092「誰かが死んじゃったみたい」
なにが起こったのかわからない。
ただひたすらに、熱くて――冷たい。
ああ、ここはどこだ。帰ってきて、それから?
ぽっかりと開いた記憶を埋める為に思い出そうとするけれど、だめだった。
あまりにも、寒かった。
◇
「……え。いまからですか……」
熱がやっと引いて恭弥に会えるのに、という愚痴は心にしまった。
電話の相手は――『メシア』だったから。
夜にしか会わない約束だった。けれどなんともないように、「これからお前を清めます」と言われた。
愛華はそれに「はい」以外に答えてはいけなかった。
だって、そういう風にできているから。
世界は『メシア』と『メシア』が救った子羊で成り立っている。支配者であり主人である『メシア』に子羊である愛華は逆らってはいけないのだ。
誰かが隣でそれを聞いていたのなら、きっと「洗脳だ」と言うだろう。けれど愛華には友人がほとんどいなかった。自分が世界で一番可愛いと思う愛華にとって友人とは便利に使う為だけの道具以外のなにものでもなかったからだ。愛華は友人がいないことを寂しいとは思ったことはないし、いないことで不利益を被ったこともない。
唯我独尊で生き続ける彼女にとって彼女と彼女以外の存在はないものと同じなのである。だから『メシア』が世界の成り立ちを説いた時、愛華はそれをほとんど真実のように思った。
――やはり自分は間違っていなかったのだ、と。
だからきっと恭弥も許してくれるだろうと考えていた。世界がそういう風にできているのなら、彼だって理解してくれるはずだ。だからこそ恭弥が自分以外を見ることはこのうえなく許せない。
煮えたぎる感情に蓋をして、愛華は『メシア』の為に着飾った。
黒は彼が嫌うから、白を基調とした服を着ていく。そして指定された場所に向かった。指定された場所は人気のない路地裏だった。
そこに、『メシア』はいた。天上から舞い降りてきた天使のように、『メシア』は立っていた。裾や袖が長い衣装は変わらず、そしてその顔を覆うベールも変わらなかった。
両手を広げて愛華を迎え入れようとするその様はまさに神である。愛華はその胸に飛び込んだ。
「――よく来ましたね、可愛い子羊」
「はい、メシアさまの為なら!」
「いい子です……さあ、行きましょう」
「はい!」
腕を組んですぐ『メシア』が耳打ちをした。
「――子羊。世界は悪意に満ち溢れています……お前と私の絆が悪意あるものに知られてしまうとお前に危険が及ぶ……だから、連れ歩いているときは笑わずにいてください」
「……はい、わかりました」
それは神の啓示だった。従わないでいる理由はなかった。
主人の言うことは絶対なのだから。
愛華は笑顔を封印して、路地から大通りに出た。
想像通り、周囲の人間がちらちらと愛華たちを見ていた。その視線は愛華にとってとても気持ち悪いものだったが、傍らにあるぬくもりを感じてすぐにその不快感は消え去った。安堵につい、笑みがこぼれそうになったので、いけない、いけないと愛華は頬に力を込めた。対する『メシア』は涼やかな顔色だった。その表情に愛華は益々自分の神を想った。
ひとの行き交う駅前にきて、愛華は少しだけ緊張した。駅前は通りよりもひとが密集している。それだけ視線も濃くなるのだ。悪意あるものに己と『メシア』の絆を知られてはいけない。
愛華はより一層頬に力を込め、睨むように前を見据えた。
歩いている途中、ふと向けた視線の先に可愛らしい少女がふたり並んでクレープを食べていた。
所謂ロリータ服に身を包んでいる。一方は黒、もう一方は水色の長髪をしていた。
談笑しているふたりのうち、水色の髪の少女がなにか言った途端、近くにいた女子高生が驚いた様子で少女のほうを見た。声はさすがに聞こえない距離だったから理由まではわからない。
(……なんだか)
愛華はその面影が恭弥に似ている気がした。
まさか、そんなはずはない。恭弥にあんな趣味はなかったし、恭弥にとって一番可愛いのは自分だ。
だから可愛い恰好なんてしない。
「……子羊」
『メシア』の声で愛華は我に返った。声のしたほうを見ると『メシア』が不思議そうに自分を見ているのがわかった。
「あ、……あ、ごめんなさい! なんでもないんです」
「……そう」
『メシア』は愛華を追求しなかった。愛華はほっと胸を撫で下ろした。
そして再び同じ場所へ視線を向けたが、少女たちはすでにいなくなっていた。
愛華はさっき面影がよぎったのは寂しいからだろうと自分を納得させた。
(今日はサプライズで会いに行ってあげようっと! きっときょうちゃん喜ぶよね)
『メシア』の腕に縋りながら愛華はそう考えた。
それはとても――とても素敵なことに思えた。
◇
『メシア』との逢瀬を終えて、愛華はさっそく恭弥の家に向かった。
『メシア』から目玉が飛び出るくらいびっくりする頼みごとをされた後だった。けれど愛華はそれがちっとも悪いことのように思えなかった。
だって神さまが言うことだから。
間違うはずがない。
愛華のそれは最早『信仰』だった。
信心深い愛華は『メシア』の言葉を恭弥にも伝えようと思った。その言葉が否定されることも、拒絶されることも、彼女には想像ができなかった。
寧ろきっと恭弥も理解してくれて、協力してくれるとも思った。だから早く伝えたくて愛華は一度家に帰り、念入りに体を洗って、メイクもし直した。服も着替えて、お気に入りのアクセサリーをつけた。
驚かせるだけでは申し訳ないから、家からケーキを持ってきた。分け合う為にナイフも一緒に。
自分はなんて気の利く彼女なのだろうとスキップしたい気持ちだった。本当にスキップをしてしまうとケーキがぐちゃぐちゃになってしまうからそれはやめたけれど。
恭弥のアパートの前に来ると突然胸が高鳴り始める。どくんどくんと早鐘を打った。
こんなにも好きなひと――愛華がこんなにも愛しているのだから、まさか浮気なんてしない。
だからあれは自分の愚かな勘違いだったのだ。愛しているがゆえの、不安が生み出す幻想。
(ええっと、きょうちゃんのおうちは……。……あれ?)
愛華は信じられないものを見た。
恭弥の部屋に見知らぬ少女が立っていた。そして彼女はごく自然に鍵を開けて中へ入っていったのである。
その一部始終を愛華は凝視していた。手から力が抜けて、ケーキの入った箱が落下した。箱は角から潰れて、ひしゃげた蓋の隙間からクリームが溢れた。
「……え?」
愛華は言葉を失った。
今しがた見たものが一体なんだったのか、頭が理解していなかった。
(なんできょうちゃんのおうちに女の子がいるの? なんで? うそでしょ? きょうちゃんのいちばんはあいかだけのはずなのに……)
愛華はふと思い立つ。つい先程天から授けられた言葉を。
――これはチャンスなのだ。
慈悲深き『メシア』の授けた愛華の心を問う試練。
だから愛華はこの試練に打ち克たねばならない。
愛華はナイフを持ってきたのを思い出した。刃毀れしないようにハンカチにくるんで持ってきた愛を分かち合う凶器。
リュックの中に入っているそれを取り出して愛華は恭弥の部屋へ足を向けた。
合鍵を使って部屋の中に入ると、少女は服を脱ごうとしているところだった。彼女の眼前にはベッドがあって――いつも愛華と恭弥が愛し合う場所だ――その上の毛布がこんもりと盛り上がっていた。
(まさか……きょうちゃん……!!)
恭弥は悪意に――いや、悪魔にそそのかされている。
だとしたら早く、彼の目を覚まさせてやらないと。彼を救えるのは自分だけ――。
愛華は気付かない少女の背に向かってナイフを掲げた。供物の支度をするように、愛華は真っ直ぐその背中にナイフを振り下ろした。
◇
「あ!」
その時、高架下の影が蠢いた。
黒い帽子を目深にかぶり、黒い外套を羽織った男――『死神』の影経である。もっとも声を上げたのは彼の首に巻き付いた橙色の目をした黒い蛇の方だったが。
「……どうした」
「影経、ここから十キロ圏内! 誰かが死んじゃったみたいだよう」
「……事故か?」
「うーん? うぅん、たぶんねー……違う、かも……」
「かも、って。……なんだよ」
「自殺? ううん、それよりももっと突発的で……」
蛇が体全体をくねらせながら疑問符を頭に浮かべている。影経は「っち」と舌打ちをすると手に持っていた傘を広げた。真っ黒な紳士用の傘――彼の息子からの誕生日プレゼントである。
「とりあえず行けばわかることだろ。くそ、まったく。絶えねえもんだ……」
風が吹いた。
傘を持っていた影経の足元が地面から離れる。そしてそのまま傘に連れ去られるようにして空へと舞い上がった。
「あっち、あっちだよう!」
「……わかってるからそんなに耳元で騒ぐんじゃねえ。……くすぐってえだろうが」
「あ、ごめんね影経。耳、弱いんだもんね」
「……っち」
言われた彼の耳が赤かったが、指摘するものは誰もいなかった。
そうこうするうちに着いた場所は比較的新しめのアパートの一室だった。すでに事は終わっていて、少女がひとり背中にナイフを生やして倒れていた。見てわかる即死だった。
「……殺しか」
「そうだねえ、自分じゃ背中にナイフなんて刺せないもんねえ」
蛇が感心したように言った。
影経は倒れている少女の水色の髪の下から茶髪が見えているのに気付いた。そっと指先でつついてずらすと、それがウィッグであることがわかった。わかったが、別にどうとも思わなかった。それよりも仕事が先である。
背中――ちょうどナイフの生えている位置に手を添えて、影経は目を瞑る。
掌がじんわりとあたたかくなった。ストーブの上に手を置いているような、仄かなあたたかさ。それが次第に熱くたぎってくると、彼の手の中には光の塊があった。
ひとの生命の根源――『魂』である。
『魂』は熱を帯びている。それはひとの『想い』がこもっているからだ。あらゆる経験と共に蓄積された数多くの考え、感情。それらが『魂』の原動力となり、そして生きる糧となる。
彼のした『経験』は生命活動の停止と共に『管理局』――『魂』を管理している天上へ送られている頃だろうが、『想い』だけはここに残留している。よく霊能力者がテレビで『無念』だの『執念』だの言うあれだ。
影経が光球を握ったまま指先に力を込めた。圧縮するような動きに合わせて、光球のサイズがどんどん小さくなっていく。最終的にビー玉ほどの大きさになり、それはころんと掌に転がった。
光を反射させた刹那、影経の頭を鋭く射抜き、掠める記憶があった。
「っ! ……あ?」
否が応でも『想い』に触れるから、時折近々の思い出が影経に伝わるのだ。
その中に見知った顔を見つけた。
「……まさか」
影経はビー玉を見つめる。それから指先でちょんちょんとつついて、中の記憶を少しだけ漁った。他人の感情なぞ知らないに越したことはなかったが、どうにも看過できない人物がいたから気になったのだ。
そして影経は見つけた。
赤い目をした黒髪の美人を。女と見紛う姿をした、自分と同じ境遇だった男を。
「……よりにもよって……」
影経は頭を抱えた。
蛇が心配して「どうしたの? おなかが痛いの?」と場違いな心配をしてきた。
腹痛というより、胃が痛かった。
「……っち、後で知られても面倒くせえ、か」
「影経?」
「……嶺羽、ちょっとばかし榧んとこ行くぞ」
「へ?」
唐突な提案に蛇が目を丸くした。
「野暮用だ」
「うん、いいよ? 影経の行くところなら僕がどこだってついてってあげるよ! お風呂もおトイレもね!」
「っ! 馬鹿が、んなところまでついてこなくていいんだよ!」
「へえ? だって影経ひとりじゃ怖いって――」
「うるせえ、行くぞ!」
影経は声を荒らげて乱暴に傘を開いた。
荒々しい風に乗っていく彼の耳は赤かったが――やはり指摘するものは誰もいなかったのである。




