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桜雲館の紅姫【完結】  作者: 可燃性
拾参のこと『ブルー・エフェクト』
89/134

089「君の心が震えている」

※男性同士の接吻描写あり(軽度)

 手渡されたそれが何であるか、薄々気付いてはいた。しかしどん底から這いあがる為であれば、と終夜は縋った。縋った結果、自分に一生降り注ぐこと無いと思っていたスポットライトの順番があれよあれよという間にやってきたのである。

 それを服用した結果、気持ちが前を向いたお陰かもしれなかった。今まで受かることのなかったオーディションもすんなり通り、これでやっと思い描いた夢に近づけるといったところで――突然、終幕がやってきた。


 本條が自首したのだ。終夜の歩んでいた夢への架け橋は脆くも崩れ去った。

 本條の顧客リストからあぶり出された終夜は最初知らないふりを貫いたが、徹底した捜査のもとにその虚言は長くは続かず、結論全てを知ったうえで関わったことを自白した。

 マスコミはこの話をあっという間に記事にした。そしてネットは「裏切られた」と失望するファンの書き込みで荒れた。顔のない隣人たちは残酷である。不必要な情報まで引っ張り出して叩くだけ叩き、最終的には自業自得なのだと言って、好き放題に罵倒した。

 顔写真、交流関係、出身学校――あらゆる情報が流れてしまった終夜は二度と夢の舞台どころか、まともな生活すらできなくなった。

 住まいであったマンションは家賃が払えず、追い出された。家がなくなった終夜が過去の友人たちに一晩でいいから屋根を貸してくれ、とお願いをしても全て断れた。皆、面倒事に関わりたくないとそう思ったからである。薄情なやつらだと憤りを覚えたものの、自分が同じ立場であったらどうだったろうと考えた時、友人たちの反応は正しいように思えた。


 あらゆるものが一気になくなった。

 夢だけではなく、何もかもが終夜の手からこぼれていった。


 二度目の絶望は、終夜に死を思い起こさせた。けれど何度やってもうまくいかない。理由は明白だった。終夜はそれでもまだ歌いたいと願っていたから。

 死んでしまえば二度と歌うことはできない――許されないものに手を出して己の歩む道を汚したのだとしても、死人に口なしであることは変わらない。


(俺はまだ歌いたい)


 終夜の心の支えはいつだってそのことばかりだった。

 たとえ明るい舞台に上がれないとしても、歌だけは失うまいと終夜は縋りついた。


 ◇


 その男に出会ったのはもうネットカフェに泊まることすら危うくなった頃だった。ふらふらとあてもなくひともまばらになった深夜の街中を徘徊する。ホームレスが段ボールに丸まっているのを横目に見ながら終夜はいつかああいう風になるのだろうと想像していた。

 ひとの気配のない公園を訪れ、終夜は疲れたようにベンチに座った。夜の闇は濃く、風は冷たかった。両手を擦り合わせて息を吐く。心なしか手に入れた暖気を握り締めるようにして拳を作った。するとその拳を無遠慮に覆う者があった。はっとなって顔を上げるとそこにいたのは美しい青年だった。

 整った顔立ちはまるで作り物のようで、ひとのようでひとでないような――そんな奇妙な心地をさせた。終夜は思わず手を引っ込めようとするのを彼は強い力で抑え込む。何事か目を剥くと彼は口元に笑みを描いたまま言った。


「――可哀想に」


 以前の終夜であったなら、憐れみをかけられて怒りを感じたはずだ。けれど限界まで擦り切れた心にその言葉はじんわりと染み入った。やさしく笑う男が神のように思えた刹那、終夜はそれが終わりの始まりであったと思い出す。今度こそ拳を覆う掌から逃れ、終夜は立ち上がった。

 青年は背が高かった。紺色のジャケットに水色のワイシャツをあわせ、スラックスも紺色だった。首元のクロスタイだけが奇妙に赤かった。


「っ、なんだよ!」

「君の心が震えている。なんだい、歌いたいの?」

「……!」


 何も言っていないのに、彼は終夜の心を見透かした。どきんと心臓が跳ねる。青年は慈しむように終夜を見つめて自分の胸のあたりに手を添えた。


「可哀想に……悪い魔法使いに唆されて歌を奪われてしまったんだね。でも俺ならそんなことはさせないよ、君の望む全てを与えてあげる。だから、――()()()?」


 甘い声だった。蜜のように頭の奥で蕩け、思考を奪う声だった。終夜は息を呑む。心臓が耳の横にあるみたいに煩かった。


「……お、俺は……もう……」

「大丈夫――俺には神さまがついているんだ、とってもきれいな女神さまがね」


 両脚が震える。残った理性が警鐘を鳴らした。これは本條と同じ手口だ、美味いことを言ってどうせ後でしっぺ返しを食らう。だからやめておけ、と冷静な自分が言うのに何故だがすぐさま振り払えない。何も言えぬまま立ち尽くす終夜に、彼はふうと息を吐いた。


「怖いよね、わかる……俺もずっと怖かった。ああ、『魂』の色が――怯えているね」


 訳の分からないことを言う青年に終夜はいよいよ疑念を募らせる。たちの悪い宗教勧誘か何かだ、俺に利のあることなど何もない。終夜は無言のまま走り出した。

 その背中を見送る青年の瞳が、夜の内側で青く輝いた。


 ◇


 それからというもの終夜は行くところ行くところで青い目の青年に出会う羽目になる。どんなところに現れ、青年は彼の食事代や宿泊代などを肩代わりした。それだけではない、「君はがんばっているね」「偉いよ」などと逐一褒めそやすのである。ずっと心無い罵倒に苦しんでいた終夜にとってそれらは甘い毒だった。青年は毒の飴を終夜に寄越しながらしつこく、延々と関わってくる。

 とうとう終夜は「――お前、名前なんていうんだよ」と己から関わりを許可した。その言葉にぱっと青年は顔を明るくして名乗った。


「俺は碧依っていうんだ、君は終夜君だね」


 流れるように青年が終夜の名前を言い当てた。

 終夜の眉間に皺が寄る。


「……なんで、知ってるんだ」


 訊ねてから終夜は「ああそうだ、俺ネットじゃ有名人だった」と己の問いかけを後悔した。

 けれど碧依の返答は想像したのとは少し違うものだった。


「知っているよ。だって、――俺は『魂』が視えるから」


 あっけらかんと碧依が言う。終夜の眉間にますます皺が深く刻まれた。

 冗談を言っているようにも、本当のことを告げているようにも、どちらにも見えたからだ。


「……なんだ、それ」

「ふふふ、信じなくても平気だよ」


 ころころ笑う碧依のことを終夜は子どものようなやつだと思った。

 この時まだ信用も信頼もしていなかったけれど、何故か頭のどこかでは本條とは違う、とも思っていた。以降終夜は碧依と行動を共にするようになった。碧依は唐突に終夜を誘っていろんなところに連れて行った。遊園地、映画館、水族館――それこそまるで恋仲のように。

 次第に一緒にいるのが心地良くなって、暫くすると終夜から会いたいと催促するようになっていた。視界いっぱいに広がる青色が終夜には心地良かった。居場所を見つけた気がしていた。

 絆されているなと気付いた時にはもう何もかも遅かった。可愛いね、と言われながら終夜は碧依の腕の中で女のように啼いていた。


 ◇


「これ、終夜にあげるよ。俺のとっておき」

「……なにこれ」

「お薬だよ」

「!」


 さらりと最悪の言葉を言われて終夜は碧依を見た。この時、終夜は碧依のほとんどの行動を許していた。口づけも抱擁もそれ以上も――なにもかもを。言葉にこそしていなかったが、紛うこと無き恋仲であった。

 まさかその恋人から傷口を抉られるとは、と終夜が絶句していると碧依が慌てて「違う違う!」と否定した。


「ごめんね、終夜。違うんだよ、これはね。終夜を苦しめた悪いお薬じゃないんだ――サプリメント! そう、サプリメントだよ。終夜の心が晴れるように俺が調合したんだ」

「……は? ……あんたが?」

「そうだよ。俺ね、いろんなひとに幸せになってほしいから勉強したんだあ」


 偉い? と褒めてほしいように首を傾げ問う碧依。その仕草があまりにも可愛らしくて、終夜は思わず口を噤んだ。


「俺は終夜の味方だよ、だから――」


 碧依はそれを口に含んだ。それから、


「……ンっ、……んん!」


 目を見開いて硬直していると、器用に舌で薬を押しこまれた。


「……っは、あ……! おま、え……!」

「受け入れて終夜。俺の大事なセイレーン」


 甘い毒が脳内を侵した。目の回るような心地だったが、不思議と気持ち悪さがなかった。

 堕ちていく感覚は――気持ちが良い。たまらない快楽だった。

 終夜の心はもう彼自身の中にはなかった。青く染まったその心は碧依の手の中にあった。

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