072「おねえちゃんの奴隷じゃない」
――妹の、ことですか?
ええ、大変に素晴らしい妹ですよ。僕はずっと妹のことを愛しています。今だって離れ離れになってしまったけれど、思い続けていますよ。
――え? ならどうして――って?
どうして、なんて……おかしなこと訊くんですね。
決まっているじゃないですか。あの子のためですよ。
あの子は駒鳥のように愛らしくて、天使のように無垢だから、悪い虫がつかないようにって。
だから、僕はあの子を守ってあげたんです。
――あの、なんですか。僕、変な事、言ってますか?
どうしてそんな気味の悪い顔をしているんです?
まるで、僕の頭がおかしいみたいじゃないですか。
◇
飛戸羽音と羽衣は幼少期より、ずっと仲が良い姉妹だった。
姉の羽音はしっかり者だった。髪の毛は短く切り揃え、時折男子のような振る舞いもした。
妹の羽衣は常に周囲を和ませるムードメーカー。長い髪は絹のように柔らかく、腰まであった。髪の毛を短くすることは滅多になく、そのことを誰も不思議には思わなかった。
羽衣はおっとりしていて、よく段差のないところで躓いたり、溝に落ちたり――日に何度も怪我をしていた。しかし彼女は大仰に泣き喚くこともせず、いつも笑顔だった。
そういう羽衣を見ていた羽音はそれが彼女なりの周囲への気遣いなのだと思うのと同時に、だからこそ自分が見ておかないといけないと強く思っていた。
それは愛情に酷似した義務感や正義感――ある種倒錯した自己肯定であったが、幼い羽音にそんなことはわからない。
姉としての役目を果たさんと甲斐甲斐しく妹の世話を焼いた。手のかからない姉妹だと両親も喜んでくれていた。
中学生になっても高校生になっても仲の良さは変わらなかった。
ただひとつ姉妹に相違点があったのだとすれば、羽衣の方がひとに好かれたということだろう。
性格の問題だった。
男女問わず厳しい羽音は選り好みされたが、男女問わずやさしい羽衣はたくさんのひとに愛された。
そのおっとりさも愛らしいと特に男子から好まれていた。下心もない純粋な感情もあっただろうに、姉の羽音には許せなかった。
嫉妬だったのかもわからぬ、しかし燃え上がる正義感は真実を知る道を閉ざし彼女を常に奮起するようけしかけた。
彼女の中にある事実はたったひとつ――妹を守る姉。だから羽音は、羽衣を守った。
あらゆる悪いものから遠ざけて、汚れないように努めたのである。その行為は確実に羽衣を孤独に追いやったが羽音は罪悪感を欠片も抱かなかった。
羽音はまるで閃く赤い布に興奮して突進する闘牛だった。自制では止まることのできない領域に彼女の意識はあった。脳裏で鳴り響く警鐘の言うがまま、羽音は行動していた。段々と彼女の正義感は歪んで、変質していった。
彼女は益々速度を上げて走り続ける。王に囚われた友人を救うために走る物語の主人公のように――だが、そこにある真実に羽音は気付いていない。
囚われている友人は虚構、己が走っている道もまた虚構である。
全ては己が正義を示すために生み出した幻想――妹を想うその気持ちでさえ、虚ろを詰めた形だけの偶像なのである。
◇
大学へ進学することが決まった春。当然のように、羽音と羽衣は同じ大学に通うことになった。
羽衣の成績ならもう少し上の大学に行けると言われていたそうだが、ひとりになどさせられないと羽音が同じ大学を目指すよう進言した。羽衣は渋ったものの、最終的には姉の提案に頷いた。一人暮らしをしたいとも羽衣は漏らしたが無論、そんなこと羽音は決して許さなかった。
今まで通りの日常――と羽音が思っていたがしかし、問題が起きた。
羽音のやりたいことと羽衣のやりたいことが食い違ったのだ。
姉妹であろうと思考回路が同じであることなどあり得ない、この事実は当然である。しかし羽音にとっては異常事態だった。いつだって姉の傍にいるのが当たり前だった妹を今更ひとりにするなんて、と羽衣に自身の懸念を訴えた。だが、昔のように羽衣は姉の意見に賛成をしなかった。頑として自分の意見を曲げず、進みたい学部を己が意思で選んだ。
羽音は愕然としていた。呆気に取られている姉に、妹は突き放すように謝罪した。
「ごめんね、おねえちゃん」
羽音は羽衣の我儘を許すことにした。
彼女だってひとりでやりたいこともあるだろう――最低限自由にさせておけばきっと自分を頼って戻ってくる。虚構に浸かる羽音の思考はいつだって前向きだった。
けれど、ひとというのは時間が過ぎれば過ぎる程成長し、そして離れていくもの。
家族とてそれは同じである。
羽衣は突然サークル活動に精を出し始めた。羽音にとって寝耳に水だった。自由にさせていたツケが回ったのだ、と即座に自分の行動を悔いた羽音は根掘り葉掘り聞いた。妹は「おねえちゃん心配しすぎだよ~」と言って笑ってはぐらかすばかり。
疑念が鎌首をもたげ、それは徐々に暗雲となって心に立ち込めた。
(妙なサークルに入っているんじゃ……?)
羽音の想像は日に日に大きくなるばかりで、授業どころではなかった。羽衣がサークルに入るなんて想像していなかったからだ。
姉がいるのに、他に何が必要なのだろう。
そんな風に思っていた自信をへし折られた気分で、羽音は多少気分が悪かった。きっと彼女は騙されているに違いない、救ってやらねば――再燃した正義感に背中を押されて羽音は羽衣を尾行することにした。
一日中彼女にぴったりくっつき動向を調査する。複数人仲の良い友だちがいるようだった。
(所詮上っ面だけだ……、心の中でどう羽衣をいやらしい目で見ているか知れない。早く目を覚まさせてやらないと……)
羽音は自分の考えが正しいことを信じて疑わなかった。
四限目が終わり、サークルへ向かう羽衣を視界に捉え羽音は廊下の角から飛び出す。
「おーころもっち、きたきた~」
明るい声に、羽音の足がぴたりと止まった。
「お待たせ~」
(こ、ころもっち……!?)
おっとりした声に重なる低めの声。
男か、と想像した瞬間一気に羽音の体に鳥肌が立つ。慌てて入っていこうとする羽衣の手首を掴んで引っ張った。
つんのめった彼女は悲鳴を上げる。
「きゃっ!」
「羽衣!」
必死だった。
羽音にはその扉の向こうが地獄に見えていた。
「……え? ……おねえちゃん?」
目をぱちくりさせる妹は愛らしい。
守ってやらねば――そう思う顔立ちをしている。教室には複数人いて、男も女もいた。
(なんだよ、これ……気持ち悪い……!)
誰も彼も所謂『チャラそう』な外見をしていた。羽音は吐き気すら催した。
「羽衣、だめだよ! こんな――下品なところにいちゃ!」
妹を想っての言葉だった。
いつだって自分の――姉の言うことを聞いてくれるやさしい子だった。
だから、今回も同じだと思っていた。
――けれど、
「……もうやめてよおねえちゃん」
低く冷たい声。
妹の口から発せられたとはとても思えず、羽音は視線を空中に彷徨わせた。
自らが生み出した幻想に大きく罅が入った。脳内で音を立てて崩れていく。
「……え?」
「いい加減にして。わざわざおねえちゃんと同じ大学に来たんだから大学の中でくらい自由にさせてよ。……もう限界なの」
「は、羽衣……?」
「……わたし、おねえちゃんの奴隷じゃないから」
見たこともない羽衣の顔だった。今目の前にいるのは本当に妹なのか、羽音は疑い始めていた。
「……羽衣……? え?」
「……もうっ出て行ってよ!」
強く押され、羽音は尻餅をついた。
その瞬間、ばんっと音を立てて扉が閉められる。
(羽衣……?)
教室と通路を隔てる扉は、羽音にとって深い暗闇を覗かせる海溝のように思えた。




