077「怖え」
男性同士の仲睦まじい絡みあり。
『あんたのお姉ちゃんがあんたのことめっちゃ探し回っている』
そのメッセージを受け取ったのはケーキをほぼ食べ終えた頃だった。
また事態を大事にしている――そう思って羽衣が立ち上がろうとするのを制したのは龍善だった。
「え?」
「……行かない方がいい」
「で、でもおねえちゃんが……」
「あのひとに関わるとアンタの『魂』も穢れるよ」
「……は?」
唐突にそんなことを言われて羽衣も目を丸くするしかない。しかし龍善はそれ以上のことは何も言わなかった。
「……俺、ちょっと行ってくる」
「え?」
言うが早いか、龍善はエプロンを脱ぎ捨てて羽衣が入ってきたのとは反対の入り口に向かった。突然の行動に、絹夜と話していた零雨が彼を呼び止めた。
「龍善君」
「……はい」
「何をする気かな?」
「……この子の姉さんとこ行ってこの子は無事だからもう関わるなって言ってきます」
「……!」
龍善の宣言に絹夜がはっとなる。危険だ――とでも言いたげな様子である。しかし龍善の意思は変わらないようだった。諦めたように息を吐き、零雨は「……長居は禁物だよ」とだけ助言した。
去っていく背中を見て、羽衣は姉のところへ行くなら、と立ち上がる。
「あ、あの――!」
「……うん?」
扉を開けようとしていた龍善が振り向く。
「……おねえちゃんに、これ……だけ伝えて貰いますか……?」
羽衣の伝言を受け取った龍善が、ほんの少しだけ口角を吊り上げた。
「……了解。……アンタ、いい人なんだね」
言い残して龍善は扉の向こうへ消えていく。閉まる刹那に見えた光景は、確かに大学の廊下だった。
◇
それからげっそりとした龍善が帰ってきて、姉の反応はおおむね予想通りだった。
申し訳ないと思いながらも、正直顔を合わせたくなかったので助かったとも思った。
「……ありがとうございました」
「……ん」
そうふたりに見送られて羽衣は傘を開く。
透明なビニール傘――姉の呪縛から解放された証のひとつである。外は未だ止む様子のない雨のスクリーンに覆われていて、足元からひんやりとした空気が上がってきた。
羽衣は何気なく振り返った。
「……え?」
そこに喫茶店はなかった。どころか、店を建造できるような土地もない。店と店の、ひとひとりようやっと通れるような隙間があるだけだ。
「……夢? ……ううん、でも」
自分のこめかみを押さえて考える。
ケーキの味も紅茶の味も――彼らとの記憶もはっきりしている。だから居眠りついでに見るような夢ではない。そういえば龍善が「雨の日にだけ現れる」と言っていた――羽衣はその言葉を思い出して、スマートフォンで検索を掛けた。
すると、ヒットしたどのページにも同じことが書かれていた。
――『レイニー・ファニー』
――雨の日にだけ現れる喫茶店
――そこの従業員は人ではない
「……まさか」
しかし今しがた起こった現象を説明するのに、一番しっくりくる解答である。それに「『魂』が穢れる」という謎めいた台詞もまた同じように解釈ができた。
「……『魂』……」
言葉にしたその途端、羽衣の胸の中心が妙に熱くなった。
◇
『レイニー・ファニー』もまた、『から紅』と同じで土地のある場所ならどこにでも現れることができる。ただし、条件として『雨の日であること』が絶対だった。もともと零雨が生前に営んでいた喫茶店がベースとなっており、その店が雨の日にだけ開いていたことに由来している。
キッチンは零雨と壱多兄妹、ホールは龍善と絹夜ふたりの担当である。『錠前』としての役割も勿論あるが、それ以外にも『魂』の『休息地』という役割もあった。
喫茶店で提供されるケーキや紅茶を摂取すると一時的ではあるものの、『魂』についている若干の『穢れ』を浄化することができる。しかし一時しのぎであることに変わりはないため、深刻な『穢れ』になれば無論『桜雲館』へ案内していた。
羽衣の『魂』は『休息』を与えれば浄化される程度の『穢れ』だったが、このまま厄介な姉と関わり続ければその『穢れ』は凝り固まり――やがて『業』となるだろう。そうなれば喫茶店で提供する諸々はほとんど役に立たない。
「……」
客のいなくなった店内で黙々と片づけをする絹夜。綺麗になくなった皿を重ねている背中に、体温が重なる。
「……!?」
「そんなにゆっくり片付けているとすぐに夜になってしまうよ? きぬさやちゃん」
零雨だった。
無口で表情の殆ど変わらない絹夜でも、この不意打ちには驚く。滑り落ちそうになった皿をなんとかこらえて絹夜は口元をぎゅ、と結んだ。
『きぬさやちゃん』、とは零雨が呼ぶ絹夜の愛称だった。
「ふふ、きぬさやちゃんは相変わらず可愛いね」
「……そんな、こと……ない」
前髪に隠された絹夜の目線が横にずれる。恥じらっている証拠である。
そんなふたりの仲睦まじい姿を横目にしながら、龍善が何度目かわからない溜息をついた。
(……怖えな、ほんと)
怖いというのは別に零雨のことではない。羽衣の話だ。
『浄玻璃眼』を持つ龍善は、ひとの『器』をしていても大体真偽の判断はつく。だから羽衣が同情されたくて、変に誇張して言っているのではないとわかっていた。
「同情する必要はないと思うけれどね」
絹夜を抱き締めたまま、龍善の憂いをわかったように零雨が言った。
「……同情、っつうか……なんつーか」
「自分というものを形成させる上で、姉は妹が大切なんだよ。妹を守るという姉の立場こそ、飛戸羽音の存在意義。それがなくなってしまったら、どうやって生きて行けばいいのか路頭に迷うから」
「……そんなん、勝手すぎません?」
「生きるというのは往々にして勝手だよ。誰かを想うのも憎むのも……基本的には自分勝手で我儘なことさ」
言いながら零雨は絹夜の髪の毛をいじっていた。抱き締められている当人は固まったままである。
「それが他人を苛むというなら立派な暴力だと思うけれどね」
「……暴力、か」
龍善は零雨の言葉を復唱しつつ、片付けが全くはかどらない絹夜を見た。長い髪に隠れてこそいるが、その顔はトマトのように真っ赤である。
「……零雨さん」
「うん?」
「そろそろ絹夜……離してやってくれません? 頭から火を噴きそう」
「……ん? あれ……、きぬさやちゃん大丈夫? 顔が真っ赤だ」
「……あなた、のせい……」
なんとかそれだけ絹夜は吐き出す。その様子を零雨はくすくすと笑っていた。存外意地の悪い恋人なのである。龍善は親友と恋人の兄のやりとりを一瞥し、未だキッチンにいる恋人――生前の妻である壱多を振り返った。壱多はどんな作業でも真剣だった。加えて集中すると周囲が全く見えなくなるタイプだった。なので、作業中の彼女は話の輪にほとんど入ってこない。現在彼女は丁寧に丁寧に、ゼリーの器に液を注ぎ入れていた。
「……」
龍善はカウンターから身を起こして、そっとキッチンに侵入する。すぐ近くまで来ても壱多は全く気付かなかった。
「……壱多?」
「っ! はい!」
弾かれたように壱多が顔を上げる。眼前に迫った龍善の顔に、彼女の顔が真っ赤に染まった。
「は、はわわわ!? え? い、いつの間になのでしょうか!?」
「……ふふ」
「え? えっ、あれ?」
「……ほんっと、かわいー」
龍善は慌てる壱多を抱き締めた。壱多はびっくりしていたが、すぐ照れたように笑って身を預けた。
その様子を見ていた絹夜が、なんとも複雑な表情をした。
「……」
「おや、羨ましいのかなきぬさやちゃんは」
「……違う」
「じゃあどうしてそんな眩しそうな目をしているのかな」
「……ここ」
「うん」
「……呼ばれ方、……知って。……いる、か」
「……さあ? 知らないけれど」
「……『リア充喫茶』」
「……ああ。じゃあ」
「……ん? ……ん!?」
「お言葉に甘えてたくさん充実しようか、絹夜」
絹夜は突然名で呼ばれたことと、己の内側に体温が滑るのを感じて一層顔を赤くした。
――ちなみに補足するとそのあだ名を広めたのは『局長』狂輔である。




