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桜雲館の紅姫【完結】  作者: 可燃性
拾壱のこと『悪い虫』
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074「用心するに越したことはない」

 窓を叩く雨音が、静かに響く廊下。ひとり男が歩いていた。

 先程羽音に声を掛けた男――龍善(りゅうぜん)である。


 大学には様々な容姿をした学生がいる、たとえ龍善がここの学生でなくてもそれがわかる者などいないだろう。すれ違う誰もが彼のことを気にすることはなかった。

 龍善はある教室の前に立つ。引き戸を開けるとそこに現れたのは、整然と並んだ机と椅子、そしてホワイトボード――ではない。


 喫茶店だった。


 ごく狭い喫茶店には机と椅子が二組だけあって、カウンターキッチンの向こう側では動く人影があった。立ち上る紅茶の香りとケーキのほんのり甘い匂い。大学という場所が寧ろ嘘であったかのような光景に特に驚く様子もない。

 カウンターでもたれていたパーカー姿の男が龍善に顔を向ける。両の目は長い前髪に覆われていて表情は見えない。口元も真一文字に結んだままである。

 龍善は彼に向かって、手を上げた。応えるように腕を上げた彼の手は完全に袖に覆われていて、所謂『萌え袖』の状態だった。――彼の名は絹夜(きぬや)。龍善と共にホールを担当している。


「……大丈夫、か」

「……ん。まあ……そこそこ」


 絹夜の落とすような調子で投げかけられた問いに、先程の出来事を思い出しながら龍善はげっそりとした様子で答えた。

 二人のやり取りを見て、店内唯一の客人である少女が視線を落とす。緩く巻いたウェーブの薄い茶髪を、カチューシャのような編みこみをした彼女は羽衣。羽音の妹である――彼女の前には食べ終えた後の皿とまだ湯気の立った紅茶のカップが置かれていた。


「……ごめんなさい……私のせい、で」


 責任を感じる羽衣に龍善が首を振る。


「……いいや、別に。……アンタはなにも悪くないよ。仕方ないことだし」

「――その様子だと、あまり印象はよくなかったみたいだね」


 そう背後から声を掛けたのはキッチンにいた男、零雨(れいう)である。彼は絹夜の恋人であり、この店の店主、そして以前篤に絡まれていた少女の兄だった。


「……すげえ怖かった、……です。殺されるかと思った」

「それはそれは……」


 龍善の報告を聞いて、羽衣の表情が再び曇る。それから「……やっぱり」と呟く。

 耳聡く聞いた龍善が「やっぱり?」と訊ねた。


「……おねえちゃん、いつもそうなの。わたしのこと考えているようで全然考えてくれていない。わたしが独り立ちしないように邪魔したいだけなの」

「……邪魔?」


 絹夜が小さく首を傾げて問う。羽衣は溜息まじりに続けた。


「おねえちゃんは良い恰好がしたいだけなのよ」


 姉の想いは嬉しかったが、それが純粋に『嬉しい』と思っていたのも精々小学生高学年まで。以降はただただ鬱陶しいかった。けれど鬱陶しいなどと言えば「誰にそんなこと吹きこまされたんだ」という見えない敵の詮索が始まり、羽衣と関わった人間へいつの間にか牙が向けられている。違うと否定しても姉は一切聞く耳を持たなかった。


 ひとりではなにもできない可愛い天使を助けるなんでもできる姉。


 母も父もそう思っていたようで、そのせいで姉は妹を徹底的に『弱者』にしたがった。

 姉は『しっかりしているね』『なんでもできるね』と言われることを心底喜んでいた。傍目から見ても明らかだったけれど、子どもの頃は可愛らしいで済む。

 でも、大人になれば褒められる機会は減っていく。子どもの頃できなかったことは大人になれば当然のようにできてしまうからだ。だからこそ、妹を甲斐甲斐しく世話をする姉という立ち位置を死守するべく、羽音は羽衣をできることすらできないと周りに嘘をついてまで、管理した。


「おねえちゃんは褒められたがりなの……賛美されるのが好きなだけ。……結局は自分が一番」


 褒められている姉はとても幸せそうだった。その横顔は今でも覚えている。確かに姉の嬉しい顔は妹として嬉しかったけれど等号で結ばれるものではない。けれど姉にとってはそれが今も猶続く姉妹の絆だと、未だに信じている。


『姉が幸せであれば妹も幸せだろう』という妄想。それが透けて見えるようになってからは、できる限り姉と距離を置く努力をした。だが姉のそれは想像以上で――ことあるごとに距離を詰められ元の木阿弥だった。

 大学すら一緒のところに行こうと誘われた時は人生の全てを姉に奪われる――と恐怖すら感じた。


「姉はわたしよりも頭が良くないの……でも、姉はそれを認めていなかった。自分が教えたからって言い張ってて」

「……」


 絹夜が眉間に皺を寄せる。


「……嘘、ついたのか」


 その答えに、羽衣がうんざりした様子で頷いた。


「……そうか」


 消え入るような声で絹夜が言い、龍善がはあ、と溜息をついた。


「……あんたのおねーさん、相当キテてるね」


 龍善の物言いに、羽衣は「本当に」と答える。


「せめて、大学くらいは自由にしたかったのに……おねえちゃん、サークルにまで乗り込んできて……」

「そこまで行くと最早家族というよりストーカーの類と言った方がいいかもしれないね」

「……はい」


 零雨の発言を受けて、羽衣は思い出す。サークルの行われている教室に入ろうとする自分を必死の形相で止めにかかる姉の顔を。

 羽衣が所属しているのは水彩画サークルだ。その名の通り水彩画を得意とするメンバーが集まって活動している。時折構内で展示会などを行う至って真面目なサークルだった。姉が想像しているようなことは皆無、なによりサークルメンバーは全員女子だった。


 姉の剣幕から察するに、最初に羽衣に声を掛けた女性を男だと勘違いしている。


 羽音にはひどい偏見がある。タチが悪いのは妹という見本があるからこその偏見であるということだった。羽音は時代を幾分か逆行しているのではないかと思われる程の――『典型的な女性らしさ』にこだわった。

 羽衣の髪が長いのも、ひとえにこのせいだった。


 なのに、自分は異端者であろうとする。故に髪を切り男勝りな口調を使い続けている。

 矛盾した言動も子どもの幼い時分は可愛らしいと思える。酸いも甘いも知らぬ無垢な存在だからだろうか、単に物を知らない無知だからだろうか。――あの頃から形成されている姉の歪んだ性格を、口に出して問題視するものは誰もいなかった。『個性』として受け入れられているのかもしれない。

 けれど、あれは単なる『個性』として受け入れることは妹の羽衣にはできなかった。


『ひとより違う風に見られること』にも快感を得ている羽音は成長し知識を身に着けるたびに暴走していった。誰も止めないし、なにより羽音自身が自分のことを一度だって省みない。

 できるなら羽衣は早い段階から姉と縁を切りたかった。しかし容易ではなかったから、せめてもの手段として一人暮らしの算段をつけた。母を介して報告したのは、姉が妙な勘違いを起こして大事にしないようにという保険である。

 だが結局のところ、構内で見かけぬ程度で姉は大事(おおごと)にしようとしていた。


「……まさかお姉ちゃん……誘拐にまで発想が飛ぶなんて……」

「……ま、あのテの人間は何するかわかんないからね。……用心するに越したことはないよ」


 龍善が言った。経験則からの言葉である――自分に唯一無二の自信がある人間は反省しない。自分の行いの全てを肯定してしまえるから。

 楽な生き方だろう、と思うのと同時に他人との衝突はやむを得ないだろうとも思う。

 飽く迄龍善の場合は、だ。他の者が同じように考えるかは蓋を開けてみるまでわからない。


「ありがとうございます――それじゃあ、わたし、そろそろ」

「……お会計こっち」


 龍善が誘導するのに、立ち上がった羽衣がついていく。

 喫茶店の体をしているので、なにかしらで支払いはしてもらう仕組みだ。ひとであれば金、ひとでなければ対価として同等のモノを――与えすぎることも奪いすぎてもいけないのは、どんな関係性でも同じなのである。

 清算を追え、龍善が絹夜は言ってきた方向とは逆側の扉を開いた。からんからんとドアベルが鳴る。

 外は大雨だった。


「……ありがとうございました」

「……ん」


 龍善が言い、絹夜が黙ったまま手を振った。


「はい」


 そう言って羽衣はコンビニで売られているビニール傘を広げた。

 その後ろ姿を見ながら龍善は、


「……さすがに小学生の頃に買った傘はないよな」


 と、思わずひとりごちた。

3/25【名前変更】

零刃⇒零雨

影日⇒絹夜


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