096「お前に説明する必要はございません」
影経が豪縋と邂逅を果たしている最中、もうひとりの『死神』である霏龍は妙な気配を感じ取っていた。
筋肉で武装した屈強な体をツナギの中に押しこんで、バールを持った彼の無造作に背中に流した銀髪が風に揺れた。持っていたバールで『器』から『魂』を引き剥がしているところだった霏龍がぴたりと行動を止めたので傍らにいた祷と鋼が顔を見合わせた。今の姿は二頭の藍色の犬である。
「霏龍? どうかしたのかよ?」
「早く仕事を成さねば怒られますよ、霏龍」
急かすふたりの声など聞こえていないように、霏龍の金色の目は遠くを睨みつけている。それからバールを上に強く持ちあげ、『魂』を露出させる。現れた『魂』を手にすると素早く小さくして、星形のバッヂにする。それから手慣れた仕草でツナギにバッヂを取り付けた。
それから背を向けて歩き出した。
「え!? ちょ、霏龍!?」
「霏龍!」
ふたりの呼び声にも霏龍は立ち止まらなかった。
「え? 霏龍、どうしたんだよ……」
「なんだというのだ……?」
いつだって真面目すぎるくらい真面目な彼の意外すぎる行動にふたりが目を丸くした。しかし彼を独りにするわけにはいかない。鋼と祷は慌てて遠ざかる彼の背中を追った。
目指す場所があるように霏龍の足取りに迷いはなかった。
細い路地をいくつも抜けていき、喧騒から遠ざかっていくことに一抹の不安を感じながら、愛する者の成すべきことを見守らねばとふたりもついていく。
霏龍は規則を慮る体質だったが、時折大胆な行動にも出る。祖父と父、双方の影響があるのだろうと理解はしていた。けれど、仕事を途中で放棄するような無責任は男では決してない。
もし仮に上手に本質を隠せていたとて、祷と鋼の観察力を舐めてもらっては困る。そんな男だったのであれば好きになるどころか、興味さえ抱いていないだろう。だから彼のこの行動には必ず意味があると思っていた。
霏龍はとある廃ビルの前にやってきた。長らく使われていないことが、退廃具合からわかった。
「霏龍、なあ。どうしたんだって」
「霏龍、なにか申してはくれませぬか。我らは心配でたまりませぬ」
「……あ」
霏龍はその時はっと気づいたように振り返った。どうやら一心不乱だったらしい。
そういうところがある。
「も、もも申し訳ございませぬ! いえ、その、違うのです! なんだかざわざわと妙な感覚がしたものですから気味が悪く……俺自身も集中していて周りが見えておりませんでした……」
項垂れる霏龍に祷も鋼も犬の姿のまま笑った。
――こういうところが、好ましく思っているのだ。
「別にいいって! 責めちゃいねえよ」
「さよう。我らはそなたの行動の理由を知りたかっただけでございますゆえ」
ふたりにそう言われて、霏龍は照れたように笑った。
刹那、頭上で大きな打音がした。何かを打ち砕くような、強い音だった。
音のした方を見ると、ぱらぱらとコンクリートの細かな破片が降り注いだ。
「えっ、なにっ!?」
「何事ぞ!?」
「……っ!!」
霏龍は突然、気付いた。
肌を這う、この妙な感覚がなんなのか。
これは胸騒ぎだ。そしてそれに起因するものが今そこにある。
感じ取れるそれは、
◇
「――なんじゃ、戦いの心得があるんか小僧」
振り下ろしたそれは巨大すぎる金棒だった。
巨大な屋敷の柱を引っこ抜いてきたようなサイズの鈍器を軽々と肩に担いだ榧は獰猛な笑みを浮かべていた。ひとつに結い上げたざんばら髪がビルに吹きつける風に靡いた。へその出た挑発的なスタイルをした榧の目は爛々と燃えていた。それは敵意や害意よりも強い、殺意だった。
その視線の先にいるのは青い目をした青年である。避けた弾みに彼の手からこぼれたのは大量の光る飴だった。一目見てわかった。それは影経が見せた『想い』を凝縮したモノである。
なぜ人間がそんなものを持っているのか。
理由なぞ榧にはどうでもよいことだった。調査の結果判明したのは、眼前の青い目の青年が豪禅の友人を殺すように駒を配置したということだ。
だとすればすることはひとつ。
「悪ぃが小僧、ぬしにゃあ死んでもらわんといけんのじゃ」
榧の宣言に青年は怯えることもなく、ただ不思議そうに首を傾げた。
「え? 俺に? どうして?」
「わての一等大切なもんに傷をつけたからじゃよ」
彼の表情は変わらない。ただひたすらに理解できないという顔のままだった。
「君のことなんて知らないよ。俺は君のことを傷つけた記憶はない……『魂』がそんなに怒りに燃え盛っているけれど、人違いじゃない?」
「違えことなんかねえ。常坂恭弥が死んだんはぬしのせいじゃろう? のう、玉響碧依」
榧の発した名前に、青年碧依は目を見開いた。そして首を傾けて眉を寄せる。
その態度に榧が眉を吊り上げた。
「てめえの意図なんかわては知らん。だがぬしが伊佐木終夜を使って常坂恭弥の恋仲を唆して殺させたんは調べがついとるんじゃ」
「……はあ……なるほど」
そこまで説明されてようやっと碧依は合点がいったようだった。そして、にんまりと碧依が笑う。
「そうか、そうかそうか! 横取りされた『魂』は常坂恭弥君、っていうんだね! 終夜がしくじったのかと思ったけれど、しくじったのはその子の彼女だったのか」
「あぁ?」
「まあでも終夜が死んでくれたおかげで俺はたくさんの『魂』を食らうことができたから、どっちでもいーや」
「何言うとる……『魂』を食らうじゃと? <紅姫>みてえなことをぬしがしよるんっちゅうか」
「えっ、おねーさん、<紅姫>の知り会いなの!?」
碧依の表情がぱっと明るくなった。榧は気持ちが悪いものを見るように顔を引き攣らせた。
「あ?」
「えっえっ、どうしよう! そんな! これってもう会えるってことかな!? ねえ、『女神』さま、どう思いますか!?」
碧依はおもむろに自身の胸に手を当てた。するとその部分が赤く光り出し、蛍のような光が現れた。それらはひとつの場所に集まるとひとの形を作った。光の塊には徐々に色が付き、それは美しい女になった。艶やかな黒髪に、紫色の目。赤い蝶の舞う着物を纏う女である。その顔を見た時、榧が「えっ」という声を漏らした。
「……あ? あぁ? なんじゃと? ぬしは……!!」
榧を一瞥した女は、「へえ」と感心したように言った。
『――お前は……。ふうん、そう』
「『女神』さま、俺は……俺は……!!」
興奮気味に女に取りすがる碧依に、彼女はやさしく微笑んだ。
機が熟したのかもしれませんねと言われた碧依は飛び上がりそうなほど喜んでいた。
「やったあ! やっと、やっとお会いすることができるんですね!」
「おい!! こっちの話が終わっとらんぞ!! なしてぬしがここにおるんじゃ!! ――死空瑠々緋!」
榧がその名を紡ぐが、誰も聞いていなかった。
碧依は「うれしいなあ、うれしいなあ」と喜び、女――瑠々緋は叫ぶ榧を鬱陶しそうにしていた。
袖で口元を押さえながら、榧に侮蔑の目を向けた。
『煩いこと……お前は口から先に生まれたのですか、海津榧』
久しぶりに呼ばれる一族の名に榧は不愉快そうに顔を歪めながら、口の端を持ちあげた。
「っは、こりゃすまんのう。何から何まで緋乃神一族に奪われて一族郎党根絶やしにされた死空一族の族長様が、よもやまだこの世に縋りついていらっしゃると思わんでな……厚顔無恥とはよう言う、てめえらの為の言葉じゃのう」
瑠々緋は明らかな挑発の言葉に、ぴくりとこめかみが動いた。
『奪われてなどおりません……私はあれにただ幸福を与えてやっただけです』
「意味のわからんことを……そもそももう体もねえてめえに一体何ができるっちゅうんだ?」
『あら、〝器〟ならあるではございませんか』
「……あ?」
『私の力を閉じ込めている……、閉じ込めることができている〝器〟が』
「……な」
碧依は会話を理解できていない。けれど気にしていないようだった。
会話が終わるのを行儀よく待っている。その顔はさながら母親の井戸端会議に連れそう息子のようだった。
「てめえ、まさか。獄たちの体を……!!」
『あれは未だ神の力を秘めている……だからこそ私が顕現するに足るのです』
うっとりと頬に手を遣る瑠々緋を見て、はっと榧は鼻で笑った。
「させると思うか? 膠の周りにゃあ、紅錯も紅凱も……凛龍もおるんじゃぞ」
『へえ、私の道具たちだけでは飽き足らず白椿の嫡男も手にかけましたかあれは』
「道具? なんの話じゃ、わかるように説明せえ!」
瑠々緋は頑なに説明をしなかった。敢えて、である。
平行線で成り立たぬ会話に、榧の苛立ちが募っていく。苛立てばそれだけ、どんな手練れであろうと隙が生じるのだ。瑠々緋はそれを狙っていた。
『お前に説明する必要などございません』
「なんじゃと……!?」
榧が持つ巨大な金棒に力が入った。
碧依に向けていた殺意が今度は瑠々緋の方へ向いていた。
榧が一歩踏み出し、それから、
「……まあええ。死んでおらんちゅうんじゃったら、」
榧が地面を蹴った。見るからに重そうな金棒を担いだまま軽やかに空中へ飛び上がると、半身を捻った。瞬間着ている衣服から、榧の腕を伝って金棒へ力が注がれた。
人殺しに向いた衣服――殺意がそのまま膂力に変わったのである。
「もっぺん、殺すだけじゃ!!」
振り下ろす刹那、瑠々緋が笑った。
赤い光が榧の視界を覆った。




