085「楽しそうですね」
それから何度か恭弥は豪禅と出かけるようになった。
幸いと言っては難だが、愛華の私生活がだいぶ忙しいようで連日きちんと会う時間がない。連絡を取ろうと試みるものの、メッセージは既読にならず、電話も通じなかった。
しかしだからといって恭弥の心に寂寥感で穴が空くこともなく、寧ろ充実した時間が積み重なって常に幸福に満たされていた。
フリル満載の服と気分に合わせて髪色の違うウィッグを被る。それから服に合わせて化粧をして――恭弥は豪禅と出かける時にしかしないけれど――女子は毎日こうして誰かのため、自分のためにめかしこんでいるのだと思うと全く会えていない愛華のことも、愛おしく思えた。
浮かれた気分でクレープを食べ、端についたクリームを豪禅に指摘される。「わ、すみません」と男の声が漏れると、近くにいた女子高生が二度見したのがわかった。もし声だけで判断されたのだとすれば恭弥にとっては喜ばしい、しっかりと見た目は装えているという意味だからだ。
「だいぶ、顔色が良くなったな」
豪禅が唐突にそんなことを言うので、恭弥は呆けた顔をした。その顔が可笑しかったのか、豪禅はくすくすと笑いをこぼしながら続けた。
「最初に会った時寂しそうで悲しそうだった。諦めている……というのかな。でも今は前を向いてきちんと歩けているようだ」
破顔する豪禅に、恭弥もつられて笑った。息をするのは楽なのは確かだ――自分の趣味を卑下することも隠すことも必要がない。好きだった服を似合うように着こなす毎日が楽しい。友人からも「最近雰囲気変わったな」とか「可愛くなった?」なんて言われる程だった。友人たちは冗談で言っているのだろうけれど、その言葉は恭弥の確かな自信になっていた。
お化粧は毎日のスキンケアから、という姫眞の助言から恭弥は以前よりも丁寧に行うようになっていた。もともと化粧はする気でいたので、豪禅たちと出会う前からずっと肌のコンディションは整えていたけれど、意識して変えたことで翌朝の肌艶が全く違って見えた。その成果が嬉しくて、恭弥はボディケアにも一層力を入れて取り組んでいた。ある程度貯金ができたら、愛華の目を盗んで脱毛にも行く予定である。
愛華に会ったらなんと言われるだろう――彼女の反応を浮足立った気持ちで待っていられる。それは豪禅との日々のおかげだった。
「へへへ……豪禅さんたちのおかげです」
「いいや、それはお前の努力だよ」
即座にそう言われてしまい、恭弥は続けようとしていたお礼の言葉を飲みこんだ。やさしい人たちだなあ、と月並みの感想を抱いていると、不意に恭弥の視界にそれが飛び込んできた。
見間違えだろうか、しかし長年一緒にいると遠目でもなんとなく雰囲気でひとというものはわかってしまう。
(あれは……愛華?)
真っ黒な衣装、ではなく純白の衣装に身を包んだ愛華が誰かと並んで歩いていた。腕を組んでいるところを見るに相当に親しそうである。けれどその表情はどこか強張っていて、気心の知れた仲のようには思えなかった。隣にいるのは男か女か、顔を薄いベールで覆い隠しているので判別がつかなかった。それに身に纏っている衣服はどれも裾やら袖やらが大層長いため、骨格から推測することもできなかった。徹底して正体を悟られないようにしているその装いはかなり怪しかった。行き交うひとびとも同じ気持ちなのだろう、誰もが訝しげな視線を送っていた。
少しだけ目で追ったが、この楽しい時間が愛華の侵入により壊されてしまうのではという懸念が脳裏をよぎって恭弥は意図的に視線を逸らす。
恐らく向こうは気付いていないはずだ、半ば祈るような思いで逸らした視線を元に戻すとふたりの姿はどこにもなかった。
恭弥の挙動を見ていた豪禅が首を傾げて問いかける。
「……恭弥、どうかしたか?」
「……あ。……いえ、なんでも」
曖昧に笑って誤魔化すと、豪禅は納得してはいなかったが、特に言及はせず「そうか」とだけ言ってひとかけらになったクレープを頬張った。恭弥もそれにならってクレープを食む。甘い味が一瞬にして先程の苦さを和らげた。
◇
「楽しそうですね、豪禅さん」
恭弥と別れ家路につこうとする豪禅にそう声を掛けたのは、真っ黒な姿をした影嗣だった。『門番』と同じ、鉄道員に似た服を身に纏っているが現状の役目は『門番』ではない。彼の今の役目は『運転手』である。路肩に止めた高級車に気だるげに背を預ける彼を見て、豪禅は緩やかに笑った。
「ああ、とても楽しいぞ」
「事務所の鍵落としたって言ったときは何してやがんのかなって思いましたけれどね」
影嗣が豪禅の過ちを指摘する。しかし、彼はやはり微笑んでいるだけだった。
正直鍵を拾われてしまった時、豪禅は焦った。
事務所――言うなればあらゆるものの巣窟の鍵を不用意に落とした上、他人に持っていかれたのである。普通は焦るものだ。けれど電話口の豪禅はひどく落ち着いていて、しかも嬉しそうだったものだから、影嗣は思わず「あんた、正気か?」と知り合いの親をなじってしまった。
豪禅は恭弥の中に眠る『魂』の具合を垣間見た。可愛いを求める健気な『欲望』をきっと<紅姫>は気に入るだろうと、だから鍵を取られてしまったとしても慌てる必要がないと、そう思った。
――きっと出会う機会があると思ったから。
事実そうなったわけであるけれども――それとこれとは別問題だった。しかし豪禅はわかっていない。彼のこの危機感のなさは妻の榧のせいだろう。
「榧さんがあんたにとびきり甘くなかったら、滅茶苦茶怒られるような失態ですからね。ちょっとは反省してくれませんか」
「ふふ、そうだな。不幸中の幸いだった」
「……わかってねえだろ……」
豪禅の自省する様子のない笑みに、影嗣は頭を抱えた。
榧は、豪禅にとんでもなく甘い。
カカア天下といえばそうなのだけれど、それとは少し事情が違う。
言い表すのが難しいのだが、とにもかくにも榧と豪禅というふたりは一筋縄ではいかない厄介な夫婦なのだ。
影嗣は顔を上げて、首のあたりを掻いた。何を言ったところで彼に通じる言葉はない。暖簾に腕押し、糠に釘。まさにこのことである。
「……まあいいや。どーせ、アシがついても高飛びできんでしょうからね。――で、向かう先は事務所ですか」
「ああ」
影嗣が仏頂面のまま後部座席の扉を開き、豪禅が長身を屈めて車内へ入る。それを見届けてから影嗣は己の役目を全うするべく運転席へ乗り込んだ。
「最近はあんまりホテル行かないんですね」
車を発進させて暫く――流れていく夜景の、線のように細くたなびく明かりを見つめていた豪禅に影嗣がそう話しかけた。事務所は彼らの活動拠点に相応しくないほどに質素である。もっと豪邸に住んでも良さそうなものだったが、当人たちたっての希望らしい。
(俺もあれくらいでよかったんだけどな)
思考していると豪禅が先程の影嗣の問いに返した。
「涼に怒られてしまったんだ――金の使いすぎだ、とな」
旗丹涼。
体は男で心は女の、<紅姫>に猶予を与えられている『魂』。現状健やかに育っているらしく、順調に行けば猶予と同じ三年くらいは彼女の腹を満たせるだろうという話だった。
涼の主な仕事は組織の経理だった。出て行くばかりの財布の紐を締めるある意味重要な役割。――それは裏を返せば、今の今まで彼らの金遣いを止める者がいなかったということだ。そのため、一応上司である<紅姫>から形だけのお叱りを受けていた。本当に形だけ、であったけれど。
(あの人も相当甘いからな)
仲間想いと言えばそうだが、ブレーキ役がさっぱりいないというのもまた大きな問題である。こと仲間内ではそういう者が多いので、ごく一部の表向き、常識人たちが引き締めているという現状だった。影嗣が豪禅――ひいては豪禅の所属する組織に一枚噛んでいるのも、父親である影経が見かねて頼んできたものだった。
頼みに来た影経はだいぶ疲れた様子で「……あれが組織として成り立ってんのは奇跡だ」と言っていた。ほとんど榧と豪禅の夫婦が好き勝手にしているようなもので、それが楽しいと乗ってきた燈以奈と萌黄が余計に盛り上げているという感じだった。ある意味惨状である。影嗣も目の当たりにした当初「……隠居の道楽じゃねえか」と口にしたほどだった。それくらい、なんでもやっていた。合法非合法は一切問わずに。
「影嗣、いつも済まないな」
唐突に謝られたので、影嗣がミラー越しに眉をひそめた。
「……何がですか」
「真夜中に叩き起こされたりして……大変だろう」
「……ああ」
榧と豪禅は世界各国を飛び回っている。それこそ早朝、深夜関係なく呼び出されることも多い。
けれど謝られるのはあまりにも今更過ぎる。だから影嗣は答えた。
「……別に気にしないでください。俺は元々不眠の気があるんで。まあ……、彩羽の方が毎回辛そうではありますけど」
影嗣は助手席を見る。そこでは丸まった毛布――ではなく、犬の姿をした彩羽が寝入っていた。彼女は以前にも増して朝に弱くなった。なので大抵、影嗣が揺り起こしていた。主の危機には即応するけれど、それ以外は常に昼寝をしているような調子だった。きっと平和になったからだろうと母――彩羽にとっては義母になる――が言っていた。
「ふふ、平穏無事なものも良いことだ。俺も自由に生きていける」
「……そうですね」
あんたはちょっと自由に生きすぎだ、という言葉が這いあがってきたが飲みこんだ。言わずもがな、意味がないからである。
そうこうしているうちに、前方にコンクリート造りの寂れた建物が見えてくる。明かりについている三階部分が事務所だ。備え付けの車庫に入れ終えると、影嗣が助手席で眠る彩羽の体を揺すった。ふわふわの体毛が心地良い。
「……ん……んん……」
「彩羽、ついたぞ。降りろ」
「……んぅ……、も……食えねえ……」
「食ってねえよ、とっとと起きろ」
彩羽はなかなか起きなかった。仕方がないと影嗣は、尻尾を掴んで、そのまま下のほうへ手をずらして、撫でた。
すると「ひゃうんっ!」という甲高い声を上げて跳ね起きた。これが寝起きの悪い犬を覿面に起こす方法だった。勢いよく飛び上がった彼女は車の天井に頭をぶつけて、暫く悶えていた。器用に前足で頭を押さえる姿がなんだかおかしくて、影嗣は思わず己の口を手で覆った。
「……っ、くく……な、何してんだお前……ッッ」
「~~ってぇぇ……マスターが……へんな……っ、起こし方するからぁ~……! ……ってえ……」
「本当に仲が良いなお前達は」
ふたりを様子を見て豪禅が笑みをこぼす。その時だった。
「――邪魔したか」
ぶっきらぼうな言い様はそっくりである。
豪禅が僅かに目を見開いてその登場に驚愕していた。
夜闇に融け込むような真っ黒な外套を身に纏い、目深に帽子を被った男。雨など降っていないのにその手に大きく広げられた傘が握られていた。
「……父さん」
影嗣がそう言うと、影経は眩しいものを見るように目を細めた。




