09「うつし世はゆめ」
相手はひとつ年上の先輩、風宮という男だった。
外見だけ言えばイケメンだが、女癖が相当悪かった。気に入った女を見つければ彼氏がいようといまいとすぐに手を出す。そして大概の女が風宮に鞍替えし、周囲はその事実を風宮が有利な視点で認知した。密かに敵に回すと恐ろしい男、と噂されていたようだ。
不運にも純太の彼女だった、茉奈は見た目もさながら――豊満な肉体のせいで狙われ、そして落とされた。それだけなら純太もこう絶望の淵に立たされなかっただろう。
しかし、風宮は寝取っただけでは満足しない自己顕示欲の強い性悪だった。根も葉もない純太の噂を流し、茉奈がどれだけ傷ついたかを、そうやって傷ついた彼女を自分が救ったのだと喧伝したのである。
――早川純太は束縛の強いモラハラ男
――茉奈に関係を迫り、あろうことか避妊せず行為を行おうとした
――女の価値を道具のように思っている最低なヤツ
純太は極めて普通であった。つまるところ、目立たない存在であったからいきなり風宮に表に立たされて戸惑った。違う、と言っても周囲の目は変わらなかった。言葉にすればするほど、純太に対する風当たりは強くなるばかりだった。いつしか口を閉ざすようになると、それが肯定と見なされた。
――どう転んでも、純太は追い詰められていくばかりだった。
「なァんでそーんなの信じるかね。どう考えてもウソじゃねェの?」
「……風宮先輩……。優秀で人望も厚いから……」
「はぁ?」
「……外面が最高にいい……って、ことです……」
「……なるほど」
風宮は外側だけ見れば、悪事などするはずのない聖人君子だった。
まるで猛毒を持ちながらも美しい尾ひれをなびかせる魚。その美しさに気を取られ毒が回る頃には、彼の言うことをなんでも聞く奴隷になっている。学校はいつしか彼を崇めるだけの楽園になり果てていた。
「……友人たちも言いくるめられてしまって……僕が茉奈を精神的に追い詰めた、って……なにもかも失ってしまいました……家族ですらもう僕のいうことは聞いてくれません……」
「イミフメイ……そこまでする必要ってどこにあンの?」
「……わかりません……」
唯一信じてくれていた家族ですら、茉奈の迫真の演技と風宮の必死の説得に純太への見る目を変えた。十何年と一緒にいたはずの家族が、たった数分会っただけの男の言葉で変わっていく様は恐ろしかった。
毎日顔を合わせては蔑みの目を向けてくる。正直一番堪えた。それでもなんとか家に帰り続けたが――今日は、もう限界だった。
逃げたい気持ちが、純太を此処に連れてきた。
「はくじょーな家族だぜ、まったく」
頬杖をついて女夜鴉が言う。
暗い顔の純太を気遣ってか「上がっていけよ」と座敷部分に上がらせてもらった。店番はいいのか、と訊くと「店主がパチンコやってる時点でお察しだろ」とほぼ投げやりに言われた。
「……正直学校へ行くのも家に帰るのも怖いです」
こんな風に話を聞いてくれる人はいなかった。そのせいだろうか、純太は「なンかあったのか」という夜鴉の問いに対して、自身の境遇を吐き出してしまった。
夜鴉は茶化すわけでも、同情めいた視線を向けることもなく、ただ黙って見知らぬ男子高校生の話に耳を傾けてくれた。少しだけ水面に顔が出ている気分だった。
「ンじゃあ、行かなきゃいいンじゃね?」
「え」
思わぬ言葉に純太が目を剥く。言った当人はそれほど重大な事を言った風ではなかった。
「行くの怖ェのにわざわざ行かなくてもいいんじゃね? つうかそいつのせいで外にゃ敵しかいねェんだろ、今。だったら行く必要ないじゃん」
「い、いえ……でも……ご迷惑じゃ……」
「なにもメーワクしてねェけど?」
「……」
「――それ以上無意味に君が傷つく必要はない」
その声は男のものだった。振り返ると店先でシャボン玉を吹いていた男が上がってくるのが見えた。ぱたぱたと足音が聞こえ、突然現れた少女が男の首に抱き付いた。
「ん……」
「昼寝をしていたのか藍明。おはよう」
「……んん」
頭を擦りつける様は撫でて貰いたがる猫のようだった。髪の毛についた房飾りがしゃら、しゃらと涼やかな音を立てて震えた。
「あーそろそろ店じまい? 今日もあいつ帰ってこなかったなあ……」
ぼやきながら夜鴉が立ち上がって、店の扉に鍵を閉める。そんな時間かと慌てて立ち上がった純太を男が制した。
「家に帰るのも辛い状態なのだろう? だったらやめておけ」
「……僕は、その……」
「君が件の男が言うような少年ではないことを、私たちは既に分かっている」
「……え?」
純太は夜鴉を見た。純太の話を全く疑わずに聞いてくれた他人。初対面であれば嘘だと思われるような話を、彼女は一切否定せずに聞いてくれていた。
「俺様、目ぇ見りゃアだいたいどンなやつかわかるし。オマエ、たぶんいいやつなんだろ?」
「……僕が……いいひと……」
「惑わされてはいけないぞ少年。周囲の言う君の姿より君が知っている君を信じてあげるんだ」
「……僕の知っている……僕……」
「世の中の淀みを全て食らう必要などない。――息を吸うには、少年。君は今あまりにも自分の首を締めすぎている。それでは現実を見るのにも支障をきたす」
「……」
「夢であれと願うのは簡単だが……そこから目覚めるのはひどく難しいからな、傷つくことは必至だ、だからこそ君は君自身にもう少しやさしい方がいいだろう」
「……」
純太の視界が滲んだ。
水槽に放り込まれてからずっとこんな風に自分を慮ってくれる人はいなかった。病に侵され妙な泳ぎ方をする自分を気に掛けてくれる人などいなかった。
「……ぼくは……」
「気にすンなよ、ムダにでけェ家だし。家主はなかなか帰ってこねェし」
「……」
「あー服か? 蓮のじゃでっけぇし……とりま、俺の着ておくか?」
「えっあ、……それは……」
「女性服だときついのではないか、夜鴉」
そう? 俺結構サイズデカイけど。
夜鴉が言いながら部屋の箪笥を漁っている。ばさばさとひっくり返している中に鮮やかな色のものが見えたので純太は視線を逸らした。レース生地の下着類だと悟ったからだ。
「まあいいや。蓮の着とけよ、クソデカイかもしンないけど。今度買ってきてやンよ」
「……なんで」
純太は不思議だった。
何故会って間もない少年の話を聞いてここまでしてくれるのだろう。後で何か請求されるのだろうか――一抹の不安を覚えた純太が訊くと、夜鴉は「んぁ?」と妙な声を出してから、
「だってオマエ、まだ上がってこないから」
とさも当然のように言った。
◇
夜も更ける頃合いに、駄菓子屋の鍵が開く音がした。丁度風呂から出たところだった純太は髪の毛をタオルでこすりながら、興味本位で店の方を見る。からんからんと下駄の音が鳴って、どっかりと畳敷きに座る背中が見えた。長い髪をひとつに束ねた、背格好から見るに男である。男は振り返って純太を見ると、「ん?」という顔をした。
そういえば店主がどうのと夜鴉が言っていた。話を聞いていなかったらまずい、と純太が頭を下げかけたところで男が笑った。
「そう緊張するな、取って食いやしないさ」
ニヒルに笑う男の目は赤色と金色をしていた。その手にビニール袋がぶら下がっている。
「食うか? 大当たりでな」
中身は菓子のようだ。ついでに缶ビールも入っている。
「……えっと僕、お酒は」
純太の真面目な顔に、男が「くっ」と喉を鳴らす。何がおかしいのかわからず、純太が男を見た。
「ははははは、安心しろ。俺もさすがに未成年に酒をすすめるような男じゃない」
「……あ、」
失言だったかもしれない、と慌てる純太の頭に男の手が乗った。
あたたかい手だった。
「座りなさい。ああ、何か飲むか? 夜鴉が炭酸しか飲まんからそれくらいしかないが」
「……はい」
話をしてみたい、と純太は思った。男にはそんな魅力があった。
◇
卓袱台に座り、男は缶ビールを、純太は缶ジュースを煽った。弾ける心地が風呂上がりの体にじんわりと染み込んだ。
「俺は紅蓮だ。お前は?」
「……あ。……早川、純太です」
「純太、か。お前はどうしてここに?」
「……」
純太は少し考えてから全てを話した。紅蓮もまた途中口を挟むこともなく、話を聞いていた。純太が「……そんな感じでお世話に」と締めくくると、彼は口の端を片方吊り上げて言った。
「親にも友人にも、か」
「……はい」
溺れている。
純太は茉奈を奪われてからずっと溺れていた。必死にもがいても誰も彼も溺れる自分を笑うだけだった。
「……僕は特別なことはしていません。……好きになっただけなんです」
「……」
「……それは……、悪いことなんでしょうか」
好きになっただけ。茉奈を好いて勇気を出して告白したら、付き合うことが出来て、ただそれだけだった。見せびらかしたり自慢をしたりした覚えなどなかった。
「今のお前はどこにいる?」
「……え?」
「今のお前は一体どこに立って何を見て何を感じて――生きている?」
「……何を、言っているんですか……?」
「目に見えているものが現実だと、お前は信じられるか?」
「……えっと……」
ごくり、と紅蓮がビールを飲み干した。
「――〝うつし世はゆめ 夜の夢こそまこと〟」
「……それは」
「江戸川乱歩が遺したと言われている言葉だ、彼はサインを求められると必ずこの言葉を書いていたらしい」
「……」
「意味は、まあ……今ある現実こそが夢であり、夜に見る夢こそが現実だとかそういう意味だな。諸説ある、俺のこの解釈が合っているかも怪しいが」
純太は彼が何を言いたいのかわからなかった。
「ただひとつ言えるのは……純太」
「はい……」
「――お前は、何も悪くないよ」
「……!」
たった一言。何よりも願っていた一言。
誰にも言われることがなかった一言。
「お前は何もしていない。何も悪くない。……強いて言うなら運が悪かったのかも、しれないな」
「……っ、……はい……」
純太は唇を噛み締めて、下を向いた。
涙が一滴頬を伝うと、もう駄目だった。堰を切るように、純太は声を出して泣いた。
久しぶりに、息ができたようだった。
泣きじゃくる純太の背中を、紅蓮はいつまでもさすっていた。