082「上手くいけば」
愛華が熱を出したというので、見舞いのために彼女の住む家に向かった。
彼女は実家暮らし、そして両親は金持ちだった。だだっ広い敷地の中に聳え立つ豪邸。入るのも躊躇われるような佇まいで、紹介された時は息を呑んだ。
彼女が好きだという桃の缶詰を持参して家のインターフォンを鳴らす。暫くして『はい』という女性の声が流れた。母親だろう、恭弥は名乗って見舞いに来た旨を伝えた。待っていると四十代前半と思しき女性が現れる。愛華とよく似た相貌が微笑んだ。
「いらっしゃい、ありがとうね」
『上品な婦人』という言葉がぴったりと似合う女性だった。彼女は有名なピアニストだそうで、今はもう第一線から退いているものの、未だあちこちから声がかかるという。経歴を語ってもらったが雲の上の話すぎて、恭弥はなにひとつとして理解できなかった。ただ『ピアノがとんでもなく上手いひと』程度の認識だった。
その母親に連れられて、一人娘で充分に甘やかされたのだろうと予期できるほどの広大な自室に通された。全体を通して洋風に纏められているので、恭弥の密かな興味をくすぐってくる。天蓋付きの寝台で横たわる愛華に近づくと、恭弥に気付いた彼女は赤みの差した頬で笑った。
「きょうちゃん……」
「よう、だいじょうぶ? これ、見舞い」
そう言ってビニール袋の中の桃缶を見せた。途端愛華の表情が変わる。
嬉しそうだったのが一変し、眉をひそめた。
「は?」
「……え? あ、ごめん。桃……高いの買えないから、さ」
恭弥は言い訳を口にした。愛華は納得いっていなかったようだが、渋々「……ありがと」とお礼を言った。
金持ちで育てられたお嬢様の愛華は高級志向で、特に好物の桃に関しては注文が多かった。
当然ライブにも付き合っている恭弥にはお歳暮でたまに貰う価格の桃など買えるはずもなく、仕方がなくスーパーで売っているような桃缶にしたのである。
「……愛華、辛そうじゃん。俺、もう帰るね」
「……え?」
愛華が瞠目して、起き上がる。
フリルのついた可愛らしい寝間着だった――「いいな」と込み上げた羨望に蓋をして、恭弥は目を背けた。
「なんで? はやくない? あいか、何か悪いことした?」
「……だって、ほら。……辛そう、だし」
「つらくないよ。ねえ、だから一緒にいて?」
恭弥は押し黙った。この場合、彼に選択肢は与えられていない。愛華のその問いかけは最早袋小路にお詰められているのも同然だった。彼女の我儘は受け入れないととんでもないことになるのである。
しかも、ここは彼女の実家、下手なことをして目を付けられて、何か要求されても恭弥の財力では答えられないし、最悪破滅するしかない。だから、恭弥は大人しく付き合うことにした。
終始、周囲に溢れる『可愛い』に興味を引かれながら。
◇
恭弥が愛華から解放されたのはすっかり日の暮れた頃だった。
腹の虫を聞かれて夕食を、と言われたがさすがに悪い、と断って彼女の家を後にする。ほとんど愛華の話は聞いていない――彼女の話の八割を占めるのが『セイレーン』のことだったからだ。
それよりもあちこちに恭弥の憧れたブランドの家具や衣服が目に留まってしまい、その方が気になっていた。
「……はあ」
恭弥はただ『可愛い服を可愛く着こなしたい』だけだった。けれど世間一般的に言えばそれは『女装』である。今やありふれたものだけれど、恭弥の臆病さが、あと一歩のところで殻を破ることを躊躇させていた。特別なことではない、普通のことだ――と自身に言い聞かせても、周囲にどう見られるかが気になってしまう。そうやって沸き上がる自己嫌悪を隠すために軽薄でチャラついた自分を気取った。
本当は自分が一番好きになったひとと幸せになりたいと思うのに、だ。いろんな女の子と付き合って、自分の弱い部分から目を背ける。そうやって恭弥は己を成り立たせてきた。
「……ん?」
アパートへ向かう道の真ん中で、ゴシックロリータ姿の女がしゃがみこんでいた。スカートの裾が擦れるのも構わず、何かを探している。思わず恭弥は駆け寄り、声を掛けた。
「あの、どうしました?」
「……あ」
顔を上げて、目が合う。
真っ赤な瞳だった。派手すぎず、さりとて控えすぎてもいない化粧は彼女の美貌を十二分に際立たせていた。これまで様々な女と付き合いを重ねてきた恭弥でも見たことも関わったこともない類の高潔さすら感じる美女だった。
(め、めっちゃ綺麗だ……)
ごくりと思わず生唾を飲みこむ。そして、
(……あれ?)
恭弥は自然と彼女の首元を見ていた。首元には黒いレースのチョーカーがされていて、かなり浮き上がっている。明らかにそれは女性の首ではなかった。はっきりとした凹凸は喉仏が隆起している証である。
――男
そう思って呆然としていると、彼は申し訳なさそうに言った。
「鍵を……落としてしまって」
男性特有のテノールボイスだった。どきん、と心臓が跳ねた。
「……あの?」
男の声に、恭弥の意識が呼び戻される。はっとなって「か、鍵ですね」と言って同じように地面に視線を向ける。あちこちに顔を突っ込んでいると、側溝の際どいところに銀色の光る物体を見つけた。
落とさないように慎重にそれを取り、男に見せる。すると彼はぱあと顔を明るくして、
「ああ、ありがとう。とても助かった」
そう言って微笑んだ。
男だと分かっていても惚けてしまうほどに美しい相貌だった。厚塗り感もないナチュラルな色味のベース、ほどよく色をつけるアイシャドウは紫と赤が絶妙なグラデーションになっている。口元も派手派手しい赤ではなく、少しボルドーで、グロスを重ね付けているのか艶やかに潤っていた。
極めつけは――その目。赤く染まった瞳が一層彼を引きたてていた。きっと素顔も相当綺麗なものなのだろうと恭弥は想像した。
「……うん?」
見つめていたらしい、恭弥は慌てて目を逸らして立ち上がった。
「す、すんませんっ……あの、それじゃあ!」
「――あ、おい」
引きとめられる声を無視して恭弥は足早にその場を立ち去る。
追おうとした男は、
「……久しぶりに」
と呟き、立ち止まってバッグからスマートフォンを取り出す。数分のコールの後、相手が応答した。
「――ああ、影嗣か? 済まない、事務所の鍵を落としてしまって……ん? いや、なくしてはいないんだが……ああ、そうだ。場所は――」
電話の向こうで懐疑的な相手に、男は微笑みながら言った。
「上手くいけば、手に入るかもしれないから」




