083「また、会ったな?」
恭弥は帰宅してすぐ掌の感触に違和感を覚える。開いてみて、はっとなった。
「やべえ……!!」
渡すつもりの鍵をそのまま持ってきてしまっていた。
男の相貌にすっかり魅了されて、渡したことも渡すこともその時全て忘れてしまっていたのだ。
赤の他人なので勿論、連絡先など知らない。特徴的な見た目ではあるけれど、都内に行けばあの格好はざらにいる。現状邂逅する手段が何もなかった。
「……あ~どうしよ……」
恭弥は項垂れ、その場に蹲る。
鍵はごく普通のもので、特徴的なところはなにもない。ついでにいえばどこの鍵かわかるような目印もないので、その場所へ行って直接渡すことも不可能だ。
(仕方がない……落とし物だって、明日交番に行こ)
そう思って恭弥は机の上のわかりやすいところに鍵を置いた。
ベッドに座り、座ったその姿勢のまま横向きに倒れる。脳裏に浮かぶのは男のことだった。
可愛いを纏った、綺麗な男だった。何から何まで完璧で恭弥の憧れる姿そのものである。さながら初恋のような気分だった。
(すげえ似合っていたな……)
メイクだけの力ではない。あれは彼本人が生来持つ美しさがゆえである。日本人離れした見た目は人形のようで、しかし微笑んだその姿は女神のように思えた。
(……)
恭弥の意識が机の上の鍵に向く。
あれを渡す口実に出会えないだろうか。そんなことを一瞬考えてしまった。
愛華に知られれば間違いなく浮気だと糾弾されると思いつつも、しかし同性だから問題ないだろうと言われてもいないのに言い訳をしながら、恭弥はいつの間に眠っていた。
◇
恭弥の家は決して裕福とは言えなかった。だからといって困窮していたわけではないが、少なくとも愛華のように高級志向に偏るほどではない。ごく普通の一般家庭――恭弥が思う自らの境遇はその言葉がぴったりと当てはまった。
だからこそ愛華の金遣いにはついていけない部分がある。誕生日には必ずブランドもの、料理もそのあたりのファミリーレストランだと文句をいうので、無理をしてでも高級なレストランの予約を取らなければならない。そういう付き合い方をしていれば当然ストレスが溜まる。その発散のために恭弥が行っているのがひとりで楽しむウィンドウショッピングだった。
無論眺めるのはずっと憧れを抱いているロリータ系統の衣装だった。一式揃えるだけでも満たされるであろうその服には到底手が届かない。一度愛華を連れてきたことがあったが「これ可愛いから買って」とねだられてしまった経緯があるので、それからは連れていくことをやめた。彼女に着てほしいから連れてきている訳ではない――恭弥は飽く迄自分が楽しみたいから来ているだけ。
それに彼女が着ているのを見ていると、嫉妬心のようなものが沸々と湧き上がってしまうのでそれも嫌だった。
愛華は熱がなかなか下がらないという。彼女に悪いがこれ幸いと、恭弥は暫く封印していたウィンドウショッピングに来ていた。季節の移り変わりでディスプレイが変わっていて、可愛らしく装飾された中に置かれた服は一層可愛く思える。レースとフリルがふんだんに使われ、やわらかく広がったスカートには、回転木馬が描かれている。きらきらと光の粉を散らしながら回る様を描写した柄はそれだけでも可愛い。計算し尽くされた『可愛い』の塊に、恭弥はほう、と息をついた。
(新作めちゃかわ~)
そう思って眺めていると肩を叩かれた。
不審者だと思われたか――と怯えながら振り返って、恭弥は驚いた。
赤い目が緩やかに微笑む。
「――また、会ったな?」
鍵を渡し損ねた、あの男だった。
◇
「まあ、豪禅様!いらしてくださったんですね、ありがとうございます」
店員が彼を見てそう言った。常連なのは明らかだった。彼がディスプレイされていた服の方を見る。恭弥が見つめていたジャンパースカートだ。
「着てみるか?」
「……え!?」
「見ていただろう? 気になるのなら、着てみるといい」
唐突な提案に恭弥は肯定も否定も出来ない。
豪禅、と呼ばれた男は答えを聞かないうちに「あれは試着できるか?」と店員に聞いている。どんどん断りづらい雰囲気になり――
「それじゃあお着替えできましたらお声かけくださいませ」
いつの間にか試着室にいた。
藍色の生地に回転木馬が描かれているジャンパースカート。膨らんだ袖のブラウスとあわせて重ね着し、胸元に大きなリボンをつけるスタイルである。
「……」
恭弥は鏡を見る。
髪の毛を染めたチャラい男が可愛い服を手にしているという――シュールに思える絵面だった。一瞬着替えるのをよそうかと思ったが、ここまで来てしまった以上怖気づくわけにはいかない。そう自分を鼓舞しつつ、恭弥は意を決してブラウスに袖を通した。
◇
(やっぱ無理……)
化粧も施しない素顔の自分では服に着られている違和感しかなかった。
外に出るのがこの上なく嫌になり、恭弥はしゃがみこんだ。その時、背後から声がかかる。
「――お客様、いかがですか?」
店員だ。
なんと答えようか迷っている間に、後ろのカーテンが無遠慮に開いた。ぎょっとなって振り返ると、豪禅が膝を抱える恭弥を見つけて瞠目する。
「大丈夫か?」
「お客様、ご気分が……!?」
「あ、いや、いやっちが、ちがうんです!!」
心配そうな顔をするふたりに、慌てて恭弥は手を振って否定する。
その後小声で「……これ……やべえなって……」と自虐を口にすると豪禅が首を傾げた。
「何も悪いところはないぞ。ああ、化粧か?それなら俺よりも……そうだな、姫眞に頼んだ方がよさそうだ」
「え?あ、えっと、その」
「ええ、とてもお似合いですよお客様!」
「サイズが合って良かった――これを頼めるか?」
「はい、勿論」
「えっ!? ちょっと!?」
話がなんだかまずい方向に進んでいる気がする。
止めなければ、と試着室を出ようとしたが恭弥の目が別の客を捉えた。この姿を見られたくないと反射的に思った恭弥は素早くカーテンを閉める。
「おい」
カーテンの向こうからくぐもった声が呼びかけた。
「……は、はい」
恭弥は力なく答えた。
「済まない。脱いでもらえないと、買うことが出来ない」
「……え、あ……は、い……」
悪いのでいいです――言おうとしたが、言えなかった。
こんなチャンスはきっと二度とないだろうと歓喜を覚える自分がいたからだった。




