088「俺がお前を舞台に」
憧れがあった。ただ、純粋に。
綺羅星に願いを込める子どものような純真さで、彼はその場所を求め続けた。
その舞台に上がることを望んで研鑽を積んだ。しかし機会こそ何度も得るのに、何故か直前で取りこぼす。いつだってスポットライトは別の人間に当たっている。
それが耐えられなくて、手を出した。自身の破滅に繋がると、薄々気付いていながら。
◇
ヴィジュアル系バンド『セイレーン』。
彼らが姿を見せるのはライブのみだが、その人気は途絶えること無く年々増していった。いくつものメディアが彼らのことを特集したいと取材を申し込むものの、全てが梨の礫でであった。そうした態度がより世論を過熱させた。シルエットしか掴ませぬその謎多き実態には様々な憶測が飛び交った。やがてそのひとつが真実のもののように語られることもあった。
――そう、彼らがまさに別の世界からやってきた精霊そのものだ、と。
さすがにそれを信じる者はいなかったが、そんな風に崇める者は多かった。ファンの大半がその歌声の奴隷となり果てていて、中にはライブチケットの争奪戦に負けて命を絶った者もいるという噂も実しやかに流された。
それくらい『セイレーン』の人気は爆発的で、異常だった。ある意味宗教といっていい。だから各所メディア、主にアンダーグラウンドな話題を取り扱う雑誌には常連だった。加えて彼らは舞台上以外で口を利くことがないという。つまり、世間には歌声しか知られていないのである。
徹底された秘密主義の彼らの正体を知る者は――ひとりだけ。
ライブを開催するに際してスタッフと直接やり取りを行う彼らのマネージャー、碧依そのひとだけである。
「――やあ、お疲れ様」
黒い仕立ての良いスーツに身を包んだ碧依は、楽屋へとやってきた『セイレーン』を笑顔で出迎えた。先頭で歩いてきたボーカルの『メシア』は口元以外全て純白の衣装に身を包んでいた。赤く彩られた唇は真一文字に結ばれている。最高のライブをした直後だというのに、彼の顔色は芳しくない。全力で歌いすぎて体調を崩している、のではなく単純に何かに怯えているような調子である。それをわかってか、碧依はより一層笑顔を深めて彼の肩に手を置いた。びくり、と彼の体が跳ねる。
「今日も最高だったよ、終夜」
碧依に笑いかけられた『メシア』こと伊佐木終夜の、そのベールに覆われた目は泳いでいた。労をねぎらい加えて褒められてもいるというのに、終夜の表情は晴れなかった。
「どうした? なにか、怖いことでもあった?」
顔を覗くようにして腰を折った碧依に、終夜が一歩後ずさる。碧依の、その名前と同じく真っ青な目が終夜を見つめていた。コバルトブルーのその青は、恐怖に色を失う終夜の顔色だろうか。マネージャーというのは立場だけで終夜にとって眼前の男は自身の支配者である。彼の期待を裏切ろうものなら――そう考えると気が抜けなかった。
訊ねてくる碧依に、終夜はなんとか声を絞り出した。
「……い、いや……なんでも、ねえ……」
「そう。何か異常があったらすぐに言うんだよ、――俺の大事なセイレーン」
口元の半月はそのままに、瞳だけが獣のように鋭い。しかし終夜は足元を這いあがる恐怖の中にある、ぞくぞくと震える悦びを感じていた。
このひとはまだ、俺を大事にしてくれている。だから彼の期待に応えなければ。
終夜の心は男の青に、沈んでいた。
◇
終夜にとって歌は救いと同義だった。
幼い頃に親が離婚して、そのせいで母がおかしくなってしまっても彼女の歌う子守歌だけは変わらなかった。やさしい声にやわらかな旋律。殺伐と過ぎ去る日常の中で、その歌声だけが幼い終夜の救いだった。
――だから自分も誰かにとっての救いになれるように。
いつの間にか終夜は歌手になることを決めていた。しかし羨望だけで見ていた世界の実態は母の歌声ほどやさしくも甘くもなかった。
終夜は何度も挫折を経験した。その度にトイレで、血が混じった胃液が零れてくるほどに吐いた。どれだけ自信があっても完膚なきまでに現実によって潰され、ひとりの客もこない空っぽのステージで歌うことも何度もあった。でもこんなのは最初だけ、下積みが長ければ長い程きっと機会が巡ってくる――そう信じて彼は歌い続けた。
けれど、実を結ぶ機会は一向に訪れず――残ったのは我武者羅に頑張ったという過去と多額の借金だけだった。
その時の終夜は絶望していたと思う。自暴自棄になっていた。だからどうなっても構わないと夜の、少々危ない雰囲気の漂う場所に足を踏み入れた。気を紛らわせたかったのだ。
柄の悪い男や半裸に近い恰好で踊る女――綯交ぜになった感情を表現したような雑多として陰鬱ながらも、派手派手しい世界に終夜はのめり込んでいた。
借金は膨らむ一方、だが現実と向き合う体力のなかった終夜はまともに仕事をしなかった。否、できなかったという方が正しい。
アルバイトをしようにもいつの間にか頭の中に音楽が流れて来て早くそれを摂取しろ、と煩いのである。終夜は全てを諦めてただひたすらにその場所に依存していった。
そんな中、出会ったのが本條という男だった。
見た目は優男。高級そうなスーツを着てカクテルを呑む姿は一流のホストのようにも見えたし、一流企業のエリート社員のようにも見えた。終夜が丁度酒を貰いにバーカウンターにやってきたときに本條がいた。本條は終夜のただならぬ姿を見て一瞬驚いたがすぐに陽気に笑って終夜の肩を叩いた。
「どうしたんだよ、お前。ここじゃなかなか見れねえひでえツラしてんぞ」
「……ほっといてくれ……」
くらくらする頭で終夜は答えた。酒の飲みすぎて気持ち悪かったが、だからといって水を飲んで中和したい気持ちでもなかった。思い返せば終夜はまともではなかったのだ。ほとんど半狂乱状態だったのである。しかしそれを冷静に判断できるのは全てが終わった後。いつだって、後悔は先に立たない。
「嫌なことでもあったのか? 言ってみろよ」
「……うるせえ……」
「そういうなって。ああ、そうだ、今日の分の酒代俺が奢ってやろうか?」
「……え?」
今度は終夜が驚く番だった。
何をどう思ってこの男は自分なんかに奢ろうというのだろうか――酒で前後不覚の終夜には回答が出ず、ただ「奢ってもらえるなら」と軽い気持ちで「……じゃあ」とお願いした。本條は更に今の今までツケていた分まで支払ってくれた。寄る辺のなかった終夜にとって本條はまるで神のような存在に思えた。
地獄に仏とはこのことだと思った。
「……なんで、あんた。俺なんかに」
「なんで? 別に。気まぐれだよ」
「……」
「そんな目で見るな、怖ぇな。ひとでも殺しそうだ」
「……ころさない」
そんなことをしたら益々歌えなくなる。
驚くことにこの時終夜は未だに歌うことに固執していた。いつかこのどん底から這いあがるチャンスがある筈だ――と。そんなチャンスここで飲んだくれていたら決して訪れないだろうに。
なし崩しに終夜は本條に対して歌手になりたかったことと現実に打ちのめされて借金まみれだということ――自身のことをすべて話していた。
一通り話を聞き終えた本條はにやりと笑った。その笑みははっきりと狡猾なそれであったが、酒を飲んだ終夜に笑顔の判別などつかなかった。その時既に、奈落の縁に足を掛けていたのだろう。思い出すたびに、己の軽率を恥じるばかりだった。
本條は終夜に「お前にまたチャンスをくれてやるよ」と言った。何をする気だ、と目で訴えたが本條は何も言わず手元のカクテルをぐい、と呷った。
「世の中、上手くやるやつが上手くできるようになってるんだよ――下手な鉄砲数撃ちゃあたるだって? 馬鹿馬鹿しい、そんなの下手なやつの言い訳さ。所詮できねえやつに上がれる舞台なんざねえのよ」
「……」
その通りだ、と終夜は思った。本條は口角を吊り上げたまま続けた。
「だから、俺がお前を舞台に上げてやるよ」
本條はいいカモを見つけたと思ったはずだ。けれど終夜にとってその言葉は神の信託に近かった。今まで見えていなかった光がやっと見えた気がしていた。




