064「イケそうな気がする」
※ネットスラングに関して、ほとんどアップデートされておりません。ご了承ください。
晴間仙治郎の人生は普通だった。線グラフでいえば、ずっと真っ直ぐという状態である。
上がることも下がることもない生きざまは、年を経るにつれて何事に対しても無関心な男を作った。
最初こそ就職せねば、と同調圧力に負けて勤しんでいた時期もあったが、もうその『周囲』と疎遠になった今、働く気など皆無だった。
いや、働く気というよりも動く気もないといった方が現状を示すに適切だろう。
動くことを極力控えた彼の生活は悲惨のものであった。
部屋は文字通りゴミ溜めで、六畳しかない和室のほとんどはぱんぱんに膨らんだゴミ袋に占拠されていた。放置されて久しいことは鼻につく嫌な臭いが証明している。けれど仙治郎はこの方が寒い冬の朝、暖気を留めておいてくれるので丁度いいとすら思っていた。
大の字に寝ころぶ布団も長い間そのままだ。黄ばんでいるし、恐らく捲れば畳も酷いことになっているだろう。だがそんなことをわざわざひっくり返して確かめるくらいなら、寝ていた方が有意義だと仙治郎は思っていた。
布団の下で育つ汚濁より、脳内で咲かせる花畑の方が仙治郎には大事だった。
なによりも、幻想。なによりも、夢想。
そういう男の日々は生を謳歌しているというよりも寧ろ、浪費していると言って差し支えないだろう。
しかし仙治郎自身、自分の人生は充実していると思っていた。
――否、それは言い訳に過ぎぬ。仙治郎という男は器が小さいくせに自尊心だけが馬鹿に高い、世間からどう思われようと構わないと思っている反面、良い恰好を見せたいと思う人間だったから、そうやって己を誤魔化して生きるしか術がなかった。
無論、誤魔化したとて、現実は変わらない。
己の心が安寧に包まれて、自己肯定の甘さだけがむくむくと肥えるだけ。
それでも仙治郎は努力をしなかった。したところで、無職だった頃の、「その年齢になっても仕事をしていないのか」という大家の視線に耐えあぐねて飛び込んだ職業安定所の職員のように小馬鹿にされるだけだと、そう思っていたから。
(俺は……)
努力をしない生き方。
情熱など燃やさずとも、己が一番になれる方法。
仙治郎は目を瞑った。
夢の中では仙治郎は無敵である。どんな女も仙治郎に笑いかけてくれるし、体を許してくれる。
1年も経たず辞めた大手企業で仙治郎は優秀だと周囲からもてはやされる。その内とんとん拍子に出世するのだ。現実に味わった同期と比べられるもどかしい思いと惨めな思いがぐちゃぐちゃと内側を渦巻く気持ち悪さを忘れてしまえる。
両親に未だ仕事をしていると嘘をついて、仕送りをしてもらっている情けない現実からも目を背けられる。
だが、体は素直だった。
くう、という控えめな腹の音に、仙治郎は目を開けた。
生きている限り、腹は減るものだ。冷蔵庫の中には萎びた野菜があるくらいだったと思い出し、仙治郎はのろのろと活動を始める。
どうせ近場のコンビニに行くのだから、着替えなどいらないし、ちょっと匂うくらいでは何も言われまい。そうして仙治郎は何か月も風呂に入っていない体と何か月も着替えていない寝間着のまま、心許ない小銭をポケットに入れて、憎々しい日差しの元コンビニに向かった。
(どうせ、誰とも会わねえしな……)
良い恰好をしたがる仙治郎は、知り合いがいないことを頭の隅で考えていた。
◇
そう思っていた仙治郎にとってその出会いはまさに青天の霹靂だった。
乾燥した指で掴み損ねた小銭を床にばらまいてしまった。金属音を立てて転がっていく硬貨。慌てて取りに行って――その人物に出会った。
「ん?」
気が付いた彼女はしゃがみこんで硬貨を拾い、集めたそれを掌に乗せて差し出した。
「……!」
息を呑んだ。
白に近い金髪、頬に浮かんだ羽の模様、そして――海のように真っ青な瞳。半袖にホットパンツという薄着なので彼女のスタイルが際立っていた。
幻覚に違いないが、彼女の周囲にきらきらと発光するオーブのようなものが見えた気がした。
布を押し上げる凹凸と目が合い、無理矢理視線を押し上げる。
きょとんした顔は無垢な少女のもの。
今まで関わったことのない人種であることは明白だった。
友人らしい友人もいない仙治郎の記憶の全てを、今この場で運命的だと思ってしまうほどに現実離れした美女が書き変えてしまった。
辛酸を舐めた社会人生活も嫌味を言われ続けたアルバイト生活も――もう思い出せない。
「……あ」
「おい、受け取れよ。オマエの金だろ?」
ずい、と少女が掌を見せる。
はっと我に返った仙治郎は「あ、あああ、ありがとう」と動揺の全てを乗せて感謝を述べ、それと受け取った。
ほんの数秒の触れ合い――しかし、異様に指先が熱かった。
◇
先述した通り、仙治郎に友人と呼べる友人はひとりもいない。孤独であることに羞恥心を抱く時期はとっくに過ぎてしまい、最早どうでもよいとさえ思っていた。否、思い込んでいた。しかし寂しいなどと弱音を吐くこともできず、寧ろ群れていなければいけない人間たちなどこちらから願い下げだと強がっていた。
だから何か困ったことがあればすぐネットの掲示板に書き込む癖ができていた。語り合いの場を設け、つらつらと自身の思ったことや感じたことを述べていく。すると同じようにこの場所で活動する顔も本名も知らぬ誰かが、時折強い言葉を使いながらも答えを返してくれる。忌憚ない意見が多いので、仙治郎は本気で頼りにしていた。実のところ、就活に関しても掲示板を利用している。
『マジモン美女に出会った』
それだけでも多くの反応が返ってくる。
『突然何事w』
『釣りか?釣りじゃなきゃはよ詳細よこせ』
『どんな子なんだよ』
『おいおい、まさか風●とかか?』
どんどん溢れていく言葉に多少の高揚感を覚えながら仙治郎は続きを書いた。
『肌白くてムネもでかかった。目も青くて髪の毛金……髪っていうのかな。とにかくめっちゃかわいかった、また会いてえ。つうかもう思い出すだけでオッキする』
『きめえwDT乙』
『会ったのドコー?』
罵倒されても仙治郎には関係なかった。質問に返答を打つ。
『近所のコンビニ』
『通いつめればあえる可能性高いのでは?』
(……そうか、その手が)
正直無職で仕送りに頼っている自分が見向きされないことはわかっていたが、会うだけなら許される。想像してそれを元に己の欲情を発散するだけなら、誰にも迷惑はかけないだろう。
仙治郎は出会ったその時の少女の顔を脳裏に浮かべつつ、そっと自身の既に反応を示す下半身に手を添えた。
(名前……名前も知らないけど……)
妄想する。
彼女が自分のモノに手を添えてぎこちなく扱ってくれる姿を――
仙治郎はそうしてパソコンの前で己の欲望を吐き出した。
浅ましい気持ちなどないと、また見栄を張った。
◇
「あ」
「ん? ……あ、小銭バラまいたヤツ」
偶然。必然。――いや、運命だった。
昨日と全く同じ姿の少女が昨日と同じコンビニで立ち読みをしていた。すらりと伸びる長い脚を見るだけでも邪な想像が脳裏をかすめる。
ごくり、と唾を飲みこんで仙治郎は「ぐぐぐぐ、偶然だね」とドラマか何かで見たくさい台詞を吐いた。
通い詰めようと心した次の日に会えるなんて――仙治郎は彼女との邂逅にただならぬ予感がしていた。
これは千載一遇のチャンス、自分の人生の線グラフが最大級に上昇している瞬間なのではないか、と。
「……偶然、ねえ」
少女はじろりと仙治郎を見た。上から下まで品定めをするように視線を移動させると「……ふうん」と言って立ち読みしていた分厚い雑誌を閉じて元の場所に置いた。
「オマエさ、時間ある?」
「えっ」
「ちょっと来いよ」
「へっ、えぇ? え?」
「るせェな、さっさとしろ」
少女が仙治郎の手首を握る。
昨日よりも濃厚な接触だ――一気に体が熱くなった。
「オマエ、イケそうな気がする」
どういう意味なんだそれは――わくわくした気持ちと困惑した気持ちとどうしようもならない男の性を感じながら、仙治郎はそのまま引っ張られていった。




