098「顔がわからないようなひとたちに」
零雨の頭は肌色の破片と螺鈿の髪の混合物になった。血も脳漿も出ていない。さながら、マネキンをたたき割ったような痕跡だった。
その姿に絹夜が絶句し、榧が残骸を冷徹に見下ろしていた。豪禅は榧と零雨を交互に見てから、困ったように口元に手を遣った。
「……れいう……」
絹夜が顔色を失って呟く。それに対して榧は、
「触れちゃならねえもんに触れよるからじゃ、阿呆が」
と、吐き捨てた。それから手元に視線を落とし、それを開閉させる。問題なく動くことを確認した榧は再び金棒を肩に担いだ。
瑠々緋に向き直る。彼女は彼女で、うずくまる碧衣を気にかけていた。まるで具合の悪い子どもを心配する母親のようだった。
榧が再び殺意を纏った。口角が吊り上がる。まさに鬼に金棒といった風体であった。
「さあて、邪魔が入ったが……ようやっと、本懐を遂げられるのう」
臨戦態勢になった榧を見て瑠々緋は呆れたように、
『……あなたは狂っていますね、海津榧』
そう言い、嘆くように首を振った。同情するような視線を榧はなおも嗤った。
「あぁ? 狂っとる? んなもん、最初っから皆一緒じゃろうて」
榧の後姿を、豪禅は見ているだけだった。
豪禅の頭の中には榧を止める選択肢はなかった。寧ろ自分のためにそこまで怒ってくれて何を顧みず己を助けようとしてくれる、その心意気に惚れ直していた。
(やはり榧は……俺の旦那様だな……)
ほうと息をつき、頬を染める豪禅。異常であることは傍目から見れば明らかだった。けれど異常であると非難する者はいなかった。
零雨は顔面を破砕されてしまい、もはや動くことができない。そんな愛しい者の姿を目の当たりにした絹夜は呆然自失だった。榧を止める<言霊>を放つ余裕がない。
絹夜は零雨だったモノに駆け寄った。
零雨のからだは水分を失い、指先からひび割れて静かにぽろぽろと崩れていた。
仮初の『器』であろうと著しい損傷が見られれば、それは死と同じである。零雨は現在仮初の死を体験していた。
(ああ……この子の泣き顔を見ることになるなんてな。あの時だって見なかったというのに……)
「……れ、零雨……っ、れいう……!」
辛うじて残っていた視界が、絹夜を見た。
前髪に隠された彼の瞳からは大粒の涙があふれていた。
(泣かないで、俺の一等星)
慰めてやりたいのに、喉が砕かれているせいで言葉が出なかった。
その頬を流れる涙を拭ってやりたいのに、鉛のように体は言うことを聞いてくれなかった。
「……っ、……おれが、……おれが、ちゃんと……っ!」
(お前は何も悪くないよ)
あとで思いっきり抱きしめてあげよう。
零雨はそう思った。
「さあて、覚悟はできとるか!」
榧の声が響く。金棒が暮れ始めた空に獰猛に光った。
(止めきれない、か)
せっかく、目覚める機会が巡ってきたというのに。
零雨が目を瞑ったその時だった。
ドゴォンッ
金棒を振り下ろすより先に、眩い光があたり一面を貫いた。落雷である。
焦げ臭い香りが漂い、煙がもうもうと上がった。視界が晴れるとすべての事はもう終わっていた。
「っ! 凛龍!」
榧の叫び声に豪禅が光に閉ざした目を開いた。そこには組み敷かれる榧の姿があった。
凛龍が彼女をうつぶせに押し倒していた。首には刃がかかっている。
「榧!!」
豪禅はすぐさま走り出したが、その肩を誰かに強く引かれる。引いたのは姫綺だった。
「はい、そこまででございますよ」
「……っ! ん? 誰だ……?」
姫綺の格好を見て豪禅が怪訝そうな顔をする。見たことのない姿だったからだ。
彼女は狐の一族――だからその髪の色は金色で目の色は左右で違うはずだった。狐の一族はそれが特徴だったから。
けれど今の彼女はそのどれにも当てはまらない。銀髪に瑠璃色の瞳という豪禅の記憶にない姿をしていた。
豪禅に問われ、姫綺はにこりと笑って恭しく礼をとった。
「ごきげんよう、私は今のところまだ姫綺でございます」
「今のところ……? どういう意味だ? お前は、お前ではないのか?」
「私は私でございますよ。諸事情により姿を変えておりました。……いずれにせよ、私の説明よりも先に、豪禅さんにはすべきことがございます」
姫綺は笑顔のまま、凛龍に引き倒されている榧を指さした。それから、
「あの脳筋バカにやめろと言いなさい」
姫綺の言に、豪禅がかっと顔を赤くした。
「……! 榧を侮辱するな!」
豪禅の反論に、姫綺はことさら冷めた目をした。
「侮辱するな? では愚弄しても?」
「な……っ!」
豪禅が衝撃に言葉を失うが、姫綺は構わず続けた。
「あなた方仮にも結菊家の元当主とその妻でしょう? この状況で優先するべきはあなた方の都合ではございません。まあ、でも。あなたが言わないのであれば仕方がございませんね」
ふう、とわざとらしく姫綺が溜息をついた。そして、
「あなた方ふたりには一か月ほど隔離生活をしていただきましょう」
「……え?」
豪禅が理解できないといった顔をした。姫綺の表情は真面目だった。
冗談を言っているわけではないようだった。
「隔離生活、でございますよ。顔を合わせることはもちろん、声だって聞かせません。一か月お互いの存在を全く感じない生活をしていただきます」
「……っ!」
じわじわと事の重大さを理解した豪禅の顔が青褪めていく。
豪禅と榧は一心同体――常に共にありたいとそう願う夫婦だ。隔離されるというのは半身を引きちぎられるようなもの。耐えがたい苦痛だった。
「……そ、そんな……そんな、こと……お前が、できるわけ……」
ようやっとといった風に豪禅が言葉を紡ぐ。
確かに姫綺は<紅姫>の世話をする機会が多い。だから特別親しいかもしれないが、勝手に処分を決めて良い地位ではないはずだ。そういう気持ちのこもった言葉に、姫綺は淡々と答えた。
「できますよ」
「え?」
「すでに膠さんには許可を頂戴しております。あれらはどうしようもない夫婦だから謹慎などでは生ぬるい、と」
「……っ!!」
虚言である可能性もある。けれど、姫綺の真っ直ぐな瞳は嘘を言っているようには見えなかった。
迷う豪禅に姫綺はなおも畳みかけた。
「さて、いかがいたしますか豪禅さん。選べる道はふたつにひとつだけ……隔離がよろしゅうございましたら、すぐさま手配いたしますが?」
「っ! ま、待ってくれ……今、止める……止めるから……!!」
ようやっと豪禅は怯えた表情のまま、首肯した。そのまま榧と凛龍のもとへ向かうと、その場に膝をついて榧に何か伝えた。そうして、彼女の殺意が薄まったのを感じたらしい凛龍は刀を納めて彼女の上から退いた。
束の間の静寂が訪れる。
『お前は、瑠璃光の……』
それを破ったのは、瑠々緋のやや驚きに満ちた声だった。
その名を聞いて反応を示したのは姫綺だった。
「ええ、娘でございます」
『あれも惜しいことをしました。真っ当にゆけば死ぬことなどなかったでしょうに』
「……」
瑠々緋の言葉に姫綺は返さなかった。
『瑠璃光の娘よ、名はなんと名付けられたのです』
「……知る必要のあることでしょうか」
『ええ、ぜひ』
力強く言い切る瑠々緋に対し、姫綺は沈黙のまま答えなかった。
名は体を表す――ここで名を知られるのは不利益であると姫綺は考えたのである。
問いかけを無視して、彼女が泣く絹夜と壊れた零雨を見た。零雨はほとんどなくなっていて、絹夜は洟をすすっていた。姫綺は近づいて彼のそばにしゃがんだ。
「絹夜さん」
絹夜が顔を上げた。頬は涙で濡れていて目も充血していた。
「……ひめ、あや……」
かすれた声で名前を呼ぶと、彼女は悲しそうに微笑んだ。
「申し訳ございません。……あなたを悲しませるつもりなんて、なかったのに」
「……すま、ない……」
「いいえ、あなたは何も悪くございませんよ。『器』については早急に狂輔さんに手配いただきましょう。大丈夫ですからね」
「……ん」
絹夜は小さく首肯した。姫綺は彼が頷いたのを確認し、瑠々緋たちを見た。
ふたりとも何らかの行動を起こす様子はなかった。
事態が収束するのを待っているのか。或いは、何かが始まるのを直感しているのか。
対する榧と豪禅は身を寄せ合って姫綺たちを睨みつけている。こちらもまた、これ以上場を荒らすような素振りはなかった。
「凛龍さん」
「はい」
刀をしまう凛龍に姫綺が声をかける。
「あとは……お願いいたします」
「……はい」
凛龍にそう伝え、姫綺はトランクを開いた。
『――あるべきモノはあるべき場所へ。――誘え、虚ろの都へ』
彼女が唱えると、絹夜と零雨、そして榧と豪禅がトランクの内側へと吸い込まれた。まるで砂絵を崩すような光景だった。
『<魔法>……』
瑠々緋が落とすように言った。姫綺はトランクを両手に提げたまま、一礼した。そして自身もまた同じように、砂のように消えた。
凛龍が碧衣を見る。この状況下でひとりなんの理解も得られていないのは彼だった。けれど彼の表情に意味不明な状況に対する戸惑いはないようだった。
「お前、なんで<紅姫>さんに会いてえんだ」
「……へ?」
凛龍の問いかけに碧衣は一瞬きょとんとした。それからすぐ笑って言った。
「一緒に死んでほしいから、だよ」
「……あ?」
答えに、凛龍は眉をひそめた。
「死んでほしいんだ、俺は『魂』を食らう化け物だから。誰にも理解してもらえない……でも<紅姫>だったらわかってくれるよね? 俺のこの気持ち……理解して、くれるよね?」
縋るような青い瞳に、凛龍は居心地の悪さを感じた。
大量の自殺者を引き起こしているような状況を生み出している張本人。
けれど、彼に悪意はない。
不気味なまでに、碧衣は悪意も敵意も抱いていなかった。
「……お前、何も思わねえのか」
「うん? なにが?」
「こんだけの人間が死んでるんだぞ? お前、やりすぎたとか思わねえのかよ」
凛龍は至極真っ当なことを言ったつもりだったが、碧衣は「えぇ?」と理解できない言葉をかけられたような表情をした。
「顔がわからないようなひとたちになにを思えばいいの?」
「……あ?」
顔がわからない。
今度は凛龍が不可解な顔をする番だった。
「顔が……わかんねえ?」
「うん。俺、ひとの『魂』しか見えないんだ」
「……ひとの『魂』、だと?」
「そうだよ」
「……見えるってのか」
「うん」
碧衣は力強く肯定した。
「……『特殊転生者』……」
凛龍がその言葉を口にすると、瑠々緋が妖しく微笑んだ。
まるで<紅姫>のようだと、凛龍は思った。




