08「冴えないしな」
嘘でもいいから。
誰か僕を――
◇
早川純太は、水中にいた。
何の変哲もなかった日常は突如として息苦しい水の中に変わり、純太は毎日どう息継ぎをするかで必死だった。帰りになってようやく水面に顔を出したような心地になる。だが、陸に上がった気にはなれなかった。
(……)
――ねえねえ知ってる?
――知ってる知ってる
――早川君ってさあ意外と
――えげつねェよな
――モラハラだって
――さいってー
水のあぶくが弾けるたびに見えるたくさんの目。魚の目がぎょろぎょろと深海の闇の中で光っている。狭い水槽の中、うまく泳ぐことのできなくなった純太を周囲の魚たちが笑っていた。
煌びやかな尾びれを持つひときわ美しい魚によってもたらされた楽園。そこに全く相応しくない醜い鱗の剥げた病に侵された魚が、純太だった。
(……どうしてこんなことになってしまったんだろう)
純太は好きになっただけだ。たったそれだけのことで、世界はがらりと表情を変えた。
(……消えてくれない)
絶えず脳裏で波紋が広がっている。消したいのに、儘ならなかった。
――ごめんね
謝る彼女の恍惚とした表情を見て、純太は場違いにも「可愛いな」と感じた。ああ、確かに彼女は愛らしい見た目をしていて庇護欲のわく娘だったな、と回想する。その回想をするたびに、鱗が一枚剥がれていくような、鰭を引き千切られるような、魚の癖に溺れていくような気分だった。
快楽に勝る愛情などないのだろうかと純太は考える。いや、そうではない。自分の与える快楽が彼女の欲しがっていたそれと大きくかけ離れていたからだろう――悪いのは自分なのだと自己嫌悪した。
歩く道のりがいやに遠く感じた。体中が重い、足枷がついているようだった。
(……僕は)
恋愛だけが全てではない。愛していた彼女以外にも親しくしている友人もいる。家族だって別に不和と言う訳ではない。逃げる場所なんていくらでもあるのに、どうしてもこの途方もない絶望感が消えなかった。
(……うそだ)
全部、全部嘘だった。
純太が最後に自分自身についた嘘。嘘をつくたび、呼吸が浅くなるような心地がしていた。自分で自分の首を絞めていた。
――これが絶望なのだろう、と純太は実感していた。
頼れる人などもうどこにもいないし、逃げる場所もない。けれど自覚をすればするほど水底に沈んでいくように体が重くなるので、考えないようにしていた。
今すぐにでも消えてしまいたい、どこか遠くへ行っていなくなってしまいたい。
――本能が回避している『死』の衝動こそなかったものの、曖昧模糊にもやはりどこかに純太の心には、それがへばりついていた。
(……)
水の中に浸かっている。今でもなお。息をするのも歩くのもなにもかもうまくできない。
純太は溺れていた。学校という水槽の中で。日常という大海の底で。
(……)
分かれ道だ。
右に曲がれば家に帰ることができる。でももう、できない。
純太は選んだ。
――沈んでいくその先に何があっても、もう水面へ上がらない道を。
◇
若干の坂になった道の途中。もう日の暮れかけているその場所に、小学生らしき子どもたちが群がっていた。中心部からはシャボン玉が溢れている。
「……?」
はしゃぎながら天高く舞うシャボン玉を追いかける子どもたち。それを生産しているのは男だった。黒い髪で赤い瞳をした外国人風の男性。白いワイシャツに黒のスラックスといういたってシンプルな井出達でビール瓶を入れる黄色いケースを椅子代わりにして、ひたすらにシャボン玉を吹いている。
何気ないその姿が画になるのはきっと彼がとんでもなく美形であるからだろうと、純太は考えて再び気分が沈んだ。
(僕、冴えないしな)
すりガラスに映った自分を見て自嘲する。視線を戻すと男と目が合った。男は純太を見つけるとふ、と笑って手を振った。
「……?」
「――Guten Tag……いや、今の時間帯だとGuten Abendかな?」
「……え」
「ああ、済まない。こんばんは、と言ったんだ」
「……あ、ああ……こんばんは」
純太が頭を下げると男も頭を下げた。背後で子どもが男を呼ぶ。
「兄ちゃーん! シャボン玉吹いてくれよー!」
「ああ、少し待っていろ」
男が振り返って返事をしてから純太に笑いかけた。
「良ければ寄っていくといい」
言い残して彼は子どもたちのもとへ戻っていく。何を言われたか一瞬理解できなかったが、なるほど彼のいた場所は駄菓子屋のようだった。古めかしい建物の中にはぎっしりと駄菓子が陳列されていて、いずれも破格の値段がつけられている。看板には手書き文字で『だがしや・から紅』と書かれていた。
「……こんなところに」
懐かしさを感じつつ、純太は中へ入った。
奥には座敷があって、どうやら居住区と一緒になっている店のようだった。座敷部分に女が座っている。胸の大きく開いた半そでシャツに、ショートパンツという真夏の格好をしている彼女は、その口に棒状の菓子を咥えて貪っていた。売り物のようだが気にする様子もなくむしゃむしゃと頬張っている。
「んー? おお、いらっしゃい」
簡素な格好であるがゆえに、彼女のスタイルが際立つ。それに髪の毛も白に近い金髪で、頬に羽根のような模様もあるし、目だって紺碧の海を宿したような青色だ。古き良き駄菓子屋にはやや浮いている見た目だった。
「ん? オマエも『うめえ棒』食う?」
「……あ……いや……」
「んぁ? オマエなんだそれ、壊れてンじゃん」
目ざとく女が見つけたのは純太の握り締めているスマートフォンだった。
絶望の象徴である。
「……あ、これは」
「ばっきばきだな画面。落としたのか?」
「……まあ、そんなところです……」
「ふうん」
自分から聞いておいてさほど興味もなさそうに返事をする女。自分の横に山積みにした新しい駄菓子を開封して口に放り込んだ。しゃくしゃくと小気味いい音が響く。
「ヴィー、ガキども帰らせろよ~そろそろ日ぃ暮れちまう」
「ああ」
シャボン玉を披露する男にそう言って、女が立ち上がった。
「さて、と……えっとそういえばオマエどしたの」
「……え?」
「なンか買わねェの?」
「……あ」
純太は慌てて目についたものを手に取った。ヨーグルトに似せた駄菓子だ、値段は二十円。キャッシュレス対応はしていないように思えたので、純太は鞄から財布を取り出す。その時、それが落ちた。
「……あっ」
彼女のあられもない姿が映し出されたプリクラだった。あの日にポストに投函されていたもので、あわせて動画も送られてきた。その瞬間、純太は水槽の中に放り込まれていた。知らぬうちに水を吸い込んで溺れているのに気付いたのは、何食わぬ顔で学校へ行った次の日だった。
「ん~? およ」
女が拾うのを純太は止めることができなかった。まじまじとそれを見た女が、
「ははーん」
と合点のいった顔をする。
当たり前だ、そんな何もかもが見えているようなプリクラで『彼のものになっちゃいました♡』なんて書かれていれば、いやでもわかるだろう。
「寝取られちゃったのね、オマエ」
オブラートになど一切包まず、そのままはっきりと、女は純太の置かれた状況の一片を口に出した。




