079「隠していることがあるだろう」
10/26:後半部分加筆修正
真っ白な部屋の中で、少女が眠っている。
生死の境を彷徨う彼女のもとに黒い影が近づいた。
彼女を彼岸へ旅立とうとするのを繋ぎ止める細い管――影はそのたもとに手を寄せた。
そして、薬剤の入ったバッグに手を伸ばし、懐から取り出した注射器を突き刺した。
針先から青い液体が滴下される。すると、少女の鼓動を示す波が大きくうねりそして――
ピーッ
甲高い機械音を立てて、少女の生命は凪いだ。
◇
「『桜雲館の紅姫』……ですか」
話を聞いていた笹金藤次は後ろを振り返った。上司の鹿場神楽は「ちっ」と舌を打つ。
実妹を殺害した飛戸羽音の聴取は非常に胸糞の悪いものだった。
彼女は一貫して「妹を守るために」という枕詞を多用した。飽く迄自分は家族を想っての行動であったと主張するばかりで、自分に殺意もなければ敵意も悪意もなかったという。
とうとうとんでもない与太話にまで発展してしまい、鹿場は大層苛立っていた。
「うるせえっ! てめえの妄想なんざどうでもいいんだよ!」
「妄想なんかじゃないんですよ刑事さん。でもね、刑事さん、僕は頼りませんでした」
「あ?」
澄んだ目――いやに、綺麗な目で羽音は言う。湖面に反射する陽光のような輝きに、鹿場は奥歯を噛み締めて、激情を堪えた。ひとを殺しておいて一切反省しない剰え善意だったと宣うその根性が気に食わなかった。
「僕は、出会ったんです。僕にそうしていいよってそうするべきだって言ってくれるひとに。だからそのひとの言う通りにしました。ねえ、妹は? 妹はきっと喜んでいるでしょう?」
子どもが親の手伝いをして褒めてもらうために自慢するような無邪気さだった。堪忍袋の緒が切れそうな鹿場は視線を外した。羽音と笹金に背を向け、マジックミラーになっている鏡に向かってその事実を突きつけた。自分の姿を反射する鏡の向こう側にも数人の同僚や上司がいるだろう。同じように苦々しい顔をしているのだろうか――そんな想像をしながら、鹿場は突きつけた。
その、残酷な現実を。
「――死んだよ」
長い沈黙。羽音の顔を見ている笹金が言いにくそうにしながら、口を開く。
「妹さん……羽衣さん……君に刺された後、突然容体が急変してね。そのまま……」
沈黙が気まずい、と感じたのだろう。しかし、そこまで言って笹金が下を向いた。
情に浸るなど何度も言っているのにこの男は、と鹿場は内心で叱りつけながらどん、とテーブルを叩いた。
「そういうこった、わかったか? お前がやったことは」
「……は、はは……はははは……」
呆然としていたと思った羽音の口から零れたのは乾いた笑い声だった。
ぎょっとして笹金も鹿場も思わず身を引いた。
「ははは、ははははは! そうか……羽衣は……羽衣は綺麗なまま……そうか……!」
「お、おい、てめえ、どういう」
「そのひとにねえ、言われたんです。このままじゃ妹は汚くなってしまうから……だからその前に……っひひ、ははは、ははははは!」
羽音の笑い声は段々と膨らんでいき、しまいには腹を抱えて笑い出した。
彼女の異常な言動にふたりが困惑していると、羽音は突然動きを止めて目だけを忙しなく動かし始めた。何かを確認しているような素振りの彼女をにわかに警戒心を強めた鹿場は「お前!」と再び掴みかかろうとした。しかし、
「僕もそっちに行くよ! 羽衣――!!」
そう高らかに宣言してどこに隠し持っていたのか、青い液体の入った注射器を自身の首筋に打ち込んだ。
「てめえ!!」
慌てて注射器を取り上げるがすでに遅く、羽音は泡を噴いてその場に倒れた。びく、びく、とニ、三度痙攣してから彼女は動かなくなった。青い顔で脈を確認した笹金は、鹿場を見て首を振った。
「クソが……!!」
やり場の怒りを、鹿場はその感情をパイプ椅子にぶつけた。
がしゃん、という音だけが虚しく部屋に響いた。
◇
「――そう」
報告を受けた<紅姫>の表情は澄んでいた。
欄干にもたれる姿は美しい――膝の上に置いた拳に力を入れて、零雨は頭を下げる。
「……すみません、俺の落ち度です」
確実に渡したと思った『鍵』。『桜雲館』へ続く扉は開かれなかった。
あの後羽音はデート中の羽衣を襲って刺し、一命をとりとめたはずの羽衣は容体が悪化して帰らぬ人に、同じく羽音もまた取り調べの最中、密かに持ち込んでいた毒薬によって死んだという。
それにいずれの『魂』も仙治郎と同様回収できなかったそうである。
本来であれば羽音の『魂』は<紅姫>の糧となっているはずだったのに。
手順を誤った自覚はなかったが、何かしら至らぬ点があったのだろうと零雨は床を見つめながら考えていた。絹夜が青い顔をして同じようにしている。最愛の恋人にこんな姿を見せたくはなかったが――こんなところでまで良い恰好をしたいとは思わない。かえって無様に思われるだろう。
永遠と思われる沈黙の後――口を開いたのは<紅姫>だった。
「ふたりとも、顔をあげて」
言われた通りゆっくりと視線を正面に戻すと<紅姫>が四つん這いになって近づいてくるところだった。彼女は立って歩行することが難しい――基本的に移動が誰かの腕の中なのはそれが理由である。自らで自由を封じた結果だというが。
彼女は目前まで迫ると、愛おしそうに零雨の頬を両の手で包みこんだ。あたたかな体温が自戒する己をやさしく溶かす。
「君たちの落ち度はなにもないよ。零雨、絹夜」
「……」
<紅姫>の目は夜空だ。静謐な夜の中に浮かぶ銀色の輝きはいつ見ても変わらぬ冷たさをたたえている。その時、ふわりと花の香りがした。零雨は眉を顰める。
(この香りは……)
「ふふ、零雨の目はいつ見てもとても綺麗な色をしているね」
笑う少女は美しい。ごく自然な動きで瞼に唇が近づいてくる。
零雨は無言のままそれを見つめ、そして言った。
「……膠さんは、自覚がないのですね」
「……え?」
零雨の放った言葉の意図をはかりかね、<紅姫>膠はぽかんと彼の薄氷色の瞳を見つめていた。
「……それはどういう言葉なのかな?」
「……いえ」
「ふうん? ふたりは俺に――ううん、俺たちになにか隠していることがあるの?」
膠の少し挑発的な言葉に零雨はなおも静かだった。
絹夜だけがどこかはらはらとふたりを見ている。
「おわかりになりますか」
「うん、ちょっとだけ。……それを話す気がないってことも」
沈黙。それから、
「今後このようなことがないよう、誠意努めます」
と真面目な顔をして言った。膠は虚をつかれたように目を丸くした。
暫くそうしていた後、彼女は袖で口元を押さえて笑った。
「ふふふ、零雨は真面目だなあ……こんなの、そんなに真面目に考えることなんかじゃあ、ないよ」
和やかな雰囲気に変わったのを感じ取った絹夜が、あからさまに胸を撫で下ろしていた。
◇
「……狂輔さん」
膠の部屋を出てすぐ、邂逅したのは糸目の女だった。
『局長』狂輔。
その名はひとつ前の人生から既に知っている。別の名を用いて呼ぶことがほとんどだったが、今は名に由来する仕事はしていないので、名前呼びだった。
「やあ、失敗したんだって? 御愁傷さまだね」
「……」
お疲れ様、でもご苦労様、でもなく御愁傷さま。彼女らしい第一声である。
「申し訳ございません、以後引き締めます」
「そ。まあ精々、お姫様の小間使いとして働いておくれよ――で、さあ」
「……?」
狂輔の射抜く瞳は鋭かった。言葉に出さず待てと訴えていた。
糸目から垣間見える眼光に怯むこともなく零雨は平然としている。彼女に見えない位置で零雨は、絹夜の手を握っていた。顔色こそあまり変わっていないけれど絹夜はぴりついた空気に若干怯えているようだった。
「君……いいや、君たちさ」
「はい」
「――小生になにか、隠していることがあるだろう」
零雨は黙った。狂輔はそれを肯定だと捉え、一層険しい眼差しを向けてくる。
絹夜はわからないように顔をそらした。
「……先程、膠さんにも同じことを言われました」
自嘲気味に零雨は言う。狂輔の顔からは笑みが消えていた。
「そんなに俺、隠しごとをしているように見えますか」
「わかっていてそう言ってるだろう、君。余計にたちが悪いよ」
「ははは、まあ。――隠していることがあるということ自体は認めますよ」
狂輔は視線を絹夜の方へ向けた。彼と視線は合わなかった。
意図して見ないようにしているからだった。すると零雨が絹夜を庇うように半身を動かす。
「狂輔さん、お気持ちは理解しますが、きぬさやちゃんにはどうか手出し無用で。でなければあなたといえどなにをするか……俺もわかりませんからね」
飄々と零雨は言ってのける。狂輔は苛立ちを隠そうともしないまま言葉を紡いだ。
「……君たちの隠しごとはたちが悪い。たちが悪いってことだけが充分理解できるんだ。しかしわからないから苛々している。何故、小生の情報網をかいくぐれる? 君たち、ただの人間だったろう?」
「そうですね。殺人鬼とその最後の被害者でした――あなたの記録にある通り」
「だったら、なぜ」
「さあ?」
零雨は答える気はないようだった。
睨み合いが数秒続き――それをやめたのは、狂輔だった。
消していた笑みが口角に蘇ったが、目元はなおも鋭かった。
「まあいいさ。どうせそのうち、暴いてやるからね」
「それは怖い」
零雨は絹夜を押すように前へ歩かせ、その後ろに続いた。
遠ざかっていく背中にもう一度、狂輔が声をかける。
「――その隠しごとというのは、彼女に関係することかい」
零雨が足を止めた。肩越しに振り返り、そして――笑った。
「なんだ、ちゃんとわかっていらっしゃるんじゃないですか」
それだけ言ってもう彼は振り返らなかった。




