073「ふざけるな」
拒絶された翌日から羽音は熱を出して体調を崩していた。家事をしようにも意識が朦朧としてできず、仕方なく羽音は布団の中で療養していた。
ふたりとも実家暮らしだった。母も父も仕事が忙しく、家を空けることがほとんどだったので、あらゆる家事を羽音が率先して行っていた。寧ろ羽衣がやろうとするのを奪ってまで――彼女は頼れる姉の仮面を被り続けていた。
なので、熱を出してしまった自己嫌悪に陥っていた。その間妹は何もできずに困っているだろうと想像していた。早く妹のために治さねば、そう思うほどに体は重く動いてくれなかった。
そろそろ体調が回復して来たであろう頃合いに、電話が鳴った。電話の相手は母親だった。
「母さん? どうしたんだい? 仕事中だろ?」
『ああ、のんちゃん……ごめんねえ、あのね、ころもちゃんからちょっと伝言を頼まれて……』
「え? 羽衣から?」
そう言えば家がずっと静かだった。生活音が消えていることに羽音は今更気付く。
羽音の頭に嫌な予感がよぎる。自室を飛び出し家中を捜索したが、妹はどこにもいなかった。それどころか、いた痕跡さえ薄くなっている。使用していた歯ブラシやコップ、タオルなどもなくなって、世界から羽衣という存在が喪失してしまったような有様だった。
「え……? なにこれ?」
『ころもちゃんね、一人暮らしするんですって』
「は!?」
羽衣が一人暮らし。
人物と行動が一致しなかった。悪い冗談か何かではないかと羽音は考えてしまった。
それ程までに現実味の薄い報告だった。
「な、なんで……嘘だろ……?」
『嘘じゃないわ。あの子ずっと準備していたみたいで』
「は? 準備?」
『ええ』
聞けば羽衣は大学入学と同時に一人暮らしの準備をしていたそうだ。羽音に反対されて一旦はやめたそうだが、計画自体を取りやめたわけではないらしい。やはりすぐにでも家を出て行きたいと両親に相談し、このために取っておいた貯金を切り崩して入居先を決めたそうだ。
全て初めて聞く話だった。
「貯金……て?」
『あら、それも……言っていなかったのね。あの子ずっと居酒屋でアルバイトしていたのよ』
「アルバイトだって!」
羽音は食卓を叩いた。派手な音が静寂に薄く滲んでいく。
『……のんちゃん』
「……っなに!」
『ころもちゃんも大人になったんだし……もう、いいんじゃないの?』
母が何を言っているのか羽音にはわからなかった。
「……は?」
『ふたりとももう大学生よ? そりゃあずっと一緒にいて寂しい気持ちになるのはわかるけれど……ころもちゃんだって、ねえ? もうお年頃なんだし、彼氏とかも――』
「……やめてよ母さん」
ぞっとした。
羽衣の無垢な体を暴くような者がいるということを、想像することすら嫌だった。
「金輪際僕にそんな話しないで――それより、羽衣はどこに住む予定なの?」
『……』
「ねえ、母さん」
長い沈黙の後、母は悲しそうに言った。
『……ごめんなさい、言えないわ』
「……はぁっ?」
やっと引いてきた熱が上がっているような気がしたが、構わなかった。
自分の体調よりも妹のことが気掛かりだった。
「言えないって……なんでだよ」
『それも、ころもちゃんから口止めされていてね……。ごめんなさい、のんちゃん』
「ごめんなさいじゃないっ、いいから教え」
『――それじゃあね』
そうして電話は一方的に切れた。
慌てて羽衣へ電話をかける。しかし何度かコールしたのち、返答するのは不在を知らせる無機質な自動音声だけだった。メッセージを送っても既読を示すことはなかった。
「……羽衣?」
手の中にあった宝物が攫われたような心細さに羽音は苛まれていた。
◇
(そうだよ、大学が同じなら大学で会えるじゃないか。僕ってばなんでそんな単純な事を忘れていたんだろう)
羽音はそう思い直し、体調が回復したあとすぐ羽衣を構内で捜した。
しかし、見つからなかった。
「……え?」
「飛戸さんなら今日三限までで帰ったよ?知らないの?」
(なんだ……!? そんな話知らないぞ……!?)
羽音はこの時、羽衣に時間割について嘘をつかれていたことを理解した。
常に五限まで取っていると言っていたから先回りしていれば会えるものだと思っていた。
「……ふざけるな……!!」
羽音の心の中を、憤怒が渦巻いた。
◇
その日はひどい雨だった。土砂降りで、傘の手放せない一日だと天気予報が告げていた。
羽衣とお揃いで買った傘をさし、羽音は今日こそは、と大学へ向かった。雨へ恨み言を吐く学生の合間に同じ傘がないか捜した。
しかしいくら目を皿のように探しても羽衣の姿はどこにもなかった。
「……っどこにいったんだよ……!」
羽音は四つある棟の全ての教室を一日かけて捜した。無論、授業は無断欠席になるが、羽音の頭に留年に対する恐怖などなかった。単位よりも妹を見つけることが姉である羽音には大切だった。
崩れ去った虚構が虚構でないという証拠を見つけるため、羽音は必死だった。あの日の妹は偽物で、何かサークルメンバーに脅しでもされてあんな態度を取ったのだろう。半ば真実のように思い込むことで狂いそうになる心を平静に保っていた。
教室ひとつひとつを覗いて羽衣を捜索したが、やはりどこにもいなかった。
神隠しにでもあったかのようだった。
そう思った時、ふと羽音は最悪の事態を想像した。
(まさか……誘拐……?)
あり得る話だ。
彼女はあんなにも愛らしい――邪な感情を抱く男なんていくらでもいる。
そう思うと居ても立っても居られず羽音は警察に電話を掛けた。
「妹が誘拐されてしまったんですっどうか捜してください……!」
警察に詳細を聞かれ、羽音は今までのことを全て話した。しかし「心配しすぎですよお姉さん」と逆に諭される結果となり、法など無意味なのだと羽音はスマートフォンを投げ捨てかけた。
そうして廊下で立ち往生していると、肩を誰かが叩いた。振り返るとそこにいたのは知らない男だった。
気だるげな顔立ちで、黒ぶち眼鏡をかけている。その奥には興味深そうに羽音を見遣る瞳があった。
その視線にぞっとして、羽音は距離を取った。
「……なに?」
「えっと……アンタ……飛戸羽音……さん?」
男は上から下まで舐めるように――と言うのは飽く迄羽音の主観であったが――見る。顔を顰めながら唸るように羽音は答えた。
「……だったらなに」
「……もしかして、妹チャン……探していたり、する?」
「……!!」
まさかこの男が――。
沸騰した感情がそのまま行動を促す。胸倉に掴みかかった。
人目も憚らず、羽音は声を上げていた。
「てめえかっクソ野郎! 羽衣を――僕の妹をどこへやったんだ!!」
羽音の剣幕に、男がぎょっとした。
「……っ!? なに!?」
「言えよっ、妹はどこにいるんだ!!」
「ど、どどこって……喫茶店っ!」
「……は?」
思わぬ単語に、羽音が呆気にとられる。
その隙に男は胸倉を掴み上げる手首を振り払った。
「……こわ」
襟口を直しながら男がぼやいた。
羽音は距離を詰めて極めて低い声で脅すように訊ねる。
「喫茶店? どこの?」
「……『レイニー・ファニー』っていう喫茶店。……ああ、でも」
「なんだよ」
「――行ったところで妹チャンには会えないけど」
「……なんだって?」
羽音が訝しむと、男は頭を掻きながら続けた。
「妹チャンは、いろんな事情により『レイニー・ファニー』に通っている。でも……アンタには会えない。とりあえずは無事。だから心配するな、ちゃんと単位とれ……以上」
「……?」
「……妹チャンからの伝言だよ、おねーさん」
嘘であれ、と願った事実を突きつけられた。
胸に杭が刺さったような鈍痛――錯覚だったが、それでも羽音の視界は失血したように暗くなった。
(嘘……だろ?)
羽衣の離れたいという願望。
羽音と一緒にいることはできないという事実。
あってはならない、羽音が願っていた事象が次々と現実で展開される最悪。
何かを間違えたのか、どこから間違えたのか――ひとり放り出された気持ちに羽音は陥っていた。
「……は、羽衣がそう言ったのか……?」
「……そうだけど」
「……じゃそういうことで」そう言って男は立ち去った。
羽音の前の海溝は以前よりずっと深さを増していた。暗い水底には、未だ光は届かない。




