094「タダで済むとは」
「――一体どうなっているんだよッ!!」
怒りに任せて机の上のものをぶちまけた。
書類が散らばり、コレクションフィギュアが床に転がった。
肩で息をしているそのひとへ、極めて冷静な声がかかった。
「キレたところでなにも変わりゃしねェぞ、狂輔」
『管理局』――『局長』狂輔。
その特徴的な糸目の間隙から焦燥を固めた視線が覗いている。袖を通さずに羽織った目に痛いショッキングピンクの着物がふわりと揺れた。立ち上がったままぜえぜえと肩で息をする彼女を見つめて、先刻声をかけた男が嘆息する。銀髪を後方に撫でつけたオールバックに、片目の潰れたその相貌はその道の関係者を思わせた。彼は狂輔の夫で『局長』の補佐を一手に担っている雷龍である。
現在『局長室』にはひっきりなしに警告音が鳴り続けていた。『器』と『魂』の乖離が感知されると警告音が鳴り、その情報を『死神』ふたりに通知する。
――それが、鳴りやまない。
雷龍は受け取った『死亡情報』を整理し、そしてそれらに優先順位をつけて回収する順番を通知する役割にある。しかし入ってくる情報のすべてが自殺であるため、優先順位というよりも行動範囲に近い場所の回収に行くようふたりに通達していた。
「……『魂』は世界のおもりなんだ……出鱈目にされたら調律ができなくなって……また駄目になる……」
「ンなこたァ知っているよ。ま、前は調律する側が限界ってンで世界を再構築するになったが……今回はなァ……」
「なんで? なんなんだよ! こんなに……一体なんで!?」
「落ち着けや、狂輔。いちおうお前ェさんはここの統括なんだぜ? お前ェさんがパニクってどーすンだよ」
「……雷龍……」
「とりあえずふたりにゃ近い位置から回収しろと伝えてある。……が、ちっとばかし量が多い。捌ききれん、それに」
雷龍がタタン、とキーボードを軽やかに叩いた。
表示された画面には大きく『ERROR』と表示されている。『回収』が失敗した時に出てくるものだった。
「……『回収』が追い付かんのはままあるが、『回収』ができねェってのは」
「……紅蓮の一件と同じか……。おかしい、この短期間で? くそ……でも相手は」
「生きている人間。――そう、神さまが決して干渉しちゃアならねェ存在だ」
警告音は鳴り響き、そして画面には『ERROR』の表示。
それでも雷龍は冷静だった。
「ま、今するこたァ原因究明より目先の『回収』だわな」
狂輔は沈黙した。それからはあ、と大きく息を吐く。
たしかにそうだった。今、まさに世界そのもの調律が乱されようとしている。
あってはならない。それだけは――決して。
「……大丈夫だよ、獄。小生はちゃんと、やり遂げてみせる」
狂輔の瞼の裏に慈悲深く笑う彼女の顔が映った。
◇
慌ただしい『管理局』のなか、一室だけ静かな場所があった。
『服飾課・仕立て係』と書かれたプレートがついた灰色の扉。その向こう側には『管理局』の外見にはまったくそぐわない洋室が広がっていた。花柄の壁紙に、ロココ調で揃えられた家具たち。あたたかな日の光が差し込むその部屋のあちこちには、大量の布とトルソーが置かれている。その中心で鼻歌まじりになにかを仕立てる女がいた。
縦に巻かれたピンク色の髪に朱色の瞳。胸元まで大きく開いた洋装に身に纏ったその姿は屋敷に住む令嬢のようだった。
彼女の傍らには男がひとり読書していた。肌には爬虫類のような鱗が浮かび、吊目気味の瞳は金色だった。身を覆うのは裾も袖も長い、まるで祭事で用いられるような厳かな格好だった。
彼は時折顔を上げてなにかを繕う女と目を合わせて笑い合った。穏やかで平和な雰囲気だった。
その雰囲気をぶち壊したのは、扉を乱暴に開く音だった。
「紗々羅! おるか!」
入ってきたのは屈強な体躯をした女だった。ざんばら髪をひとくくりにまとめた彼女は凹凸の激しい体をぴったりとフィットする服に押しこんでいる。その後ろには着物を纏った黒髪で、赤い目の女が控えていた。その顔には少しばかり焦りが窺えた。
名を呼ばれた女――紗々羅はついと顔を上げて首をこてんと横に倒した。
「ええ、ここにおります。紗々羅はいつだってここに」
「おう、そうか。ぬしに仕立ててほしいもんがある」
「あら、お仕立? 構いませんわ、なにを仕立てましょう」
「人殺しの服じゃ」
放たれた不穏な単語に紗々羅はまあ、と声を上げるだけだった。男も動じていなかった。
「ひとを殺すのはあまり推奨されていませんでしたかしら? 狂輔に怒られてしまうかもしれないわ榧」
「知らん。推奨されておらんだけで禁止はされとらんじゃろ」
「ええ、そうね。たしかにそうだわ」
剣呑な空気を漂わせたまま、榧は無遠慮に傍にあった丸椅子に腰を下ろした。対する紗々羅は入ってくる前となにも変わらず作業に取り掛かり始めた。
まずは仕立てていた服を横に置いて、椅子から立ち上がる。それから脇にある棚のほうへ歩いて、抽斗をひとつひとつ開けて中を覗く。布を取り出して吟味してから、机の上に置く。動作のどれもがゆっくりとしていた。その様子に、榧は少々語気を強めて言った。
「紗々羅、悪いがわては急いでおる。狂輔が手が離せん今でないと間に合わんのじゃ」
「あら。ごめんなさい、でも紗々羅は早いのは嫌いなの」
「……っち」
憎々しげに榧が舌打ちをするのが、紗々羅は気にしなかった。
あらかた布を取り出して机に並べると、針山に刺さっている針の一本を摘まみ上げた。それからそれを己の指先に躊躇いなく刺した。指先に赤い血だまりが現れたのを紗々羅はうっとりと見つめながら、並んでいる布に向かって血をふりかけた。
血がふりかかると布が生き物のように動き出した。鋏もないのに切れ込みが入り、裂けたその場からどんどん服の部品が生まれていく。
紗々羅は布から服が生成されるその様子を楽しげに眺めながら、絶えず己の指先を刺していた。刺す度に溢れる血が糸になって布と布とを繋ぎ、服にしていく。
あっという間に、真っ黒な服が出来上がった。榧が着ているものとほとんど変わらない仕上がりだった。しかし榧は頭上から舞い降りてきた服を手にすると、感心したように声を上げた。
「……服、か。同じ方法でぬしは『器』も創っとるんじゃったな」
「ええそうよ。紗々羅なんかが役に立つならと狂輔にお願いしたの」
「そうかい」
「でも今着ているものとあまり変わらなかった……お洋服があなたにはそういうのが似合っていると言っているようだわ」
「ええんじゃ。見てくれなぞどうでも。……この服じゃったら『器』の状態でも『依り代』と同じくれえの力が出せるな? 紗々羅よ」
「そうね、その通りだわ」
「そいつぁいい。跡形もなく粉微塵にせんとわての気ぃが収まらん」
「そう。穏やかではないわね、榧」
のんびりとした紗々羅の言葉に、榧は何も答えなかった。その瞳だけが好戦的にぎらついている。
服を抱え、榧は踵を返した。
「……感謝する、紗々羅」
「感謝なんていらないわ。紗々羅は憎まれて当然なのだもの」
紗々羅はおっとりとそう返した。
榧は黒い着物の女を引きつれて出て行こうとする――その時。
「――豪禅殿」
呼び止めたのは終始黙っていた男だった。
呼びかけられた女、否、女のような見目の男、豪禅は振り返る。
「……なんだ」
「伴侶を諌めるも、役目ですぞ」
「……」
豪禅は答えなかった。
そのまま榧のあとをついて出て行く。
扉がばたん、と音を立てて閉まった。
「――まあ、雹龍さまったら」
紗々羅が呼びかけた男のほうを見た。雹龍は肩を竦めた。
「聞く耳を持っていただけなかったか、仕方あるまい」
「仕方がないわ、あのふたりは。……それよりも」
紗々羅が笑った。恐ろしいほどに淫らな笑みだった。
座っている雹龍に覆い被さって、その唇に指を添える。雹龍は特段驚く様子もなく、その指をぱっくりとくわえた。
「……紗々羅はちゃんとお仕事をいたしました。だから、ご褒美がほしいの」
妖しく囁く紗々羅に、雹龍は微笑んだ。
「ああ、もちろん」
ふたつの影が重なった。
◇
「榧、榧」
「なんじゃ」
「榧は一体、だれを殺すんだ?」
「ぬしを憂き目に遭わせた奴じゃよ」
「見当がついているのか?」
「ああ。実行犯は死んでしまっとるようじゃから、主犯のほうを殺す」
「え? それは……どういう」
「調べてみると面倒くせェ話ばっかじゃ。やってられん……でもどうであろうとわては許さん」
「……」
「わての一等大事なもんを傷つけておいてタダで済むとは思わんことじゃ」
「……榧」
豪禅は笑った。榧もそれに笑いかける。
止まることのない夫婦のその背後に、影があることなど。
ふたりは気付かなかった。
「……に゛」
りりん、と鈴が唄った。




