090「役に立たないと」
碧依から渡された薬のお陰か、終夜は再び舞台に立つことが許された。いかんせん顔は出せないが、歌声は届けることができた。終夜にとって自分が目立つことよりも人前で歌うことが夢だったから、それで構わなかった。
人前に出るようになってから、ますます碧依に依存するようになっていた。それは自覚ができるほどであったが、終夜は悪いとは思っていなかった。碧依は自分を大切にしてくれている。それだけでよかった。
共に舞台に立つバンドメンバーも以前碧依に助けられたという。気持ちは『碧依』という糸で繋がっているから、お互いをよく知らなくても付き合うことができた。
碧依は常に終夜を褒めた。どんな失敗をしてもよく頑張ったよ、気にしなくていいよ、と言ってくれる。怒ることはなかった。それが嬉しくて終夜はライブを数多くこなした。露出が増えれば増えるほどにメディアの注目が集まる。しかし碧依はメディア出演は許さなかった。
「可愛い終夜を取れたらやだもの」
そう言った。終夜は碧依がそう言うなら、と従った。
ある日褥で碧依が終夜に「頼みたいことがある」と言ってきた。他でもない碧依の頼みだ、断る訳がない。「なんでも言ってくれ」と喜んで請け負うと、碧依は普段と変わらぬトーンで「ファンと寝てほしいんだよね」と言ってきた。
寝耳に水だった終夜は一瞬ぽかんとしてから「何言ってるんだ」と半笑いで問う。冗談を言っているのだと思ったからだ。しかし碧依の目は本気だった。
「え? だからファンと寝てほしいんだ。あ、別に女でも男でもいいよ」
「あ、碧依……それマジで言ってんの?」
まだ、真実だと――冗談を言っているのだと信じたかったというのが正しかったのかもしれない――受け取れなかった終夜はそう返した。すると碧依の瞳の中に、仄暗い炎が灯った。
「あれ? 終夜は俺の言うことを聞いてくれないの?」
「え」
それは親が怒る予兆を感じ取ったような心地だった。
先ほどまであんなにも熱く火照っていた体が途端に指先から冷たくなる。
碧依の顔にはなんの表情も浮かんでいなかった。
「終夜は俺の言うことを断るの? 君のためにたくさんたくさんいろんなことをしてやった俺の言うことを?」
「あ、……ち、ちが……」
狼狽する終夜に、なおも碧依は言葉を重ねた。
――まるで詰問するような具合で。
「別にいいよ? 終夜がやらないんだったら、薊や春メにやってもらうからね。やってもらったらご褒美も用意してるんだ」
薊、春メというのはバンドのメンバーのことだ。彼らが既に碧依と肉体関係があることは知っている。けれど終夜には一番愛されているのは自分だという自負があった。けれど――今まさにその自負が揺らいでいる。終夜は請け負わねば碧依に見捨てられると思った。
「や、やる! 俺、できるよ……!」
怯えた表情でそう終夜は縋った。
碧依の表情はまだ変わらなかった。能面のような、無表情である。
しかし終夜にはそれが彼が怒っている風に見えていた。だから必死になって彼の機嫌を取ろうとした。
「できる、できるからさあ、おれ……! だ、だから……頼む……み、見捨てないで……」
終夜の視界がにわかに滲んだ。お願い、見捨てないで、と繰り返しているとゆっくりと碧依の表情が和らいだ。
彼はにっこりと笑った。
「やだなあ、冗談だよ終夜。俺が大事な君を見捨てるわけないじゃないか」
「ほ、ほんとか……?」
「ほんとだよ、終夜。大丈夫――だから、ね? やってくれる?」
「あ、ああ。勿論だ!」
終夜は何度も頷いた。
ご褒美はまたあとであげるからね、と碧依が終夜の額に口づけを贈る。
身を覆っていた黒い不安が一気に蕩けて、終夜は頬を染めた。
◇
終夜は言われた通りファンに手を出した。その時終夜は顔を見せない。ベールで顔を覆って後ろから犯す。盲目的なファンは神託を与えられたように従順だった。言わないように口添えしてやれば誰もが沈黙した。
ファンと寝始めてから碧依は何かとつけて忙しいといって、会えなくなった。けれど会えないからといって彼の頼みごとを中途半端に投げ出すわけにはいかない。彼に抱かれることがなくなったがゆえに持て余す熱を発散するように、終夜は目についたファンは全て手中に収めていた。
その中でも愛華という少女の妄信っぷりはほかと比べものにならなかった。それはもう妄信というより、狂信といってよい。終夜から声を掛けた時卒倒しそうになっていた。
ゴシック調の服に赤の目立つ化粧。終夜の第一印象はよくいる『病み系』だった。
愛華はもともと精神的に不安定な面があったせいか、終夜に抱かれた翌日、高熱を出した。病気にでもなったかと心配したがどうやら知恵熱の類らしい。その後の逢瀬で、恥ずかしそうに愛華が言ったので終夜は一安心だった。
それから逢瀬を重ねていくと、彼女には既に彼氏がいることがわかったが、終夜には関係なかった。ほんのわずかな抵抗を見せる彼女の耳元で「私の言うことが聞けないのかい……」と囁いてみると彼女はあっさり堕ちた。もとより本気で抵抗する気はなかったのだろう。終夜は憐れに思いながら碧依を想って抱いた。
愛華と終夜は一番多く褥を共にしていた。
何故なら彼女は『セイレーン』のライブに全て参戦するからである。
事あるごとに終夜は愛華を呼び出した。彼女は誘いをほとんど断らなかった。彼氏とうまくいっていないのかもしれない、と終夜は思ったが、関係がないことだと考えるのをやめた。
そうして終夜にとっては長い長い時間が過ぎた。
ある日、傍らで眠る愛華を無感情に眺めていると、終夜のスマートフォンが震えた。
はっとなって画面を見る。そこには愛しい男の名前が表示されていた。慌てて送られてきたメッセージを開いた。そこには、『やっと君と会う時間を取れそうだよ』と書かれていた。
終夜は飛び上がりそうになる己を必死に律して『楽しみにしています』と返した。愛華のことなどもう忘れて、終夜は再びあの腕に閉じ込められることを期待した。
◇
碧依から都内のホテルに来るように言われた。終夜は浮かれた気分でそこへ出向き、再会して彼に抱き付いた。体裁やら外聞やらどうでもよかった。寂しくてもきちんと仕事をこなしたのだからこれくらい許されるであろうと、終夜は気にしなかった。
「な、なあ……早くあんたの腕の中で眠りたい……! 俺、ずっとガマンしてたんだよ……!」
と駄々をこねたが碧依は「それよりも大切なことがあるよ」と言った。
碧依より大切なことなどなにもない――終夜は思ったが、また彼の機嫌を損ねても嫌だったので大人しく従った。
「俺ね、実はお腹が空いているんだ」
「……へ?」
藪から棒に何を言うのだろう。
終夜の頭上に疑問符が浮かんだ。
「えっ……と。腹、減っているなら俺が何かおごる、……けど?」
「ううん、そうじゃなくて」
碧依はとん、と終夜の胸元に指を突き立てた。
どきんと心臓が跳ねる。
「――『魂』が足りないんだよ」
歯を見せて笑う碧依は獣だった。意味がわからなくて碧依を見返すだけの終夜に、青い目に獰猛な光が宿る。
「あのね、『魂』は生きているひとからじゃ貰えないんだ」
説明もせず、碧依は言う。
終夜は呆然と彼の言葉を聞いていた。
「……それって、どういう……」
「ねえ、終夜」と碧依は終夜の唇をなぞった。
与えられ続けた熱が腹の底で燻るのがわかった。早く欲しいと目で訴えても碧依は何か行動を起こす素振りを見せなかった。
終夜は嫌われないために、なんとか必死で暴れ出しそうになっている衝動を抑え込んでいた。
「ファンの子はみんな君に従順になったかな?」
「へ?」
「俺が君にお願いをしたでしょう? ファンの子と寝てって……」
「……うん」
「それで? ファンの子はみんな、君に従順な良い子になった?」
「……」
終夜は思い出す。誘い出して抱いた数々の青年や少女たちを。彼らはみんな『メシア』の言うことを素直に聞いていた。誰も抱かれることに疑問も持たず、そして誰もがそのことを他言せず――従順というならば確かにそうなるだろう。純朴な心は、とうの昔に偽りの救世主に救われて侵されている。
きっと誰ももう、離れていくことはない。
――だから、終夜はしっかりと首肯した。返事に、碧依は大層嬉しそうに笑った。
「そしたら、次のお願いだよ終夜」
碧依の顔が近づく。キスされると思ってぎゅっと目をつぶった終夜だったが欲しいものは与えられなかった。
目を開くと碧依の青くて暗い瞳がそこにあった。深海を覗いているような心地がした。
「次の、……おねがい……?」
「そう。彼らに――」
碧依が終夜の耳に口を寄せた。
そして囁くように言う。
「誰かを殺してくれるように、頼んでくれない?」
「……え」
「ねえ、終夜。――俺の大事なセイレーン」
出会って間もない時と同じように碧依が終夜を呼ぶ。
終夜の脳裏に倫理観やら法律やら巡った。ぐるぐると果てしない思考のうちで、辿り着いた先は結局同じだった。
一度堕ちてしまったこの身を救ってくれたのは。
この体を愛情で満たしてくれたひとは。
――俺は、碧依のために
――碧依の、役に立たないと
それだけだった。
もう終夜にはそれだけしかなかったから。
地獄がその大口を開けていることに終夜は気付いていなかった。




