091「あいかは、いい子だもん」
来栖愛華は苦労を知らない。不幸も知らないし、苦痛も知らない。
彼女の両親は一人娘の愛華をこれでもかと甘やかした。彼女が泣くことがないように、苦しむことがないように、大切に大切に育てた。
何かあれば対応するのは両親だった。だから愛華は自分が悪いと思ったことはない。常に自分は大切にされて然るべきで、誰もがそういう風に自分を見てくれるものだとそう思っていた。
だから、現在愛華の心の内を支配しているものがなんなのかよくわからなかった。ただ冷たくて熱くて、恐ろしかった。
手にしていたナイフはどこかにやってしまった。凶器なのだから拾って隠蔽せねばと思うのに来た道を振り返るのが恐ろしかった。
後ろから追いかける者など誰もいないのに、愛華は全力疾走していた。
(ちがう、ちがうちがう!)
何故ナイフなんかを持っていたのか、さっぱり覚えていない。
でも、誰かの背中の――その、やわらかな肉の内側に、冷たい刃を突き立てる感触だけははっきりと覚えていた。
(あいかは悪くない、あいかは、あいかは――!!)
愛華はけつまずいた。うまく手をつけなくて、派手に顔面から倒れ込む。
幸い、暗い夜道には誰もいなかった。
(痛い……いたいいたいいたいっ!!)
痛くて苦しくて、涙が出た。
でもそれを拭う者は誰もいない。愛華はひとりぼっちだった。
(……『メシア』さま……)
愛華は思いついた。
とても素敵なことを考えた。
(そう、これは『メシア』さまのため)
自分の信仰する神がそうしろと言ったから、そうしたまでだ。
だから自分は正しいのである。
(あいか、うまくできたんだから何も……なにもわるくない……)
愛華は立ち上がった。顔に歪な笑みが浮かぶ。
「……あいかは、いい子だもん」
愛華はそう呟いた。
虚空に静かに、声が消えていく。
◇
愛華はひとりぼっちが嫌いだった。
両親がいないときは使用人がたくさんそばにいてくれて、いつだって自分の言うことを聞いてくれた。それが幼少期から当たり前だったから、愛華は『特別なこと』だなんてちっとも思わなかった。
そんな愛華は小学校にも、中学校にも、高校にも通っていない。
――だって〝学校〟は愛華の言うことを聞いてくれないから。
自分勝手だ、とか協調性がない、とか言って愛華をないがしろにするから好きではなかった。
両親はそんな彼女のために家庭教師を呼んだ。けれど愛華は合わないとすぐ勉強を放棄してしまう。両親は家庭教師が悪いのだと言って、愛華がいやだと言うたびに家庭教師を変えた。
ある時、青い目の綺麗な顔立ちの青年が家庭教師についた。彼は愛華のどんなお願い事でも叶えてくれた。勉強に飽きたといえば遊んでくれるし、あれが食べたいと言えばすぐにそれを用意してくれた。
どんなことがあっても愛華を叱らなかったし、見捨てもしなかった。両親や使用人以外で初めて『普通』に接しくれるひとだと愛華は思った。
青年は玉響といった。珍しい瞳の色で学校に通えなかったんだ、と教えてくれた。学校は自由を奪うところだから行く必要なんてないよと言ってくれた玉響を愛華は気に入った。
「ねえ、愛華」
「なあに、玉響先生」
「――愛華は音楽は好きかな」
「音楽?」
「そう。俺のおすすめがあるんだ」
玉響がオーディオプレイヤーを取り出して、そこにささったイヤホンの片方を愛華に差し出した。愛華はそれを受け取って耳に入れる。玉響がスタートボタンを押して流れてきた曲は激しい音楽だった。けれどその中に流れてくる言葉はやさしかった。
「……わあ、なんだか素敵な曲……ね」
「本当? 嬉しいなあ」
無邪気に喜ぶ玉響を見て、愛華は更に嬉しくなった。
彼と話を弾ませたい、気に入られたい一心で、愛華は紹介されたバンドの曲を聞くようになった。
速くて激しい旋律と共に紡がれる切なくて消えてしまいそうな声。相反するふたつが不可思議に調和するその音楽に、愛華はのめりこんでいった。勿論玉響のこともあったけれど、それ以上に愛華はそのバンド――『セイレーン』を好きになっていた。
家庭教師が終わりを迎えることになった。もう愛華には教えることは何もないと、玉響自身が両親に打診したからだった。
愛華は嫌だと言ったけれど、この時ばかりは玉響は彼女の我儘を聞きいれてはくれなかった。
またどこかで会おうね、と言って玉響はいなくなってしまった。
青い目が恋しい愛華はその心の穴を埋めるように、マッチングアプリに登録した。知らない相手としゃべっているうちは、玉響のことは忘れられたから。
そんな中で、愛華は出会った。
「なあ、俺さ。お前といるとめっちゃ楽しい。――だから、付き合わね?」
そんな風に無邪気に笑う彼が玉響と重なった。
彼の名前は常坂恭弥。愛華はこれが運命の出会いなのだとそう思った。
――あの時我儘を聞き入れてくれなかった玉響なんて運命のひとなんかじゃなかったんだ。ならば、自分は失恋なんてしていない。心が痛いのなんて、うそっぱちなんだ。
愛華は二つ返事でそれを承諾した。自分を愛してくれない相手のことなんて覚えているだけ無駄だ。
いつしか愛華は青い目の男のことなど、欠片も思い出さなくなった。
◇
恭弥は愛華のあらゆることを許してくれた。
ライブには必ずついてきてくれるし、愛された証が欲しいと伝えれば必死になって弁明してくれる。愛華にとって恭弥は白馬に乗った王子様だった。
そんな幸せな愛華のもとに、それは訪れた。
「……憐れな子羊」
ベールに覆われている、その神秘的な姿。
――眼前にいるのは間違いなく『メシア』そのひとだった。
ライブ終わりに出待ちをしている時のことだった。恭弥に飲み物を頼んでじっとライブ会場から出てくる『セイレーン』を待っている愛華のもとに、彼はやってきた。
一瞬夢でも見ているのかと疑った。憧れ続けたそのひとがほかでもない自分に向かって話しかけている。その状況が信じられなかった。
「……子羊。……お前も救済を求めているのですね」
そっと『メシア』が頬に触れた。夢ではない、確かな感触だった。
「……あ、あの……」
「……憐れなお前に、私自ら救いを与えてやりましょう」
愛華はその誘いを受け入れた。
罪悪感は、ほとんどなかった。
――だってこれはいい子にしていた愛華へのご褒美だと思ったから。
『メシア』を一夜を共にしたあくる日。
愛華は熱を出した。両親が白目を剥く勢いであらゆる検査を受けたが、ただの知恵熱のようなもの――ストレスからくる一過性のものだと言われた。
幸福すぎて脳内の整理が追い付かずにあふれてしまったんだ、と愛華はベッドの上で眠りながら考えていた。
「愛華? 恭弥君が遊びに来てくれたわよ」
母の声がした。
愛華はまだぼーっとする頭を無理矢理稼働させて、視線を動かした。
そこには茶髪で、三白眼気味の愛しい王子様が立っていた。片手にはビニール袋が下がっている。
お見舞いに来てくれた! 愛華はそれだけで飛び上がりそうなほど嬉しかった。
「きょうちゃん……」
「よう、だいじょうぶ? これ、見舞い」
恭弥がビニール袋の中身を見せた。
中には缶詰の桃が入っていた。
(……)
桃は愛華の一等好きな果物だけれど、缶詰は嫌いだった。
本来の桃の美味しさをシロップのしつこい甘みが邪魔しているから。
恭弥だってわかっているはずなのに、どうしてそんなものを買ってくるのだろう。
愛華はむっとして恭弥を見た。
「は?」
「……え? あ、ごめん。桃……高いの買えないから、さ」
愛しい王子様は言い訳を口にした。それも愛華には気に食わなかった。
買えないなんてことは言い訳にすらなっていないけれど。
恭弥は暫く無言だった後、口を開いた。謝罪をして新しく買ってくるというのが愛華の王子様の正解である。だからそうするのだろうと愛華は期待していた。
しかし、
「……愛華、辛そうじゃん。俺、もう帰るね」
紡がれたのは別れを告げる言葉だった。
愛華は反射的に起き上がった。
「え?」
恭弥は顔を逸らした。
(なんで? なんであいかから目をそらすの?)
愛しい王子様ならお姫様のことをずっと見ているのが『普通』だろう。
恭弥の言動がいつもと違うことに愛華は一抹の不安を覚えた。
「なんで? はやくない? あいか、何か悪いことした?」
恭弥は視線を床に落としたまま、小さく答えた。
「……だって、ほら。……辛そう、だし」
逃げ出そうとしている風に見えた。
愛華と一緒にいたくない、と恭弥は考えているのかもしれない。
「――つらくないよ。ねえ、だから一緒にいて?」
愛華の願いを口にすると恭弥は顔を上げた。
視線が交わった。
「……わかった」
恭弥はそう言って、ベッド脇に備え付けられていた椅子に座った。
けれど恭弥は愛華のことだけを考えているようではなかった。
終始何かに気を取られていて――おかしい。時折会話がかみ合わないこともあった。
愛華はこの時、恭弥が浮気しているのではと考えていた。
だって、恭弥は愛華ひとりだけのことを考えているはずだから。
こんな可愛い愛華を独り占めしているのに不満があるわけがないとそう思っていたから。




