070「しかし妄想だ」
仙治郎からの呼び出しがあったのは、電話で妙な会話をしてから数週間後だった。
なんでも紅蓮も一緒に来てほしい、という。
「どういう風のふきさらしだァ?」
「それを言うなら吹き回し、だな」
そんなやりとりをしながら夜風の冷たい道を歩くふたり。夜鴉はいつも薄着にダウンジャケットを羽織り、紅蓮はシンプルな井出達そのままだった。からからと下駄の音が響く。
仙治郎から指定されたのは港にごく近い倉庫だった。コンテナや資材などを保管する場所だが、もう使われておらず近々取り壊しが決まっていた。その巨大な敷地を丸ごと港近くの複合施設にするのだという。完成が楽しみだ、と義妹の姫綺が話していたなと紅蓮は歩きながら考えていた。
時間は夜の十時ごろ――ほとんど人気がなくなる頃合いだった。
「えぇーと……一番倉庫……あれだ」
夜鴉が指さす倉庫には掠れたペンキで『壱』の文字が書かれていた。
倉庫に入り口が僅かに開き、光が漏れている。夜鴉と紅蓮は顔を見合わせ、一応は警戒をしつつ中へ入った。放置されたコンテナの、錆の匂いが充満している。辺りを見回し呼び出した本人を探すと、彼は目の前にいた。
仄暗い目の内側に、宿ってはいけない炎が燃えているのがわかった。夜鴉は眉を顰める。
「……おい、センジロウ」
「夜鴉――やっと、君を救うことができる」
「あ?」
「ほう? 救う?」
「俺は……これを使ってお前に勝つ!!」
仙治郎が見せたのは白い錠剤だった。
「え? ちょ、センジロ――」
「待っててくれ、夜鴉!」
「いや待つかァ!」
夜鴉が止めるよりも先に仙治郎はそれを口に含んで大きく喉を鳴らして飲みこんだ。
数分の間――天井を仰いだ仙治郎が、突然苦しみ出す。
「う、ぅぅ……う、っがぁ……ああぁっ」
「お、おい、だいじょうぶかよ!?」
駆け寄ろうとしたが、紅蓮が肩を掴んで止めた。振り向くと彼の目付きは鋭くなっていた。瞳の中に確かな敵意が芽生えている。眼前の仙治郎を危険だと感じている顔だった。
「うぅ、うぅ……うぁあぁっ……!!」
夜鴉が仙治郎へ視線を戻すと、血と唾液を撒き散らしながら彼はふらふらと立ち上がった。ゆっくりと、顔を上げる。
「……ッ!」
「……」
白目が全て、真っ赤だった。
充血というレベルではなく、白目など存在しなかったかのように赤かった。
黒と赤のコントラスを見せる瞳――人外とも呼べる雰囲気に様変わりした仙治郎は口の端から猶もだらだらと唾液を垂らしながら、ゆっくり一歩ずつ歩きだす。
戦おうとしている――そう思った夜鴉が身構えるその横で紅蓮がポケットから煙草を取り出した。マッチで火を点け、深く吸い込む。
「え!?」
彼の呑気な行動に夜鴉が目を剥いた。
何をこんな時に煙草なんて――と思っているのも束の間、からん、と下駄の音が鳴る。紅蓮の口に咥えられた煙草が細い糸になって余韻を残した。
弾丸のように飛び出した彼は仙治郎の寸前まで迫ると、刺青の入った腕で顎を掴み、そのまま勢いよくコンクリートの床に叩きつけた。
決して無事では済まないであろう頭蓋骨の音が響いて、「うがぁっ!」という獣の悲鳴が上がった。床の破片が大きく弾ける。
「れ、蓮!?」
「……死なないか」
ぼそりと呟く紅蓮。かなりの勢いで叩きつけた。紅蓮もひとではない――腕力は人間のそれを軽く超えるものだ。通常であれば死んでいて然るべき威力――しかし、仙治郎は死んでいなかった。
頭から血は流れているものの、痛みなど感じていないかのように身を捻って紅蓮の拘束から逃れようともがいている。怪物となり果てているのは、見た目だけではないらしい。
紅蓮は一旦身を引いて距離を取る。仙治郎も額から血を流しながらも確かに立ち上がった。
「……え? え? えぇ?」
夜鴉が異常を察して紅蓮と仙治郎とを交互に見た。
紅蓮が倒し損ねる怪物とはいかに、と思っている表情だった。
「薬の効果か? どちらにせよあれではもう――紅壽の『毒消し』も意味をなさんな」
「おぉぉぉおぉぉおおおれはあぁああああぁああっ、よよよよるからららすすすすをおぉぉぉぉおぉ」
怪物が、歪に人間の言葉を真似た。壊れたラジオから発せられるような音割れした声だった。標的にされた夜鴉が素っ頓狂な声を上げる。
「な、なンだよ俺かよっ!?」
「だから言っているだろう、お前にムラムラしていたのだと」
「はぁ……? ンなの、勝手にひとりでしてりゃァいいじゃねェか。ああなっちまう理由になンなくね?」
「……やれやれ」
なにもわかっていない夜鴉に肩を竦め、紅蓮は再び拳を握る。
(指の一本でも触れられては困る)
肩を回し、距離を取りながら思考する。
恋慕するのも夢想し慰めるのも構わない。手さえ出さなければ紅蓮だって文句は言わない。
しかし今の仙治郎は明確に手を出そうとする意思がある。
ならば相手をしてやらねばなるまい。
「蓮……」
夜鴉が小さく呼びかけた。応戦したいという気持ちを感じ取って、紅蓮は言った。
「夜鴉、お前はそこにいろ」
「え?俺様だって――」
「守らせてくれないか?」
「……っ」
被せるように紅蓮が言って、振り返った。
得意げでいて、少しだけ哀しそうな――ニヒルな笑みを浮かべる紅蓮に夜鴉は口を噤んだ。
(ずりぃだろそれは……)
守られることが嫌いだった。戦うなら率先して前に出たかった。――そんな我儘を強く叱ったのは紅蓮だった。
実力があった夜鴉をそれ以上ない実力で捻じ伏せ、彼女の心を丸ごと変えた男。だからこそ夜鴉は紅蓮が好きだった。想い続ける気持ちは変わらない。
だから、その言葉は夜鴉にとって特別な意味を持つ。彼と自分を繋ぐひとつの約束の形のようなものだ。
――当然、仙治郎は知る由もないことなのだけれど。
「……かっけェことすンな、バカ」
拗ねた夜鴉に紅蓮は笑った。
その様子を見て、仙治郎の僅かに残っている人間の理性が吼えた。
――やめろ!!
――見るな!!
「みるなぁあぁあぁああおれのぉぉぉぉぉおおよるからすぅぅをおぉぉ!!」
「お前のじゃない」
仙治郎が拳を握る。その時めきめきと音がした。
巨木が根元から折れるような音は、仙治郎の体から発せられていた。内側に何かが蠢いているように、腕や足を何かが這いまわり、やがてそれは瘤になった。あちこちにそうして瘤ができて仙治郎の体が一回り大きくなる。筋骨隆々な肉襦袢を羽織った仙治郎は咆哮した。
「うぁあぁあっあぁあぁあああ!!」
「怪物になったつもりか? ――馬鹿馬鹿しい」
紅蓮が軽蔑するように言う。
仙治郎がどたどたと煩い足音を立てて向かって来る。紅蓮は煙草を捨てて、乱暴に踏み潰す。
「――夜鴉は誰のものでもない」
誰のものにもならないから――尊いんだ。
続けたその言葉はもう、仙治郎には届かないのだけれど。
紅蓮は向かってきた仙治郎の腕を取ってそのまま背負い投げをする。かなりの重量のはずだが、意にも介さない軽やかな動きだった。再び派手な破壊音が響く。しかし――コンクリートに背中を打ち付けても、彼は死なない。見れば、額の血はいつの間にかすっかり止まっていた。肉襦袢を羽織った時、同時に回復したようだった。
「うがぁっああぁ!」
咆哮を上げてバネ仕掛けのように背筋だけで飛び上がる仙治郎。高く飛びあがった巨体がそのまま紅蓮に向かって落下してくる。横に転がってそれを回避し、紅蓮は両脚で飛び上がって頭部に蹴りを敢行した。――が、
「ッ!」
足首を仙治郎に捕らえられた。
鞭を扱うように紅蓮の長躯が出鱈目に振り回され、コンテナがひしゃげる程勢いよく、背中から叩きつけられた。普通の人間であれば致命傷になるが、紅蓮はこの程度で死に至ることない――、しかしそれでも受けた衝撃は強い。
コンテナからずり落ちた紅蓮は思わず片膝をついた。
「ぐ……っ!」
「紅蓮ッッ!!」
夜鴉の声が紅蓮を呼ぶ。
その声に――仙治郎が動揺した。
(え?)
(どうして?)
それは油断。
それは躊躇。
それは――仙治郎がまだ英雄になりきれていない証拠。
仙治郎の動きが止まった隙を見て、紅蓮は足を高く蹴り上げた。その爪先は顎に直撃する。蹴られた、と自覚した時には既に紅蓮は空中にいた。
人間がそこまで飛び上がることができるのか――呆然とする仙治郎の脳天に踵落としが落ちた。落雷を受けるとこういう気分になるのかもしれないと仙治郎は思う。頭上から背中を抜けていく強い震動は、仙治郎の失いかけていた人間の部分を一気に呼び戻した。
(俺は)
(だって)
(夜鴉?)
仙治郎は仰向けに倒れる。肉体労働で疲弊した時のように、指一本も動かせなかった。
いや、それよりも感覚が鈍かった。巨大な錘の下に敷かれているような心地である。
「蓮っ!」
「――ああ、夜鴉。お前のお陰だ、ありがとう」
「ん」
横向きの視界の中、仲睦まじいふたりの姿が映る。頭を撫でられている夜鴉は全く嫌そうではなかった。
(うそだ……)
(じゃああれは……)
(俺は……)
考えがまとまらなかった。
体が痛い、腹の底が気持ち悪い。でもそれ以上に――心が痛かった。
失恋おろか恋などそもそも実っていなかったのだ、とこの時になってやっと仙治郎は理解した。
「……お、れは……」
「〝一人殺せば悪党で、百万人だと英雄〟」
紅蓮が再びポケットから煙草を取り出した。マッチを擦って点火し、深く息を吸いこむ。
先端が赤々と光った。
「……あ……」
「有名な言葉だ。だが、真の英雄とは誰かが勝手に定義しただけの偶像に過ぎない」
「……か、って……に……」
「英雄も聖女も勇者も神も――自らの内側に宿せばなれる。ひとは信じたいモノを具現化できるだけの力を持っているからな」
「……なれ……る……」
「――たとえ妄想でも、お前が夜鴉を恋人だと思えばお前の中の夜鴉は恋人だと肯定される」
「……」
「しかし妄想だ。区別を付けて生きろ、さもなくばお前は単なる怪物になり下がる」
「……か……いぶ、つ……」
「お前の『魂』はあの人に献上できんな……お前はどうやら死ぬようだ」
「……し……」
視界が暗くなる。痛みが遠退き、段々と肌寒い。
極寒の中、放置されているような心細さで仙治郎は紅蓮を見た。
「……さ……む……」
仙治郎は目を閉じた。
「恋敵として正々堂々と向かってきていれば俺ももう少し……考えたんだが」
紅蓮は鎮魂するように目を閉じてから、溜息のように紫煙を吐いた。
 




