第六話:曇り顔
あれからどれくらい経っただろう。
稲光も雷鳴も、随分遠ざかったような気がする。
ちょっとした音や光でも怖がっていた海笑瑠さん。彼女が怯えないように注意しながら確認してたけど、もう少しすればきっと大丈夫かな。
顔を横に向け、胸に収まっている海笑瑠さんの表情は見えない。
綺麗な金髪と掛けたヘッドホンが間近に見えているだけ。
一時は暗雲しかなかった空も、少しだけ雲が途切れ、遥か遠くに夕焼け色の空が見えた。
でも、この辺は相変わらず暗いし、雨がしとしと降る音がずっと続いている。
周囲に人気はなく、合間に一、二台車が通り過ぎたくらい。
っていうか、時間的にもう少し人が通りそうだったから、こんな状況を誰かに見られるのはって思ってたから、それにはほっとしてる。ほっとしてるけど……。
気が抜けたってわけじゃない。
だけど、雷が遠ざかって内心安堵したせいか。俺は改めてこの状況が、相当ヤバいって事に気づいた。
い、いや。最初に腕にぎゅっと抱きつかれた時もヤバかったけど。
今って完全に胸の柔らかさを身体で感じちゃってるし、ジャケット貸しちゃって腕が随分冷えてるんだけど、だからこそ海笑瑠さんの服越しの温もりをより感じちゃってる。しかも髪の毛からも相変わらずいい香りがしてるし……。
色々な背徳感が、俺の理性を混乱させる。だけど、それを必死になって堪えた。
そうじゃなきゃ、彼女や彼女のお母さんに申し訳が立たないから。
だ、だいたい、俺達はグラ友なだけ。本当はこういうのって恋人同士でもなきゃしちゃいけない事だろ?
彼女も怖がって止むなくこうなってるけど、本当は嫌なんじゃないか?
緊張と不安で、心音があがってるんじゃって錯覚する。
一応ヘッドホンをしてるから大丈夫だと思うけど、こんな音まで聴かれてたらどうしよう……。
自分でこの状況を作ったくせに、ここに来てこうやって緊張している事に、少し罪悪感と情けなさを覚え始めた頃。
「……久良君。そろそろ、大丈夫そう?」
ぽそっと、海笑瑠さんの声が聞こえた。
「あ、えっと。雷は随分遠ざかって、遠くで音が聞こえてるくらいかな」
「そ、そっか……」
……ん?
その短い一言に、ちょっと違和感を感じた。
いや、多分勘違いだと思うんだけど、何となく残念そうな感じに聞こえちゃって。
「あ、あのさ。もう、大丈夫だと思う。多分……」
「え? あ、う、うん。わかった」
回していた腕を離すと、少し俺から離れた海笑瑠さんが俯いたままヘッドホンを取る。
ゴロゴロ……
最初に耳にしたよりもずっと遠い雷鳴。
彼女はビクリとしたけど、それでもさっきほど怖がっている感じはなさそうだ。
「ふー……」
大きく息を吐いた彼女が、こっちに顔を上げ──。
海笑瑠さんの顔を見た瞬間、俺の思考が一瞬止まる。
目を閉じていた彼女が、意を決して目を開けると。
「……へ?」
突然目を丸くし、あっけに取られた。
多分、俺が見ている物と同じ物を見ているはずだから。
……彼女の眼鏡は、吐いた息のせいで一部が白く曇っていた。
「うっわっ! たたた、たんま! 久良君、あっち向いて!」
「あ、う、うん!」
突然の命令に俺は思わずくるっと海笑瑠さんに背を向ける。
多分あれ、俺に体を預けてたから、そのせいで吐いた息が眼鏡に当たってたんだな。これくらい肌寒くなると、案外起こったりするから。
しかも、稲光を見ないよう目を閉じてたから、彼女もさっきまで気づいてなかったんだろう。
「ぜ、絶対振り返っちゃダメだかんね!」
「だ、大丈夫だよ」
必死に釘を差した海笑瑠さんは、きっと眼鏡を拭いてるはず。
眼鏡を買いに行ったあの日も、眼鏡をしていない素顔を見せたくなさそうだったし、絶対振り向かないようにしなくっちゃ。
さっきまでの事もあったし、こういった決意をしたからこそ、少し緊張しながら待っていると、海笑瑠さんが背後で、ぽそっと呟いた。
「……もう。あたしってば、ダッサー」
……ん? もしかして、雷で怖がった話かな?
「別に、そんな事ないと思うけど」
「ううん。ダサダサだってー。あたしが汗掻いて蒸れちゃったから、眼鏡があんなになったわけだし……」
蒸れる……って、ちょっと待った。考えてみたら、俺も少し汗ばんでる気がする。
もしかして海笑瑠さんの眼鏡が曇ったのって……。
「い、いや。それ、もしかしたら、俺のせいかも……」
「え?」
「だって、俺も緊張でちょっと、汗ばんでるし……」
「……久良君も、やっぱ、緊張した?」
背中から聞こえる、おずおずとした問いかけ。
「そ、それは……勿論……」
き、緊張するに決まってるじゃないか。
女子にああやって腕に絡まれたり、抱きしめたりなんて経験もないのに、相手は眼鏡ギャルの海笑瑠さんなんだぞ!?
普段だって可愛くて魅力的なのに……。
内心ドギマギしながらたどたどしく答えた俺。だけど、海笑瑠さんから言葉が続かない。未だ止まない雨の音が俺達二人を包む中、彼女は暫く沈黙していたんだけど。
「ね。久良君」
ふっと、雨の音を遮って、妙に落ち着いた海笑瑠さんの声がした。
「……何?」
「あの、さ。久良君って……あたしの素顔、見てみたい?」
「……え?」
突然の質問。その意味はわからないけど、俺は内心こう思っていた。
好奇心っていうわけじゃないけど、見たくないかと言われたら、見たい気はしてる。だけど……。
「えっと……半々かな」
「半々?」
「うん。どんな風なんだろうって気になってる気持ちが半分。でも、見るのが怖い気持ちも半分あるから」
「怖いって、やっぱりあたしの初恋のことがあったから?」
「……まあ、それもあるかな」
ぼんやりと雨の降る街並みに目をやったまま、俺は本音を語り始めた。
「海笑瑠さん、初恋で傷ついたのを知ってるからこそ、自分がもし素顔を見た時、同じように傷つけちゃうんじゃって気持ちはずっとあって。やっぱりそれは嫌だなって思ってる。でも……」
ふぅっと、未だ曇っている空のように、俺は重いため息を漏らす。
自分でも、そんな気持ちが重すぎるってわかってる。
でも、話した。
それは、はっきり自覚した不安だから。
「情けないけど、それで海笑瑠さんを傷つけて、俺から離れちゃったら。そうなるのが怖いんだよね」
「それって、あたしが友達として距離を置くって事?」
「うん。お互い気まずくなって、距離を置くようになったりしたら、きっと俺はまた、学校でも独りっきりに戻る。そんなの慣れっこなはずなのに、今はちょっとそれが怖いんだ。海笑瑠さんが誰かが側にいる楽しさを教えてくれたし、友達じゃなかったクラスメイトとも、ちょっとは話せるようになったから。……まあ結局、自分だけじゃ何もできてないからなんだけどさ」
「……そっか」
ぽつりと漏れた彼女の一言。
それは、切ないっていうより、少し嬉しそうに聞こえた。
「おっけー。振り返ってもいいよ」
海笑瑠さんの言葉を聞き、振り返る前に笑顔になろうと努力する。
何となく、自分でも笑えてないってわかったし。だけどそんな顔してたら、彼女に心配かけちゃうもんな。
一旦空を仰ぎ見た後、手をぎゅっと握り、俺は自然を装い振り返ったんだけど。その瞬間、俺はまた固まり、目を瞠った。
だって、そこに立っていたのは──眼鏡を外した海笑瑠さんだったから。




