078「もう二度とお越しになりませんよう」
それから、妹にはできるだけ近づかないようにしました。
だってあの子も束の間の休息は必要だと思ったので。
帰ってくるまで待とうと思っていたんですよ?
――でもあの子が、とんでもないことをするから。
だから、ああするしかなかったんです。
◇
光が差したとそう思ったのに――羽音の世界は再び暗闇に閉ざされた。
助言をもらって以来極力妹には近づかないように努めていた。彼女の動向を知りたがる本能が疼いて仕方がなかったが、それでも羽衣が姉の存在の重要性に気付いて戻ってくるまで待っていた。
しかし、妹は一向に帰って来る様子はない。連絡もないし、大学で見かける彼女はいつも――否、以前にも増して元気になっているのも気になった。
(おかしい……)
羽音は違和感を覚えて、その日一日だけと己に言い聞かせて『関わらない』という禁を破った。
小雨の降りしきる中、お揃いの傘ではなくビニール傘をさして、帰宅する羽衣の後をあの時と同じように追いかける。
(僕だからわかる……羽衣はなにかおかしい)
いつもはしない派手な化粧をして、いつもはしない恰好をして浮かれているということが。羽衣は大人しく、幼いころから引っ込み思案だった。だから前に出ようとする時は必ず誰かが彼女に何かを吹き込んでいることが多い。
(そうに決まっている、だって僕は羽衣の姉なんだから)
羽音の中に自身の考えが『妄想』『勘違い』であるという可能性は浮上しない。自分のすることは全て正しく、妹のためになると思っている。――そうやって思い込むことで、羽音はやっと『羽音』という人格を保てるのである。
自分が壊れる恐怖は何物にも代えがたい。
アイデンティティーの喪失ほど恐ろしいことはないのだ。
羽衣はやがて喫茶店に辿り着いた。彼女がドアノブに手を掛ける前に、扉が開く。
中から出てきたのは――
(な……!!)
男だった。
短い髪で、前髪が鬱陶しい程に長い男。ひらひらと余った袖を振る様は愛らしいが――男である以上、羽衣に危害を加えるケダモノでしかない。愛らしさなど取って食らうための面の皮なのだから。
そうと決まればすることなどひとつ。羽音はポケットに手を突っ込んだ。
(……全部羽衣のためなんだ)
間違っていることなどなにひとつなく。
羽音の正義は、揺るがなかった。
◇
羽衣の変化に気付いたのは絹夜だった。長身を折り曲げて、彼女の顔を覗き込む。
「……ん? 顔、……違う、か?」
「あ……はいっ!彼とデートなんです」
「……」
照れたように言う羽衣に、絹夜が一瞬気の毒そうな顔をしてから、無言のまま外を見た。
小雨といえど、傘をささずに歩くと結構濡れてしまう勢いである。
視線の意図を理解した羽衣が困ったように笑った。
「そうなんです、彼ったら雨男で」
「……大変、だな」
「いいんです。ここで、ちょっとリフレッシュしていけるので」
「……そう、か」
「……こっちだ」と絹夜が席に案内する。席につくと同時に再びドアベルが鳴った。
ホールのふたりが一斉に扉の方を見る。
「……!」
動いたのは龍善だった。座る羽衣を庇うようにして、その前に立つ。
睨む眼前にいるのは――
「お姉ちゃん……?」
ただ事ではないと気付いた羽衣が龍善の後ろからそう声を上げた。
扉の前にいるのは短い髪の毛の先端から水滴をこぼす羽音だった。両手で力強く握っているのは――カッターナイフである。図画工作の際に使用される道具も、ひとに向ければ途端凶器になる。使用法を全く守っていない長さに刃先が出されていて、殺意があるのは明確だった。
「羽衣……お前なんでこんなとこに……」
「な、なんでって……」
「僕はお前が戻ってくるのをずっと待っていたんだぞ……!? お前が反抗期でひとりになりたいだろうからって見守って……なのに……」
「何言ってるの、……お姉ちゃん?」
カッターナイフを握る手は震えている。羽音は追い詰められた表情をしていた。『眼』で見なくともわかる――羽音の行動はほとんど衝動的なものだ。計画性などまるでなく、言うなれば子どもが我儘を通すのに床で暴れまわるのと同じ。気に食わない現状を変えるため、一番手っ取り早い破壊を選んだのである。
絹夜が羽衣の両肩を強く引き、あわせるように龍善が前に出る。
「……やめなよ」
龍善が言うのに、羽音の顔色は変わらない。寧ろ二人目の異性の登場に益々眉間に皺を寄せている。
「は? お前――お前が羽衣になにか……!」
「……俺たちは何もしていないし、そもそも彼女はアンタの勝手な言い分に迷惑している」
「は? は、羽衣やっぱり、こいつらに何か――」
「――いい加減にしてもらえるかな」
ごくやさしい声が割って入った。
カウンターから出てきた零雨がゆっくりと羽音に近づいた。
「そうやって……自分を守るためだけに他人を利用するのは。君の言い分ははっきり言って耳障りだよ」
「な、なんだよお前……お前も男じゃないか、そうか、そうやってやさしく」
羽音の刃先が零雨に向けられる。鼻先に突きつけられても彼は動じなかった。
澄んだ目で羽音を見つめている。
「……な、なんだよ……」
「『悪い虫』が付かないように最善を尽くすのは構わない。努力は必要だ、俺がきぬさやちゃんを手に入れるためにあらゆる手段を尽くしたように」
「……は?」
「でも君自身が『悪い虫』になっては意味がないだろう? 気が付いていないのか?」
一歩零雨が進むたび、羽音が一歩下がる。
凶器を持っているのは羽音で圧倒的有利なはずなのに、現状圧されているのは彼女の方だった。
「わ、悪い虫……? 僕が……? ぼ、僕はただ……」
「ただ?」
「……僕は……妹を……」
「妹を?」
「……ひっ」
息を呑む。羽音は恐怖していた。目の前の男がまるで正体不明の化け物のようにさえ思えた。しかし、自分には武器がある。奥歯に罅が入るのではないかというほどに噛み締めて、羽音はカッターナイフを真横に振り払った。
「! ……零雨っ!」
「……おっと」
絹夜が叫んだ。しかし、零雨は避けることもせず、その一閃を受けた。頬に一筋、傷が生まれる。通常であればすぐ血が滲むはずなのに傷口からはその気配がなかった。それどころか、頬の傷はみるみるうちに消えていった。
刹那、羽音が抱いた先程の違和感が一気に膨れ上がる。
「な、なんで……!? ……え!?」
「……ああそうだった」
刃に似た鋭い眼光が、羽音を貫く。
冷たく冴えた瞳はカッターナイフなどよりも獰猛な輝きを放っていた。
「俺は生憎人間じゃなくてね……これはただの『器』。仮初の肉体なんだ――だから血は通っていない」
「え? ええ?」
「そんなもので俺は殺せないってことだよ」
その時、羽音は風を感じることしかできなかった。あまりに一瞬の出来事だった。気が付けば床に押し付けられていて、それから遅れて手首を掴まれて足元を払われたのだと理解した。
「っ! な!」
「君はもうここの客ではない。たとえ家族でも――他人を傷つけるような存在を俺は客とは呼ばない」
「は、はなせ……ぼ、僕は……妹の……っ!」
聞く耳を持たない羽音にはあ、と零雨は嘆息する。
「君に出すケーキも紅茶もなさそうだ……<紅姫>の御前に差し出す方が早いだろうね」
「……は? べ、べにひめ?」
「『桜雲館』の<紅姫>……鍵は渡す、彼女の御前で自らの罪を自覚するといい」
「……な、なんの話……うわぁ!」
零雨は羽音の首根っこを掴むと、泥棒猫を追い払うようにそのまま店の外へ放り投げた。
ばしゃ、と水溜まりの中に落ちる羽音。泥だらけの彼女に零雨はにっこりと微笑みかけた。
「――もう二度とお越しになりませんよう、お待ちしておりませんので」
そう言って扉を閉めた。
「おい、――!?」
文句を言うより先に、店は忽然と姿を消した。
まるで一睡の夢の如く――すっかりその場からなくなってしまった。




