が名乗ろうとするや、先に女が口を開いた。

「お前が舘畑さんとやらか」

 女のぎろりとした眼光が大輔を怯ませる。その目は強い警戒心を抱いており、決して歓迎されていないことはすぐに分かった。大輔は強張った笑顔を女に返した。

「はい、舘畑大輔と申します。山根美穂さんのことでお伺いをしたくて参りました。稗田さんでしょうか」

 女は大輔を見据えたまま、ニコリともせず軽く頷いた。しばらく沈黙が流れる。稗田はとくに大輔を室内に招き入れるそぶりを見せず、半分開いたドアの隙間に突っ立ったままだ。仕方がないので大輔はその場に佇んだまま、稗田に質問を投げかけた。

「美穂が亡くなった時のことを教えていただけませんでしょうか」

 稗田の顎のあたりに力が入るのが分かった。

「お前さんは山根美穂とどういう関係なのかな」

 稗田が訝しげに大輔を睨んだ。大輔は一瞬、返答に迷ったが変に取り繕ったことを言うのは美穂に対して失礼だと思い、正直に答えることにした。

「美穂は私のとても大切な人でした。我々は東京で一緒に暮らしていました」

 稗田はしばらく大輔を観察していたかと思うと、やがてゆっくりと湖の方角に視線を移した。

「神島の天狗岩から湖に身を投げたのじゃ」

「天狗岩?い、遺体は発見されたのですか」

「いや、湖に沈んだままだ。湖の中は深い藻で覆われており、沈んだものは二度と出てこない」

「それではどうして自殺だと分かるのですか」

 稗田がその鋭い視線を大輔に向けた。

「天狗岩に娘の靴とハンドバッグが残っておったのじゃ。そしてその日以降、誰も娘の姿を見た者はおらん。状況から判断すると身を投げたとしか考えられん」

 美穂が湖に飛び込んだなど、大輔にはにわかには信じがたかった。思わず首を横に振ると、稗田が大輔を睨みつけた。

「あの娘は村を裏切った女だ。自分のせいで不幸な死を遂げた父親を目の当たりにして、罪悪感に苛まされていたとしても無理はない。恐らく自ら命を絶って詫びようと思ったのだろう」

 父親の不幸な死?何のことだ。

「診察に出なくてはならないので、そろそろ帰ってもらえるかな」

 稗田はそう言うと、大輔を押しよけて扉を閉めようとした。

「待ってください、稗田さん。それでは彼女の墓は」

 大輔は必死になって扉を押さえた。

「墓はない」

「えっ、どういうことでしょうか」

「この村に墓はない。村人は皆、亡くなると悼み石とともに尾呂血湖に沈められる。それが遠い昔からの習わしだ。そして、神島に死者の御霊碑みたまひが設けられる。巳八子みやこ様が毎日祈祷を捧げてくださる中、再び卑埜忌村に生を授かるまでの間、死者の魂は静かに神島で安息の時を過ごすのだ」

「巳八子様?」

輝龍きりゅう巳八子様、神島の尾呂血神社本宮の宮司様じゃ。お一人で神島を護っておられる」

 稗田の語る風変わりな話に大輔は全くついていけなかった。卑埜忌村の住人は輪廻転生を信じているのだろうか。墓もつくらずに、卑埜忌村という狭い範囲の中での生まれ変わりを。その御霊碑とやらのある神島は村人にとっての聖地なのだろう。何故、美穂はそんなところに足を踏み入れたのだ。大輔は自分も一度神島に渡ってみるべきだと思った。美穂の靴とハンドバッグが残っていたという天狗岩も訪れたかったし、美穂の御霊碑も確認しておきたかった。

「神島に渡るにはどうしたらよいのでしょうか」

「お前のようなよそ者が神島に渡ることは許さん。神島は聖なる場所、限られた者しか足を踏み入れることは許されないのじゃ」

 稗田は言下に却下した。

「それに、あの娘の御霊碑はない」

「何故、美穂の御霊碑はないのでしょうか」

 稗田はそこで口をつぐみ、しばらく神島を眺めていたかと思うと、再び冷たい視線を大輔に向けた。

「悪いがもう帰ってもらえんかな、忙しいのじゃ」

 稗田はそう言うと、大輔の返事を待つこともなく、扉を勢いよくバタンと閉めてしまった。


 大輔は稗田医院を後にすると、混乱した頭を整理するためにしばらく湖畔沿いの道を歩いてみることにした。昨日から想像もしていなかったようなことを目にし耳にしたことにより、大輔の思考は著しく惑乱していた。山根家の祖霊舎に安置されていた美穂の霊璽と囲炉裏に焼け残った不気味な黒い手紙。美穂が死んだ、それも自殺したということ。神島に渡った形跡がないにもかかわらず島の天狗岩に残されていた靴とハンドバッグ。遺体を湖に沈めるという奇異な風習。死者の魂が安息する神島の御霊碑。しかしどういうわけか美穂の御霊碑はないという。そして八津神様とは。考えれば考えるほど、頭が混乱してくるばかりだった。

 ふと、大輔は自分に注がれている視線を感じた。そちらを見やると、湖畔沿いに立つ古い造り酒屋の日本家屋が目に入った。軒先の杉玉の下で、藍染めの前掛けをした若い店員と客らしき人物が大輔をじっと凝視している。二人は大輔と目が合うと、サッと視線を逸らした。しかし、大輔が通り過ぎると再び背後から突き刺さる視線を感じる。先ほどまでは思考に没入しており周囲の状況に注意が回らなかったが、改めてあたりを観察すると行き交う村人や通り過ぎる商店の売り子たちが皆、大輔を警戒深く観察していることに気づいた。まるで、村人全員で大輔の行動を監視しているかのようだ。よそ者に対するこのようなあからさまな態度は、古い田舎の村ではよくあることなのだろうか。野良犬たちだけが親しげに大輔にまとわりついていた。

 村人の視線をかいくぐりながら更に湖畔の道を進むと、やがて舟着き場に出くわした。湖に突き出る形で小さな桟橋が設けられ、十メートルほどの長さの木造の渡し舟がもやい綱でつながれている。舟尾からは一本の長い櫂が突き出ている。桟橋の上では異様な風体の男が神島に向かって仁王立ちしていた。身の丈は一メートル九十センチはあるだろうか、大きな男だった。霧に覆われた神島から吹きつけてくる冷たい風が男の肩まで達するぼさぼさの髪を激しく揺らしている。男は既に壮年に達しているようだが、粗末な身なりの上からでも厚く盛り上がった肩の筋肉の様子が見てとれた。男は大輔に気がついた様子で、ゆっくりと振り返った。濃い眉と顔中を覆う無精ひげの間から鋭いながらも諦観を帯びた瞳が大輔を捉える。大輔は一瞬身構えたが、その男の瞳には敵意は感じられなかった。いや、敵意どころか感情そのものが感じられない。男は大輔に興味を示すこともなく、すぐにまた神島にその視線を戻した。この男が渡しの重男だろうか。男は指示でも待つかのように、ひたすら神島に全神経を集中させている。卑埜忌村に入って以来、ほとんどの村民から常に警戒され敵意すら感じさせるような視線を向けられてきたが、この渡しの大男にとって大輔は全く取るに足らない存在のようだった。

 舟着き場を後にしてからもしばらく、その男の寂しげな、感情を全て捨ててしまったような暗い瞳が脳裏に焼き付いて離れなかった。

 沖合から吹きつける湿った風が全身に絡みつく。背を丸め、鉛のように重たくなった体を引きずるようにして歩いた。大輔の心は美穂の死を受け入れることを頑なに拒否していた。遺体も発見されず墓もなくただ死んだと言われても、とても納得することはできない。あの快活だった美穂が死ぬわけがない。美穂は今でもどこかで助けを求めているのではないだろうか。美穂の失踪に関して、もう少し情報を集めるべきだ。今のような中途半端な状態ではとても東京に戻る気が起きない。もうしばらくこの村に滞在することにした。


 樵荘に戻り女将の姿を探したが、帳場には誰もいなかった。玄関を上がり板張りの廊下を進み食堂を覗いてみる。やはり誰もいない。ふと、向かいの部屋の襖が半分ほど開いていることに気づく。何気なく中を覗くと、女将の後ろ姿があった。壁上部に設けられた白木の神棚の前に正座し、一心に祈りを捧げている。神棚の並びには幾つかの古い写真が掲げられていた。どれも黒い額縁で覆われ、黒いリボンが巻かれている。そこには黒い着物で正装した老人たちの姿が写っており、皆、静かに室内を見下ろしている。恐らくこの家の先祖たちの遺影なのだろう。

 ふと、その中に異質なものが混じっていることに気づく。並んで掲げられた黒い額縁の中に一つだけ、真っ白な額縁が混じっているのだ。白いリボンが巻かれたその額には、少年の写真が納められていた。かなり色褪せた古い写真だ。無表情の少年が静かにこちらを見ている。これも遺影なのだろうか。何故、この写真だけ白い額縁に納められているのだろう。

 その時、女将が大輔の気配に気づきこちらを振り返った。慌てて立ち上がると、険しい表情を浮かべながら大輔を押し出すように部屋の外へと出てくる。そして、後ろ手に襖をピシッと閉めた。

「何か用かい」

 女将の険のある声が廊下に響く。

「実は、あと数日延泊をさせていただきたいと思いまして」

 部屋を覗き見していたという気まずさを隠すように、大輔は固い笑みをつくる。女将はそんな大輔を不審そうに睨み上げていた。

 結局、部屋は確保できた。樵荘の客室は二階の二部屋しかなかったが、幸い当分の間、大輔の部屋は空いているとのことだったので、とりあえずあと数日、滞在を延長することにした。


 部屋に戻ると、いきなりどっと疲れがでてきた。睡眠不足の中、寒風吹きすさぶ湖畔を随分と歩き回っていたせいだろう。しばらく午睡を取ることにした。布団を敷くのも面倒だったので、そのまま直に畳に横たわる。目を閉じるとすぐに意識が遠のいていった。

 昔から疲れている時に限って睡眠は浅く、嫌な夢を見る。今は美穂のことで頭が一杯のはずなのに、どういうわけか真由美の夢を見た。深夜のダイニングテーブル越しに大輔に向けられた険のある眼差し。紅いマニキュアで彩られた白い指先が神経質そうに細かく震えている。結婚当初には刻まれていなかった眉間の皺。かすかに漂うアルコール臭。そして、吐き捨てるように呟かれた言葉。

「わたし、負け組の男と結婚した覚えはないわ」

 途端に胃の中で苦いものがこみ上げ、粘りつくような汗が首筋から染み出てくる。心の深い部分にかろうじて守ってきた大切なものが、音を立てて崩れはじめる。大輔は何か言い返そうとするが、喉からうまく言葉が出てこない。何を言ったところで、真由美の冷めきった視線に跳ね返されるだけだということは分かっていた。


 もがいているうちに樵荘の板張りの天井が目に入った。この六年間、繰り返し見てきたいつもの夢だった。大輔は天井板の木目を見ながら深くため息をついた。寝汗で背中にシャツがじっとりとまとわりついている。その時、ふと人の気配を感じた。寝姿勢のまま横を見ると客室と外の廊下を隔てる襖が僅かに開かれており、その隙間からおさげ髪の女の子が顔を覗かせていた。二つの大きな目が緊張気味に大輔をじっと見ている。小学生だろうか。大輔は上半身を起こすと、少女に向かってウインクをしてみた。途端に少女の顔に安心したような笑みが広がる。まだ人生の憂いや哀しみとは無縁の、真夏のひまわりのような笑顔だ。大輔もつられて思わず微笑んだ。

「おじさんのうなされている声が聞こえたから、いけないとは思ったのだけど覗いてみたの、ごめんなさい」

「構わないよ。君が覗いてくれなかったら、嫌な夢から永遠に覚めなかったかもしれない。君のおかげで現実世界に戻って来ることができたよ」

 ふふふ、と少女はさもうれしそうに笑った。愛らしい笑顔だ。

「君、ここの子?」

 少女がコクンと頷くと、左右のおさげ髪が勢いよく揺れた。

「お名前は?」

「静香。皆尾静香」

「小学校二年生くらいかな?」

「おじさん失礼ね。もう四年生よ」

 静香がツンと口を尖らせる。

「そうか、ごめん、ごめん。おじさんは舘畑大輔」

「知ってるよ。すごい作家先生なんでしょ」

 どうしてこの子は俺が小説を書いているのを知っているのだろう。

「すごい先生ではないけど、どうして静香はおじさんが小説を書いていることを知っているの?」

「美穂姉ちゃんが言ってたの」

 何だって!この子は美穂に会ったことがあるのか?そうか、美穂も樵荘に泊っていたのか。

「美穂姉ちゃんもここに泊っていたのかい?」

 静香は再びおさげ髪を揺らしてコクンと頷いた。

「そう、おじさんが今泊っている部屋。最初、美穂おばさんって呼んだらいきなり頬っぺたをつねられたの。それで美穂姉ちゃんと呼ぶことにしたんだ。美穂姉ちゃん、私に舘畑大輔という名前を教えてくれて、いつかきっと有名な作家になるから覚えておくようにって。美穂姉ちゃんの自慢の恋人なんだって」

 いつかきっと日の目を見る時が来るはずよ、という美穂の言葉が頭に蘇る。あらためて強い喪失感に襲われる。

「でも、美穂姉ちゃん、死んじゃったんでしょ」

 静香の表情が急に曇った。

「おじさんもまだ信じられないのだよ」

 しばらく二人の間に沈黙が流れた。やがて静香が神妙な顔を大輔に向けた。

「おじさんは美穂姉ちゃんのこと、愛していたの?」

 静香のませた質問にいささか動揺しつつも、大輔はまっすぐに静香を見やった。

「うん。愛していたよ。とても大切な人だった」

 答えた瞬間、過去形で言及したことに気づき、後悔する。俺は今でも美穂を愛している。大輔の言葉を聞き、静香の顔がぱっと明るくなった。小さな前歯が口元から覗く。再び、ひまわりが花開いた。

「いいなあ、私も素敵な人と結婚できるかなあ」

 まだ年端もいかない少女の言葉に大輔の頬が思わず緩む。

「君はいい子のようだからきっと大丈夫だと思うよ。ただ、まだ四年生だろ。随分先のことだよ」

 すると静香は真顔で大輔を睨み、首を横に振った。おさげ髪が激しく揺れる。

「そんなことないわ。女の子はみんな高学年になると婚約するのよ」

 何だって?静香の言っている意味が分からなかった。その時、廊下の向こうから女将の声が響いた。

「よその人に余計なことを言うんじゃないよ。こっちへ来なさい」

 その声に叱責の響きを感じとった静香は、慌てて襖を閉めて駆け去っていった。


 翌日、女将に書いてもらった地図を頼りに葦原恵美子を訪ねてみることにした。美穂が村を出た後も唯一、手紙のやり取りを続けていた女性だ。

 玄関を出た途端、晩秋の冷気に包まれる。今日も空は幾層もの鉛色の雲に覆われている。湖を見やると神島は相変わらず深い霧の奥にその姿を隠している。身を切るような風に地図が飛ばされないように気をつけながら、湖畔から続くなだらかな坂道をゆっくりと上っていく。途中何人かの村人とすれ違った。そのたびに努めて明るく挨拶をするのだが、皆一様に警戒感を持った目で大輔を一瞥するだけだ。道端で体を休めていた野良犬たちだけが嬉々としてしっぽを振りながら大輔にまとわりついてくる。

 やがて恵美子の家の玄関に辿り着いた。小さな木造の平屋だが、脇に離れのような別棟が隣接している。何かの作業小屋だろうか。扉の前に佇んでいると、呼び鈴を押す前に扉が開き丸顔のふくよかな女性が顔を出した。オーバーサイズのピンクのトレーナーが良く似合っているかわいらしい雰囲気の女性だった。

「舘畑さんでしょ、お待ちしていました。葦原恵美子です」

 恵美子は愛想のよい笑みを浮かべながら、大輔をちゃぶ台の置かれた居間に招き入れた。卑埜忌村に足を踏み入れて以来、ほとんどの村人から露骨な警戒感を示されてきた大輔には、恵美子の歓迎ぶりは少々意外だった。

「今、お茶を入れてきますね」

 恵美子が台所へと消えると、大輔は見るとはなしに部屋の中に視線を巡らした。そこには手造りらしき木工製品が溢れていた。眼前の重厚なちゃぶ台もそうだが、箪笥、飾り棚、祖霊舎、座椅子、そして動物や鳥をモチーフにした置物の数々。どれも精緻な技巧が感じられる一点ものばかりだ。やがて恵美子が盆に湯呑みを二つのせて戻ってきた。

「どれも随分と手の込んだ木工製品ばかりですね」

 大輔は正面に座った恵美子に向かって感嘆の声を上げた。お世辞ではなく本心だ。

「ああ、これらは皆、主人が作ったものなんです。主人は木工職人をしておりまして。この村では家具のほとんどは手造りなので、結構忙しいのですよ。おかげさまで私達も何とか食べていけます」

 そう言いながら恵美子は大輔の前に湯呑みを差し出した。改めて室内の家具を見渡した。どれも見事な工芸品ばかりだ。日頃、大輔が使っている量販店の安っぽい合板家具とは全くの別物だった。

「主人は一日中、隣の離れに籠って作業をしているので、ご挨拶にも出てこなくてすみません」

「いえいえ、こちらが勝手にお邪魔させていただいただけですから、どうぞお構いなく」

 恵美子は大輔にお茶を勧めると、自分も湯呑みに手を伸ばした。そして一口すすると、早速、美穂の話をし始めた。

「私、美穂とはずっと同級生だったんです。都会に出てキャリアを積んできた美穂とは違い、もうただの田舎のおばさんですけど」

 そう言って自嘲気味に笑う恵美子の目尻に年齢相応の皺が浮かび上がる。若い頃、それなりに異性の目を惹いたであろう面影がまだかすかに残るが、確かにその容色は幾分衰えを見せていた。

「美穂はとても勉強ができる子で、高校の進路指導の先生も県の大学への進学を強く勧めていたんです。美穂も進学に乗り気だったのですが、結局、お父さんに反対されて断念したんです。周りのみんなは、本当にもったいないって言っていました」

 恵美子がそう言ってちゃぶ台に目を落とすと、顎のあたりに白い贅肉が浮き上がった。

「美穂のお父さんはどうして反対されたのですか?」

「女は大学なんて行く必要はないって言われたそうです。早く結婚して子供を産むのがいいと。まあ、うちの親も似たようなものでしたが、美穂の場合は間に入ってくれるはずの母親を幼い頃に亡くしているので、直にお父さんと衝突を繰り返していました」

 そう言うと恵美子はお茶を一口すすり、再び話を続けた。

「結局、美穂はお父さんと大喧嘩をして、村の古い風習にも馴染めていなかったのでしょう、高校を卒業すると逃げるように村を後にしたんです。それからは私にだけは手紙をくれて、数年おきに近況を報告してくれました。私たち、幼い頃から仲が良かったから」

 そこで恵美子は正面から大輔を見やった。

「舘畑さんのことは美穂から手紙で聞いていました。とても才能のある作家の方だと。私、美穂が東京に出てからどんなに苦労をしてきたかをずっと聞いていたので、やっと美穂が幸せをつかむことができたと自分のことのようにうれしかった」

 かすかに憧憬を含んだ視線を感じ、大輔は大きく首を横に振った。

「いえ、私はただのしがないフリーライターです。ところで、美穂は何故亡くなったのでしょうか?」

 一瞬恵美子は目を見開くと、再びちゃぶ台の上に視線を落とした。

「美穂が自殺をしたなんて、私、いまでも信じられないのです。お父さんの葬儀が終わった後に久しぶりに会ったのですが、その時はとても元気だったのに」

 そこで恵美子は言葉を切ると、何か言いづらそうなものを抱えたような表情で大輔を上目遣いに見やった。

「舘畑さんはご存知だったのでしょうか、美穂のお腹のことを」

 恵美子が何を言っているのかよく分からなかった。

「何のことでしょか、美穂のお腹のこととは」

 そう言葉にした瞬間、心の奥底でざわつくものがあった。

「やっぱり、言っていなかったのね」

 恵美子の瞳に憐憫の影が浮かび上がった。大輔は恵美子が言わんとしていることを、頭より先に体で察知した。その先を聞きたくなかったが、恵美子の言葉は容赦なく続く。

「美穂は舘畑さんの子供をお腹に宿していたんです。美穂自身も卑埜忌村に帰ってきてから気づいたそうです」

 全身の血管がぎゅっと収縮するのを感じた。網膜に映る室内の景色が急に暗くなる。何ということだ。俺は美穂だけでなく、自分の子供までも失ったというのか。大輔は目を閉じ、大きく息を吸った。閉じた瞼の中から涙が溢れ出てくるのが分かった。やがて胸が苦しくなり、息を吐きだしていなかったことに気づく。深く息を吐くと、目尻から涙が一筋流れた。

「舘畑さん、何と言っていいか、本当にご愁傷様です」

 恵美子の声は大輔を覆う悲しみの膜の外からぼんやりと聞こえてくる。二人は黙ったまま、空になった湯飲みをただ見つめていた。

「恵美子、お客さんかい」

 突然、奥の襖が開き、作業服姿の男が顔を出した。年の頃は四十くらいだろうか、色白の端正な顔立ちの男だ。

「あっ、啓一さん」

 恵美子が驚いたように振り返った。

「珍しいわね、お仕事中に離れから出てくるなんて」

「ああ、ちょっと休憩しようと思ったら人の声が聞こえたもので」

 男はそう言うと、大輔の方を見やり爽やかな笑みを浮かべた。

「葦原啓一です。どうぞよろしく」

 啓一はペコンと頭を下げると、柔らかそうな髪をかき上げた。

「主人です」

 恵美子は横からそう付け加えると、そそくさと台所に三つ目の湯飲みを取りに行った。穏やかな笑みを浮かべている啓一を、大輔は改めて見やった。くっきりとした二重とスッと通った鼻筋、男から見ても美しい男だった。

 結局、啓一も腰を下ろし、話の輪に加わることになった。

「今回の美穂ちゃんのことは、僕たちも本当に心を痛めているのです。もっとできることがあったのではないかと」

 啓一はそう言うと、整った瞳を大輔に向けた。

「美穂ちゃんは随分と悩んでいたのではないかと思うのです」

 咄嗟に恵美子が啓一を見やる。

「悩んでいたとは?」

 大輔も思わず聞き返した。

「お父さんのことです。美穂ちゃんが村を出たことによって、巌さんに黒い手紙が届くようになっていたことはご存知でしょうか」

 黒い手紙?囲炉裏の中の燃え残った手紙の情景が頭に蘇った。

「いえ、あの、黒い手紙とは?」

「ご存知ないですか。まあ、村の外の人は知らなくて当然でしょう。お恥ずかしい話ですが、黒い手紙とは卑埜忌村に古くからある風習で、言ってみれば村八分のシグナルのようなものです。舘畑さんも既にお気づきかもしれませんが、卑埜忌村にはかなり閉鎖的なところがありまして、昔からなるべく隣村とは関わらずに村の中だけで生活の全てを完結させてきたという歴史があります。当然、村人にも一生村にとどまって生活することが求められてきました。だから美穂ちゃんが村を飛び出した時には、巌さんは周囲の村人から強い非難をうけたのです。娘の教育がなっておらんと。そして村人たちは無記名の黒く塗りつぶされた手紙を巌さんに送りつけはじめたのです。これは村に伝わる旧習で、お前はもう共同体の一員とは認めないという意思表示なのです。毎年黒い手紙が送り続けられる限り、村八分は続くのです」

「家族が村を出ただけで村八分になるというのですか」

 淡々と説明する啓一の話に驚き、思わず大輔の声が上ずった。啓一は無表情のまま、ただ大輔を見つめている。

「それで、村八分になるとどうなるのでしょうか」

 啓一は湯呑みを口に持っていき、一口ごくりと飲み干した。静かに湯呑みをちゃぶ台に戻すと、再び語りだした。

「村人との全ての交流が閉ざされます。回覧板は回ってこなくなり、ごみも収集されません。祭りや集会からも排除されます。そして商店は物を売らず自給自足の生活を強いられます。病気になっても医者は面倒をみません」

「それでは巌さんは危篤状態の時にも、医者には診てもらえなかったのでしょうか」

「残念ながら」

 ポツリと啓一が呟いた。美穂は自分のせいで村八分になった父親が、危篤時にも医者に診てもらえず一人孤独に死んだことをどう受け止めたのだろうか。その時の美穂の心情を察すると心が痛む。

「美穂ちゃんは巌さんの死を目にして、強い自責の念に駆られていました。妊娠をしている時は情緒不安定になりがちだと言いますが、それらが相まって衝動的に自らの命を絶ってしまったということは十分に考えられます」

 理路整然と語る啓一の態度が癪だったが、大輔も同じことを考えていた。しばらく言葉が途絶えた。三つの湯飲みはいつの間にか空になっていた。やがて啓一が沈黙を破った。

「村八分でも最後に葬式だけはあげてもらえます。しかし遺体は尾呂血湖に沈められるだけで神島に御霊碑は作られません。だから巌さんの御霊碑はありません。つまり、死後その魂はもう卑埜忌村に戻ってくるなということです。行き場を失った魂は永遠に彷徨うことになります。これは村人にとっては、とても恐ろしいことです」

 啓一はそこで湯呑みに手を伸ばしたが、空だということに気づき恵美子を見やった。恵美子が慌てて台所に向かう。

「美穂ちゃんは自分の死後にも神島に御霊碑が作られないことが分かっていたので、直接神島の地で命を絶つことを選んだのではないでしょうか。他の村人と同じように死後も神島にとどまることができるように願って」

 啓一の推論にはとても納得できなかった。美穂の父親はいざ知らず、美穂は死後に村にとどまりたいなどとは思っていなかっただろう。それに死後の魂の存在など美穂が信じていたとは思えない。

「美穂はどうやって神島に上陸したのでしょうか。渡し舟を使った形跡はないと聞きましたが」

 異議を唱える代わりに、心に引っかかっていた疑問を投げかけた。

「私もわかりません。この村では重男以外に舟を持っている者はいないはずです。誰も神聖な尾呂血湖に勝手に漕ぎ出ることは許されていません。どうやって神島に渡ったのかは今でも謎のままです」

 そう言うと、啓一催促するように台所を見やった。

 やがて恵美子がお盆に新しい湯呑みを三つのせて戻ってきた。それからしばらくは、恵美子の美穂にまつわる思い出話が続いた。共同で作成した夏休みの自由研究、秋の村祭での夜店巡り、手作りお菓子の交換など、二人がいかに仲良かったかを示す逸話が延々と続いたが、どれもたわいない話ばかりで大輔はただ頷きを繰り返すばかりだった。ふと傍らの啓一を見ると、冷めた様子であらぬ方向を見ている。やがて啓一がちらちらと自分の腕時計を覗き始めたので、大輔はそろそろいとまを告げることにした。

 玄関まで見送りに出てきた恵美子がふと呟いた。

「私、誰かに目撃されることを恐れて、最後まで巌さんのお見舞いに行かなかったんです。村八分の家に出入りしているところを見られると、自分も村八分にされてしまう恐れがあるので。巌さんは親友のお父さんなのに、何もしてあげられませんでした。今ではそのことを深く後悔しています」

 俯く恵美子に大輔は返す言葉が見つからず、ただ頷いた。

「でも、勇気がある人がいるのですね。巌さんの死後、遺品整理にお伺いした時に、誰かが病床の巌さんに食事を届けていた形跡を発見しました。折詰の弁当の容器が幾つか残っていました」

 そうか、村人の中には村八分に賛同していない者もいたということか。必ずしも村の人々は旧習に対して一枚岩ではないのかもしれない。黒い手紙などという陰湿なしきたりを耳にし、重く沈んでいた心がかすかに軽くなるのが分かった。


 思いのほか恵美子の話に長時間付き合ってしまったようで、葦原家を出た時には既に昼時にさしかかっていた。樵荘では朝晩の食事しか供されないので、大輔は昼食を食べられる店を探すことにした。

 あてもなく湖畔に向かって坂を下っていると、畦道の脇に立つ妙な建物に遭遇した。きつく勾配をつけた茅葺屋根のてっぺんには神社の鰹木のような丸太が並んでいる。三方の壁は板材で覆われ、正面の木の扉は観音開きのように両側に大きく開かれている。そして数段の木造階段を上った先に広がる畳の間。神社のようだが、その建物はほんの八畳ほどの大きさしかない。まるでミニチュアの神社だ。正面に回って中を覗くと、畳の間には白衣を着た若い女が壮年の男と座卓を挟んで向かい合って座っていた。そして驚くことに、座卓の上にはパソコンが置いてあるではないか。今の時代パソコンなど珍しくもないが、卑埜忌村に入って以来タイムスリップのような時を送っていた大輔には、その白い機械は異物のように映った。

 白衣の女は慣れた様子でキーボードを叩きながら、時折、向かいの男に何かを語っている。男はまるでご神託でも受けるかのように神妙な顔で正座をし、女の一言一句に耳を傾けていた。

 やがて女が大輔に気づき、こちらを睨んだ。男も同様に大輔を睨みつける。大輔は慌てて目を逸らし、その場を立ち去ることにした。


 幸い、湖畔に戻ると一軒のひなびた食堂を見つけた。長年の紫外線にさらされすっかり色褪せた看板には、かろうじて門脇食堂という文字が読み取れた。その下では退色した藍色の暖簾が揺れている。店舗脇の草地の駐車スペースには何台かの配送トラックが停まっており、ナンバープレートを見ると境港市や鳥取市といった地名が目立った。恐らくここは村外から定期的に物資を運んでくるドライバーたちが利用する食堂なのだろう。案の定、暖簾をくぐっても刺すような視線を浴びることはなかった。大輔はほっと肩の力を抜いて店内を見回した。むき出しのコンクリートの床に粗末なテーブル席が四つと、あとはカウンターに数席あるだけの小さな店だ。ビールメーカーから供与された水着カレンダーの他は何の飾り気もない古い店だったが、日常のこまめな掃除が行き届いている様が感じられた。店内は作業服やつなぎを着た男たちで混んでいたが、幸いカウンターの隅の一席を確保することができた。奥の厨房では白髪交じりの髪を短く刈り込んだ老齢の男が鍋をかき回しており、色褪せたジーンズをはいた化粧気のない女が忙しく客席に料理を運んでいる。女は大輔と同年代くらいだろうか。壁に掲げられた手書きのメニューを一通り眺め、カレーライスを頼むことにした。どんな店で食べても最も外す確率の小さい料理だ。女は注文を受けると、厨房に向かって、

「お父ちゃん、カレー一つ」

 と声を発した。親子なのだろうか。

 男たちは皆、定食をかき込むと慌ただしく店を飛び出していく。

「良枝ちゃん、また来月の配送の時に顔だすわ」

 良枝と呼ばれた女はレジを操作しながら、さばさばした笑顔で男たちを見送っている。やがて良枝がカウンターにカレーを運んできた。その瞬間、意外にも鋭利なスパイスの香りが鼻をついた。大輔はこんな片田舎の食堂で供されるカレーは当然、出来合いのルーを使い蕎麦つゆなどで適当に味付けをした寝ぼけた味の代物だとたかをくくっていたのだが、どうも様子が違うようだ。紙ナプキンの巻かれたスプーンをほどき、一匙カレーを口に運ぶ。途端に何とも言えない深みのある辛さが舌の上に広がり、複雑に絡んだスパイスの香ばしさが鼻に抜けた。スパイス以外にも何か滋味深い味が風味の土台を構成している。それらの味が立体的にバランスよくまとまり、程よいハーモニーを形成している。それは東京でもなかなか巡り合うことのない、本格的なスパイスカレーだった。思わずカウンターの奥を見上げると、厨房の男と目が合った。まるで、俺のカレーの味はどうだ、と言わんばかりのどや顔で大輔を見下ろしている。

「親父さん、このカレー、かなり本格的なものですね」

 大輔は思わず、感嘆の声を上げた。

「お前さん、少しは味が分かるようだな」

 男は満足げに口角を上げた。

「俺は市販のルーなんか使わずに、八種類のスパイスを駆使して風味の土台を作っている。しかし、カレーの味に本当の奥行きを作るのは実はスパイスじゃないんだ」

 男は、先を聞きたいか、というような視線を投げてきた。

「確かにスパイス以外の、何か滋味あふれる深みのある味が効いていますね。これは何なのでしょうか」

 思わず興味をそそられて質問すると、男は満足げに頷いた。

「自然農法で採れた玉ねぎと、山に自生するエノキタケさ。肥料も農薬も使わずに土壌の微生物の力だけで育った玉ねぎはそこらのものとは甘さや風味の力強さが全く違う。カレーの土台となる下味を形成するためには、スパイスを加える前にまず玉ねぎを飴色になるまでしっかりと炒める必要があるのだが、肥料や農薬に頼った脆弱な玉ねぎだと長時間の火力によって甘みも風味も飛んでしまう。その点、自然農法で育った玉ねぎは強いぞ。炒めれば炒めるほど凝縮した甘みが滲み出てくる。そしてスパイスを加えた後に山から採ってきたエノキタケを加える。山に自生しているエノキタケは驚くほどの滋味がある。あんたが普段口にするようなエノキタケは大概工場のクリーンルームで作られたものだ。自生のものとは別物だ。あんなもの、風味も何もあったもんじゃない。採ってきたエノキタケは一度乾燥させる。そうすると旨味成分が更に濃厚に閉じ込められる。それを仕上げに加えしっかりと煮込むのさ。野生のエノキタケの滋味がスパイスにほどよく絡み、これがいい隠し味となる。俺が独自に編み出したレシピさ」

「また源三さんの蘊蓄が始まったな」

 レジで会計をしていた青い運送ユニフォーム姿の男がからかうように横から声をかけた。

「うるせえ、お前ら田舎もんには俺の料理の味は分からんだろうよ」

 源三が毒づいた。

「確かに俺は田舎もんだが、少なくともここよりは開けた境港の出身だ。源三さんこそ、卑埜忌村から一歩も出たことのない正真正銘の田舎もんだろうが」

 ユニフォーム姿の男が言い返すと、源三は口をあけて笑った。言葉はきついが、二人のやりとりには親愛の温もりが行き交っている。

 男が店を出ていくと、源三は再び大輔に視線を戻した。

「やっぱり東京の人は舌が肥えているな。俺のカレーの味が分かるんだから」

 源三は満足げに何度も頷いた。

「何故私が東京からだと?」

「あんた、舘畑さんって言うんだろ。村中の者が知っているさ。こんな狭い村だから、あんたみたいなよそもんがうろついていたらすぐに評判になるさ」

「お父ちゃん、お客さんによそもんなんて言ったら失礼じゃないか」

 横から良枝が口を挟んだ。

「そうかい、悪かったな。ただ安心してくれ。あんたがよそもんだろうが何だろうが、味の分かる客だったらいつでも歓迎だ。こんな閉鎖的な村だ、嫌な思いもしたかもしれないが、少なくとも俺と良枝は外の人間にも慣れている。いつでも気軽に食べに来な」

 傍らで良枝も大きく頷いている。この三日間、重苦しく両肩を圧迫していた何かがスッと霧散するのを感じた。


 随分と店内が空いてきた頃、ふと斜め後方からの強い視線を感じた。何気なく振り返ると、隅のテーブル席に座っている一人の男と目が合った。他の客とは異なり、小皿料理を何品か並べてコップ酒を傾けている。年の頃は大輔より少し若いくらいだろうか、農作業用の鼠色のつなぎ服に長靴という出で立ちだ。男は大輔と目が合っても悪びれずにこちらを睨み続けている。男の瞳に単なる好奇心を越えた敵意を感じ取り、大輔はそっと視線をカウンターに戻した。

 カレーライスを平らげる頃には、店内の客は大輔と先ほどのつなぎ服の男だけになっていた。やがて男が椅子をずらして立ち上がる音が背後に響く。大輔は振り返らずに、男がレジを済まして出ていくのを待った。しかし男の足音はレジには向かわず、そのまま大輔の背中に向かって近づいてくる。足音がすぐ背後で止まったかと思うと、男は大輔の隣のカウンター席に投げやりな態度で腰を下ろした。手には徳利とお猪口を持っている。

「舘畑さんとやら、一杯どうだい」

 酒臭い息を吐きながら、男がお猪口を大輔の胸元に突き出した。男の血走った瞳と目が合った。そこには明らかな敵意が浮かび上がっていた。何故この男は俺に絡んでくるのだろう。

「私は結構です」

 大輔はなるべく相手を刺激しない声遣いを心掛けたつもりだったが、男は感情を逆なでされたかのようにいきり立った。

「あんた、何、気取ってんだよ」

 男がそう怒鳴りながらカウンターを拳骨で叩くと、楊枝立ての容器がガチャンと倒れた。

「俺の酒は飲めないっていうのか」

 その時突然、男の頭から顔にかけて勢いよく水が滴った。いつの間にか背後にいた良枝がコップの水を男の頭からぶっかけたのだ。

「冷てぇ、何しやがるんだ」

 慌てて振り返る男を見下ろしながら、良枝が一喝した。

「こら、純平、調子に乗るんじゃないよ!ただでさえ昼酒を大目に見てやっているというのにさ。これ以上この人に迷惑をかけたら、あんた、出入り禁止にするよ!」

 純平と呼ばれた男は良枝の迫力に圧倒されたように縮こまった。良枝は純平の二の腕を乱暴に引っ張って立ち上がらせると、出口の方へと突き飛ばした。

「当分、あんたには酒は出さないからね、覚えときな」

 純平は振り返ると、大輔を一瞥して小さく呟いた。

「美穂の奴、一人で死にやがって」

 純平はふらつきながら出ていった。良枝は戸口で仁王立ちしながら純平の姿が消えるのを確認すると、ゆっくりと振り返った。

「舘畑さん、すまなかったね。嫌な思いをさせて」

 さばさばした笑顔が大輔に向けられた。

「いや、別に、大丈夫です」

 大輔はほれぼれとした目で良枝を見上げた。見事な酔客さばきだった。良枝は何事もなかったかのようにレジ脇の定位置に戻ると、小さく溜息をついた。

「あたしは小学校の頃から純平を知っているのだけど、あいつ、根は悪い奴じゃないのさ。元々は心の優しい子でね、あたしにとっては弟分みたいな存在だった」

 良枝はそう言うと、カウンター脇に積んであるコップを一つ手に取り蛇口から水を注いだ。そして半分ほど勢いよく飲み干すと、再び大輔に視線を戻した。

「あいつ、美穂ちゃんが失踪してからすっかり変わっちゃって」

 父親から美穂に送られた手紙の文面が突然、脳裏に蘇る。確か、純平君は自暴自棄になり、と書いてあったはずだ。今の男がその純平か。あいつと美穂は一体どういう関係なのだろうか。良枝は大輔の疑問を察したかのように、言葉を続けた。

「純平と美穂ちゃんは婚約していたのさ」

 良枝がさらっと口にした言葉に大輔は一瞬、耳を疑った。美穂が婚約していただと?

「その婚約者が村から失踪しちゃったので、あいつ、一時はうつ病状態になっちゃって。そりゃ無理もないさ、美穂ちゃんといえば、あの学年では恵美子ちゃんと並んで男の子たちのあこがれの存在だったからね。そんなマドンナと婚約できて有頂天だったのに、突然、相手がいなくなっちゃうんだもの」

「そういえば恵美子ちゃんは昔の面影がすっかりなくなっちまったな。この前、エノキダケを採りに山に入った時、美穂ちゃんと恵美子ちゃんが連れ添って峠に向かうところにばったり出くわしたんだ。恵美子ちゃんは何だか肉がついて随分と貫禄がついていたぞ。相変わらず溌溂と若々しい美穂ちゃんと並ぶと、恵美子ちゃんはどうみてもただのおばさんだなあ。花の命は短いとはこのことだ」

 そう言うと、カウンターの奥で源三が舌を出した。

「お父ちゃん、失礼なことを言わないの。葦原さんに怒られるよ」

 良枝に窘められ、源三が刈り込んだ頭を掻く。

「源三さん、それはいつのことですか」

 大輔は思わず横から口を挟んだ。

「さあ、いつだったかなあ。確かカレーの仕込みをする前日だったから、先週の火曜日だ」

 先週の火曜とは十一月八日、つまり美穂が死んだとされる日の前日のことだ。

「純平の奴、ここ数年は何とか立ち直って真面目に畑仕事に精を出していたのさ」

 大輔の疑問には全く注意を向けず、良枝が話を続けた。

「ところが今回、突然美穂ちゃんが帰ってきたことで、また未練が頭をもたげてきたらしく、巌さんのお葬式の後に随分と美穂ちゃんに言い寄っていたらしいのさ。無理もないよ、だって美穂ちゃんは昔よりも更に魅力的ないい女になっていたんだから。髪なんか金髪にしちゃって、まるで西洋のお姫様みたいだったよ。でも結局ふられたらしい。それであいつ、今度は物騒なことを言い出したのさ」

 良枝が眉間に皺を寄せながらため息をついた。

「物騒なこと?」

 思わず体を乗り出して良枝の言葉を待った。

「そう、物騒なこと。あいつ、美穂ちゃんと一緒に無理心中するって言い出したのさ。昔から変に純粋なところがあって、きっと思いつめちゃったのよ。馬鹿なことは考えるなと一喝してやったのだけど、最後までストーカーのように美穂ちゃんの後を追いかけていたのさ。そしたら美穂ちゃんが一人で湖に身を投げちゃっただろ。あいつ、また裏切られたと絶望して、多分それが原因でやめていた酒に手を出すようになっちまったんだよ。そこへ憎き恋敵が現れたもんだから、あいつが取り乱しちゃうのも分からなくはないさ」

「良枝さん、美穂が湖に身を投げたというのは本当なのでしょうか」

 大輔はすがるような視線を良枝に向けた。良枝は幾分憐憫の色を含んだ瞳でカウンターの大輔を見下ろした。

「舘畑さん、今回のこと、あんたもつらいだろうね。よく分かるよ」

 そう言う良枝の表情には心の底からの同情が溢れていた。

「湖に身を投げたところは誰も見ちゃいないさ。だけど、神島の森の中を思いつめた表情で歩いていたところは、あたしの姪の小百合が目撃している。あの目立つ金髪だろ、すぐに分かったって言っていた。小百合もたまたまその日、尾呂血神社を訪れていたのさ」

 大輔は森の中を一人歩く美穂の姿を想像してみた。思いつめたような陰りのある表情。「とうちゃん、ごめん」と涙する美穂の寝顔がその姿に重なる。突然目頭が熱くなり、思わず顔を背け目を閉じた。客のいない店内に沈黙が流れる。良枝がそっと水の入ったコップを大輔の前に置いてくれたのが分かった。

 しばらくしてから深く息を吸い、水を一口含んだ。ようやく落ち着いてくると、今度は新たな疑問が湧いてきた。何故、そんな若い頃から美穂に婚約者がいたのだろうか。美穂が村を出たのは高校を卒業してすぐのはずだ。

「良枝さん、美穂が村を出たのは十八の頃のはずですが、一体幾つの時から彼女は婚約をしていたのでしょうか」

 良枝は一瞬、間を置いて源三を見やった。それから頬に手を当て、何かを思案している様子を見せた。やがてゆっくりと口を開いた。

「舘畑さん、卑埜忌村では女は初潮を迎えると神島の尾呂血神社で婚約者を決めてもらうことになっているのさ。輝龍様が最適な縁組みを取り決めてくれるというわけ。ずっと昔からそういうしきたりなのさ。だから美穂ちゃんも中学に上がる前には当時高校生の純平と婚約していたんじゃないかな。」

「えっ、神社が結婚する相手を決めているのですか?」

 大輔は思わず素っ頓狂な声を上げた。大輔の反応を予期していたかのように、良枝は何回か頷いた。

「舘畑さん、そんなに驚くことじゃないよ。一昔前は日本中どこでも親や村の有力者が決めてくれた相手と結婚するのは当たり前のことだったはずよ。まだ人を見る目も養われていない若者同士が勢いでくっつくより、信頼できる確かな人が決めてくれる相手と一緒になったほうが長い目で見たら安心だと思わないかい」

 大輔はとても同意できず、首を傾げた。良枝は大輔が黙っていることに勢いづき、更に言葉を続ける。

「あたしみたいな何のとりえもない女が結婚できたのも輝龍様のお陰さ。そうでなきゃ、達ちゃんみたいに甲斐性のある男と一緒にはなれなかったと思う。あたしは自慢じゃないけど男にもてるタイプじゃないし。輝龍様には感謝しかないのさ。今じゃ、いい義父ちゃんにも恵まれてさ、ふふふ」

 源三が厨房で咳払いをした。

「俺の息子、達也は山で木を切っている。俺も若い頃は木こりで飯を食っていたんだが、達也が一人前になってからは山を下りたんだ。良枝はうちの嫁だ。気の強いところはあるが、まあまあの嫁だよ」

「珍しいね、お父ちゃんがあたしを褒めるなんて。何にも出ないからね」

 良枝が上気した顔を崩した。

「輝龍様とはどんな人なのでしょうか」

 大輔は卑埜忌村に来てから度々耳にする輝龍という人物について尋ねてみた。どうもこの村では特別な存在として崇められている人物のようだ。レジ台に寄り掛かっていた良枝はそっと佇まいを正すと、大輔を正面から見据えて話し出した。

「輝龍家は代々神島の尾呂血神社の宮司を務めている家系で、現在の宮司は巳八子様。あたし、巳八子様は本当に神の子なんじゃないかと思っているのさ」

 良枝はかすかに恍惚の表情を浮かべながら語り始めた。

 良枝の話によると、輝龍家は奈良時代よりさらに前から続く由緒ある家柄で、代々神島の尾呂血神社の宮司職を世襲してきた。戦後は輝龍秀全(しゅうぜん)が長く当主を務めてきたが、還暦も近づいたある嵐の晩、稲妻が激しく光り輝く中、尾呂血神社の鳥居の下で一人の女の赤子が産声を上げているのが発見される。その赤子は巳八子と名付けられ、神から授かった大切な子として秀全に引き取られた。秀全には当時二十八歳になる一人息子の秀胤しゅういんがいたが、気性が荒く剛直な秀全にとって、おとなしく野心も感じられない秀胤は跡取りとしては物足りなく、日頃から疎んじられていた。やがて秀全は巳八子を輝龍家の正式な後継ぎとすることを決める。その結果、秀胤は神島を出て湖畔に立つ分社の宮司として今日に至る。

「巳八子様はあたしより幾つか年下なのだけど、子供のころから周りの子とは少し違う雰囲気を持っていたのさ。あれは生まれ持ったオーラと言っていいかもしれないね。透き通るほどの白い肌と漆の様に艶やかな黒髪が印象的で、幼い頃から皆が一目置く存在だった」

 良枝は遠くを見るような目でしゃべり続けた。

「確かあれは巳八子様が十歳になられた頃だったとおもうけど、神島の森の中に突然現れた白い大蛇にふくらはぎを噛まれたんだよ。巳八子様は高熱を出して寝込んだのだけど、秀全様は医者を呼ぶことを拒み、そのまま放っておくことにしたのさ。秀全様がおっしゃるには、これは八津神様に特別な力を授けられるイニシエーションなので自分の力で治癒しなくてはならないと。結局、巳八子様は一週間ほど寝込んだ後に何事もなかったように目を覚ました。そして、その後の巳八子様は更に神々しいオーラを纏うようになったのさ。あの深く澄んだ瞳で見つめられると、誰もが心の内までを見透かされているような気になるものさ。巳八子様の前では嘘やごまかしは一切通用しない。不思議なもので動物も皆、巳八子様にはよく懐いたものだよ。いや、あれは懐くというよりはひれ伏して従うと言った方がいいかもしれないね。それまで騒いでいた動物たちも皆、巳八子様が通ると首を垂れるように神妙になるのだから。あたしは巳八子様には神が宿っていると信じている」

 良枝はうっとりとした表情で言葉を結んだ。

「巳八子様も初潮とともに婚約をしたのですか」

 大輔のいささか不躾な質問に良枝は我に返ったように振り返る。

「いいや、輝龍家の女性だけは二十歳になった時に輝龍家当主に結婚相手を決めてもらうことになっているのさ。本当だったら秀全様がお決めになるはずだったのだけど、巳八子様が二十歳の時に突然、秀全様が神隠しに遭われてしまって、結局、巳八子様は未だにお一人身のままなのさ」

「神隠しですか?」

 大輔が訝しげな声を上げた。

「そう、神隠し。秀全様は突然、消えてしまったのさ。誰も詳しいことは知らない」

 良枝は神隠しという言葉を日常に起こる何でもないことのように使った。そしてさも残念といった様子で首を横に振っている。

「巳八子様もとてもよくやってくれているよ。確か今年で三十七になるはずだけど、相変わらずの美人だし」

 厨房から口を挟んだ源三を、良枝がキッと睨みつける。

「お父ちゃん、巳八子様は美人なだけじゃないよ。秀全様に勝るとも劣らない逸材だよ。宮司を継がれてからは、あたしたち村人が時代に置いてけぼりにならないようにと、開明院をお作りになってくださったじゃないか。あれは秀全様にはなかった発想だよ」

「確かに良枝の言うとおりだ。俺も新しいレシピを編み出すために随分と開明院のお世話になったものだ。あそこがなけりゃ、今のカレーの味は出来なかったよ」

 源三が厨房から顔を乗り出してきた。

「開明院とは一体何ですか?」

 会話についていけない大輔を二人が同時に見やる。

「開明院はあたしたちが知りたいことを何でも教えてくれるところ。蒙導師もうどうしに聞くだけで何でも答えてくれるのさ」

「良枝、お前のその説明じゃ、舘畑さんが理解できねえだろ」

「そうかい、悪かったね」

 良枝が不貞腐れたように横を向いた。

「舘畑さん、俺が説明してやるよ。開明院には衛星通信アンテナが取り付けられていて、インターネットに接続できるようになっているんだ。でも、それだけじゃねえ。蒙導師が俺たちに代わって調べたいことを何でも検索してくれる。その上、その結果を親切に嚙み砕いて教えてくれるのさ」

「蒙導師には学校の成績が優秀なほんの一握りの者しかなれないのさ。美穂ちゃんだったら多分、いい蒙導師になれてたと思うよ」

 良枝が機嫌を直して会話に加わってきた。

「でも、そんなまどろっこしいことをしないで、各自の家にインターネットを繋げた方が便利ではないでしょうか。そうすればわざわざ人に頼らなくても、いつでも自分で好きに利用できるわけだし」

 思わず浮かんだ疑問を口にした。

「だって危ないだろ」

 良枝がすかさず返答する。

「えっ、危ないって、何が?」

「インターネットは怖いところだって言うじゃないか。あたしみたいなのが迂闊にそんなところに入っていったら、とんでもないことに巻き込まれちまうよ。テレビでよくやってるだろ。詐欺に遭ったり違法請求されたりしてお金を盗られちまう事件がさ」

「俺みたいな老いぼれにとっては、知りたいことを蒙導師が手際よく検索してくれて、それを噛み砕いて教えてくれる方が楽なんだよ。何か調べたいことがあっても、それをどう調べていいか分からないしな。出来のいい人間を通して教えてもらうのが一番なのさ」

 当然といった様子で源三が何度も大きく頷いた。

「それに、各自が勝手にインターネットを使うようになったら、馬鹿な奴がとんでもないことを調べようとしたりするだろ。蒙導師はちゃんとそういう場合は検索を却下してくれるのさ。巳八子様は本当に賢い仕組みを作ってくれたものさ」

「それに引き替え、秀胤様のところの秀栄しゅうえいはしょうがないな、ぼんくらで。巳八子様と同い年のくせに雲泥の違いだ」

 厨房から源三が口を挟むと、良枝も大きく頷いた。

「秀栄っていうのは分社を任されている秀胤様の一人息子。子供のころからひねくれた意気地なしで、巳八子様とは天と地ほどの差があるボンボンよ」

「まあ、幼い頃から何かにつけてあの巳八子様と比べられたんじゃ、ひねくれもするだろうよ」

 源三が幾分の同情を含んだ声を発した。

「秀栄は子供ができる前に奥さんを病気で亡くし、今は男やもめなのさ。輝龍家の血筋を絶やさないために早く再婚すればいいのに、あいつ、最近では節操なく恵美子ちゃんに色目を使っているらしい。葦原さんにばれたら大変だよ。まったくどうしようもない奴だよ」

 良枝が吐き捨てるように呟いた。


 大輔は門脇食堂を後にすると、あてもなく村の中を足任せに歩いてみた。相変わらず、すれ違う村人たちは警戒心を帯びた目で大輔のことをじろじろと見やったが、大輔の方にも徐々に免疫ができてきたのか、今ではあまり気にならなくなっていた。源三や良枝が温かく受け入れてくれたことも少なからず影響しているのだろう。そして気が向くと、まとわりついてくる野良犬たちを撫でたりしながら、重苦しい灰色の空の下をただあてもなく歩いた。

 考えまいとしてもどうしても美穂のことが頭に浮かぶ。進学することも拒否され、幼い頃に決められた婚約者と狭い世界で生きていくことを強いられるということは、活発で好奇心旺盛な美穂にとっては息が詰まることだったのだろう。しかし一方で、唯一の肉親である父親が自分の失踪のせいで村八分になり、看病もされぬまま孤独に病死したことは美穂の心に大きな傷を残したはずだ。そして予期せぬ妊娠。真由美との苦い経験から新しい結婚に臆病になり中途半端に同棲生活を続ける大輔に対して妊娠の事実をどう伝えるべきかを悩み、そして新しく宿った命とどう向き合うべきかを美穂は一人で抱え込んでいたのではないだろうか。美穂の心は大輔が思うよりもずっと不安定に揺れていたのかもしれない。明るく快活に見える美穂だったが、その心の内には繊細なものを抱えていたのかもしれない。大輔は、美穂が自ら命を絶ったということが必ずしも考えられないことではないようにも思えてきた。

 その時ふと、むせび泣くような笛の音が湖面を渡る風に乗って流れてきた。雅楽特有の優雅さと厳粛さを帯びた音色だ。いつのまにか桟橋に来ていた。今日は重男の姿も渡し舟も見当たらない。その代わり桟橋の上には中年の男女が佇み、何やら心配そうに湖の彼方を凝視している。二人の視線の先にある神島は相変わらず深い霧に覆われたままだ。笛の音はその霧の奥からそっと流れてくる。時に強まったり弱まったりしながら、聞く者の心の奥底にまで沁みわたるように広がっていく。まるで時空を超えて遠い過去から流れてくる古の調べのように。

 突然、乳白色の霧の中から別の種類の音が聞こえてくる。ぎっ、ぎっ、ぎっという規則正しい音。音はだんだんと近づいてくる。突然、霧の中から木造の舳先が姿を現した。渡し舟だ。やがて舟の全貌が露わになる。舟尾では重男が長い櫂を規則正しく左右に動かしている。櫂が動く度に重男の長い髪が揺れ、ぼろきれの様な服から覗く二の腕の筋肉が大きく盛り上がる。そして渡し舟の中ほどには、着飾った一人の少女が緊張気味に座っている。真っ赤な着物を纏い、きれいに束ねた髪にも赤い簪が見てとれた。少女は膝の上に置かれた丸い筒を大切そうに両手で握っている。

 やがて舟が桟橋に横付けされると重男は少女を軽々と抱え上げ、桟橋の上へと移動させた。両親だろうか、桟橋で待っていた男女が駆け寄り少女を交互に抱きしめる。途端に少女の顔に安堵の色が広がっていく。やがて父親らしき男が少女の抱えていた丸筒の蓋を開け、中から一枚の紙を取り出した。母親らしき女も横から男の手元を心配そうに覗き込む。二人はしばらく無言で紙を見つめていたが、やがてお互いに目を合わせると納得したように何度も頷いた。  

 大輔には想像がついた。恐らく少女は初潮を迎え、尾呂血神社で将来の結婚相手を決めてもらってきたのだろう。少女のあどけない顔が、山根家に残されていた美穂の幼い頃の写真の姿と重なった。美穂もあのように緊張して舟に揺られていたのだろうか。桟橋では父親が待っていてくれたのだろうか。そして、父親はその温かい胸で美穂を抱きしめてくれたのだろうか。笛の音は大輔の胸の奥深くにまで染み込み、いつまでも心を揺さぶり続けた。


 日暮れ前に樵荘に戻り、ひと風呂浴びた。糊のきいた浴衣の上に丹前を羽織って食堂に下りていくと、今日も大輔以外に客はいなかった。既に食卓の上に用意されていた山菜の揚げ浸しに目が留まると、無性にビールが飲みたくなった。卑埜忌村に来てから精神的に随分と翻弄されてきたが、ようやく気持ちの整理がつき始めているのかもしれない。女将にビールを頼むと、しばらくして台所から静香がビールの中瓶と栓抜きを持ってやってきた。今日も赤いジャージが良く似合っている。

「偉いなぁ、お手伝いかい?」

 静香が照れたようにはにかむ。静香は大輔にビール瓶を渡した後も、去るそぶりを見せずにその場に佇んでいた。何か話したげな視線で大輔を見上げている。そして大輔がコップに注いだビールを半分ほど飲み干すと、待っていたかのように話しかけてきた。

「今日の午後、恵美子おばちゃんがおじさんのこと、訪ねてきたよ」

「えっ、葦原恵美子さんが?」

 静香はおさげ髪を揺らしながら大きく頷いた。何だろう、午前中に会ったばかりなのに。何か話し忘れたことでもあるのだろうか。

「何か言っていたかい、恵美子さんは?」

 静香が首を横に振ると、おさげ髪が左右にぶるんと揺れる。

「美穂姉ちゃんが死んじゃったあと、恵美子おばちゃんは美穂姉ちゃんの荷物を実家まで運んでくれたの」

 そうか、それで樵荘に滞在していた美穂のスーツケースが山根家に置いてあったのか。ただ、いずれ美穂の荷物もあの部屋に残されている写真と共に処分されるのだろう。

 山菜の揚げ浸しに箸をつけると、何とも言えない旨味が口の中に広がった。昨日までは美穂の死のことで頭が一杯で、食事をしている時も味覚にあまり意識が向いていなかったが、今日、改めてじっくりと樵荘の料理を味わうと、どれも質素なものばかりだったが驚くほど美味なことに気がついた。白米はつやつやと輝き噛むほどに甘みが口の中に染みわたり、野菜はどれもシャキシャキと張りがあり都会の野菜が失ってしまった野菜本来の甘みと風味に満ちている。山菜も滋味に溢れ、まるで山の生命力を直に頂いているかのようだ。東京の高級店でもなかなか味わうことのできない本物の味だ。どれも卑埜忌村で採れたものなのだろう。

 その後も静香は台所と食卓を往復し、料理の上げ下げを手伝っていた。食後のお茶が運ばれてきたときに、ふと静香の腰のあたりで揺れているバッグのようなものに目が留まった。先ほどから忙しく働いているにもかかわらず、ずっと大切そうにそのバッグを肩から斜め掛けしている。布地のバッグの表面には若い女の子たちの写真がプリントされている。

「静香、その袋は何?」

 大輔がそのバッグを指しながら尋ねると、静香はニコッと微笑み得意げな顔を見せた。

「これ、袋じゃなくてサコッシュって言うのよ」

「へえ、サコッシュか。その写真の女の子たちは?」

 途端に満開のひまわりが咲いた。

「NiziUよ」

 思わず美穂の顔が頭に浮かぶ。

「ファンなのかい?」

 静香が大きく何度も頷くと、おさげ髪がぶるんぶるんと揺れる。

「お父ちゃんが村の外から来るトラックの運転手さんに頼んで、米子駅前のデパートで買ってきてもらったの」

「美穂もNiziUが大好きだったの、知ってる?」

「知ってるよ。NiziUのこと、たくさんお話ししたよ。お姉ちゃんはリクが好きだと言ってたけど、私は断然マユカだな」

 静香は腰のサコッシュに両手を添えると、大輔の目の前に掲げた。そこには、大輔には見分けがつかないような似た顔の九人の若い女性が微笑んでいる。静香はその中の一人を指さしていた。恐らくそれがマユカなのだろう。それから静香はいきなり、ワナメイキューハッピー、と口ずさみながらリズミカルに左右の足を交互に跳ね上げさせた。おさげ髪が大きく揺れ、もぎたての桃のような頬が薄紅色に上気する。そして、うれし恥ずかしそうにふふふ、と両手で口元を隠しながら大輔を見上げた。大輔も拍手で応える。

「とても上手だね。将来の夢は歌手になることかな?」

 途端にひまわりが萎れたように静香の表情が曇る。静香はチラッと台所を見やると、無言のまま廊下へと駆け去っていった。



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