063「鉄壁の要塞」
赤い色は嫌いじゃないし、好きでもなかった。
でも今はどうだろう。流れていく赤に、どうしてこんなにも興奮をしているのだろうか。好きな色は赤だと今なら自信をもって答えられる。
冷たいのに、あたたかい。妙な充足感に、体中が風呂上がりのようにぽかぽかとあたたかかった。
夢心地である、自分の体も心も現実には存在していなかった。
「……」
赤い月が笑っている。
今しがた自分自身の道を切り拓いたことを祝福してくれているのだ。
当たり前で、当然のこと。
気付かなかった。
人の体がこんなにも、あたたかいなんて。
知らなかった。
人の中身がこんなにも、醜いものだったなんて。
でも、自分は違う。
自分は全ての汚れを払ったのだ。
(私はきれいになれた)
少女は笑っていた。
赤い月のように、満面の笑みを浮かべていた。
「……斗亜……」
透明なアクリル板越し――絶望に沈むその声は、斗亜にはもう聞こえていない。
◇
斗亜のその後について、本物の<紅姫>膠が知ることになったのはニュースだった。
自分を襲った男の居場所を特定して、ナイフでめった刺し挙句バラバラにしたという。斗亜は血の海の中で、斗亜は「きれいになれてよかったです」と供述したと報道されており、マスコミはこの事件の異常性を殊更強調していた。
「イヴとハロウィンがものすごい勢いで謝ってきたから何事かと思ったんだよね」
深紅の着物に身を包んだ膠が言う。
寝台の上、足を左右に外側に向けた、所謂『女の子座り』した膠の後ろには定位置のごとく凛龍がいる。長く白い髪を引っ張らないように慎重に櫛を通していた。
「ああ……なんかすごかったっすね」
「なんでも鍵を手渡すタイミングを誤ったから……って」
『錠前』の役割は、『桜雲館』まで案内すること。しかしきっかけとなる『鍵』は『桜雲館の紅姫』である。イヴは『桜雲館』の存在は示唆したものの、<紅姫>のことまでは言及していなかった。不完全な『鍵』では扉は開かないので、斗亜は結局偽物の<紅姫>のもとへ向かったのである。
斗亜が殺人を犯して捕まった報道がされる少し前、ハロウィンが突然半泣きで部屋にやってきて「ごめんなさい」という謝罪と共に抱き付き、イヴもまた涙を溜めながら「アタシのせいなのよおおっ!」と叫んで、その場で土下座をするというてんやわんや――膠もさすがに面食らってうまく対応ができなかった。
「涼っていうキープ分はあるし、それなりにお腹に溜まる『魂』は持ってきてもらっているから……あんなに気にしなくてもいいのだけれど」
「あまり食べられないのも体に毒ですよ膠君」
会話に割って入ってきたのは、その手にマグカップを持った紅凱だった。マグカップの中身は蜂蜜の入ったホットミルク――膠が夜に必ず飲んでいるものである。栄養面では何の意味にもならない――なので、これもまた金平糖などと同じ嗜好品だった。
膠にマグカップを手渡して、自分は彼女の左横に座る。
「んー……それ狂輔にも言われたんだけれどさあ。欲しいものが全部手に入っている現状、もうほかに対する欲求が薄いんだよね」
「?」
「だってみんながここにいてくれて、こんなに幸せなのに――他に何を求めるの?」
それは無垢な問いかけだった。しかしふたりには抜群の破壊力を持つ爆弾である。揃ってにやけそうになる口元に手を添えた。
膠自身に自覚がないのが厄介だった。同じ恰好をするふたりを不思議に思いながら、膠は紅凱の淹れてきたホットミルクに口をつける。蜂蜜と牛乳特有の甘さがやわらかく融け合ってじんわり体を温めた。
「……本当に仲が良いなお前達は」
そう言うのは煙草を吸って戻ってきた紅錯だった。
彼は三人の内、唯一の喫煙者だった。彼の体から仄かな苦い香りを感じて、すん、と膠は鼻をひくつかせる。
「……匂うか?」
「ううん。紅錯の香りだから好きだよ」
「……そうか」
(さすが動じねえ……)
自分が言われたら身悶える、と凛龍は至って平静な紅錯を見て思った。
紅錯自身は興奮しないわけでもないし、言うなれば今の言葉にかなり気が昂ぶっているものの、表に出すのが下手なので傍目から見るとだいぶ落ち着いているように見えてしまう。故に無感情な男だと思われがちだが彼は相当の激情家である。それが露わにされるのは膠を抱く時くらいなので――基本的に周囲には『冷静沈着なふたりのストッパー』という風に見られていた。
紅錯は膠の右横に足を組んで座る。髪の毛を梳き終わった凛龍が一房持ちあげて口づけた。その行為を目ざとく見つけた紅凱が目を細めた。口に出していないが、文句を言いたげな彼の視線に凛龍は少々勝ち誇ったような表情をする。
紅凱と紅錯は手先が不器用なため、櫛を通すという単純作業であっても膠の髪の毛を引っ掛けてしまう。だから髪の毛を梳くのは主に凛龍の役目だった。
背後で冷戦が繰り広げられているとは知らない膠は「終わった?」と振り返る。凛龍は即時「ええ、完璧です」と表面的な良い子を気取った。
「別に髪の毛梳く必要もないのだけれどね。すぐぐちゃぐちゃになるし」
「主に紅凱のせいっすね」
「はい?」
「お前が膠さんの髪の毛使うからだろうが、変態」
「変態とは随分な言い様ですね、あなたの言い回しだって随分変態ですけど?」
「お前よりマシだ」
「どっちもどっちだよ?」
『え』
膠の冷静な判定に、ふたりの声が揃う。ついでに顔が向くタイミングも同じだった。
なんだかんだでふたりとも仲が良い。相互共に認めることはないけれど。
「しかし弥里の言っていた<紅姫>……一体何が目的でこんなことを」
紅錯が言うと膠が「うぅーん」と唸った。
「お金、ではなさそう。カモにするなら犯罪者にしてしまっては元も子もないもの。檻の中の人間からお金をせしめるのはあんまり効率が良くないね」
「……ああ。だから金銭目的ではなさそうだ」
「じゃあ人の人生を滅茶苦茶にするヘンタイってこと?」
「……さあ」
紅錯は緩く首を振った。
「でも多分斗亜が襲われたのは偶然じゃないね」
「……え?」
「ハロウィンたちから聞いたの。メールで脅されて指示されたって」
「……ほう」
「斗亜が迷い込むように先導した黒幕がいる……でもそれが<紅姫>なのか、<紅姫>のもとへ導くバーの人間なのか――は、わからない」
「……なかなか外道だな」
「そうだね」
斗亜が逃げ込んだ先、SNSは顔が見えない。だから相手が複数人であろうと個人であろうと組織の運営する実在しない人物であろうと判断は出来ない。流されてくる情報の真偽もまた同じである。
けれど斗亜は追い詰められていた。死を考える程の精神状態では正しい情報を選ぶ余裕はなかっただろう。だからこそ、同じ境遇だと思われる人間からのアプローチを心の支えにしてしまった。
「性暴力は心の殺人。死んだ心ではなにもかもが嘘のようで寄り添ってくれる誰かのやさしさは本物に見える。彼女の狂気性を駆り立てたのは間違いなくケダモノたちさ。だから責任を取らせるという意味では彼女の行為は正当だ」
「……」
「――でも、ひとを殺せば人殺し。正しさなんて後付けの価値観にすぎない。彼女は道を外した事実は永遠に消えることはない。己の浄化という目的を達する為に日常を非日常に落としたんだ」
膠が再びホットミルクに口をつける。
白い湖面が揺れた。
「戻ることのできない場所まで堕ちてしまった……あの『魂』は苦くて食べられないね」
ぐい、とマグカップを呷って膠はそれを紅凱に手渡した。紅凱はそれを手にすると膠が飲んだマグカップの口元を一度ぺろりと舐めてから立ち上がった。膠は思わず「……うわ」と口に出してドン引きした。
さすがに気持ち悪かったらしい。
「……膠君……」
「君の変態性は誰の遺伝なの? 狂輔?」
「まさか! 糸目女の遺伝子などこれっぽっちも入ってませんよ! 私は膠君で出来ています、ですからこの行為も膠君の遺伝子を摂取するために必要な行為なのです!」
声を上げて力説する紅凱に、膠は半眼になり、凛龍は顔を引き攣らせ、紅錯は内心「元気なやつだな」と思いながらも無表情だった。
「……まあいいや。とっとと片付けてきて」
「はい、勿論♡」
すぐさまご機嫌に戻った紅凱はそそくさとマグカップを置きに部屋を出て行く。
ふう、と息をついた膠を凛龍が背後から抱き締めた。甘えるように顔を首筋に埋める彼の頭を膠が撫でた。
「どうしたの、凛龍」
「……俺って思春期ずっと悶々としてたんですよ」
「思春期?」
「……身悶えていた、というか」
「それは申し訳ないことをしたね、今更だけれど謝るよ」
「いいっす、別に」
凛龍が膠の体を反転させる。夜空と金の目が向かい合う。
「つうか、そういう意味じゃなくて――俺、結構な年月タマってるんすよね」
「……ああ」
彼の目に宿る凶暴性に気付いて、膠は何が言いたいのかを察する。
要は――もうそろそろ我慢の限界だということ。
「……紅凱が戻る前にし始めるとあいつが怒るぞ」
紅錯が懸念を口にするが、凛龍は「……知らねえ」と拗ねたように返した。膠が凛龍の頬に触れる。鼻先が触れ合うほど近づき、膠は、
「夜は紅凱の特権だから」
と言ってにっこり笑った。
「は!?」
「ふふふっ凛龍ってそういうところ子どもっぽくて可愛いよね。でも大人の約束はちゃんと守らないと」
「えっ、ちょ、膠さん……っ!?」
「良い子の凛龍はちゃんと待っているんだよ」
「……マジかよ……」
「……膠の方が一枚上手だな」
紅錯が僅かに微笑みながら言った。
テレビは毒にも薬にもならぬ情報を垂れ流し続けていて斗亜の学生の頃など、不要な個人情報にまで話を膨らませていた。
過去の『宝石』を集めたとて、今を彩る『輝き』でしかないというのに。
それでも、大衆の関心を煽るには充分だ、彼女の変えたものがなんであったか、同時に性暴力をいかにして失くすか――など、その道の専門家たちが口々に意見を出し合っている。
その様子を膠が振り返って、退屈そうに見つめていた。
「――でもこれでよかったのかもしれないね」
「え?」
「だって、彼女はもうケダモノに襲われる心配をしなくていい。――鉄壁の要塞の中にいるから」
「……ああ」
「ま、俺に出会っていればわざわざ要塞の中に入る必要もなかったのかもしれないけれど」
斗亜の浄化の炎は、全てを燃やし尽くして消えた。その代わり、彼女は手に入れたのだ。失った幸福な日常を。それは夢想に過ぎないのかもしれないが、夢を見るための休息を与えたのはほかでもない<紅姫>である。その手段が悪逆非道であろうと――結果だけ見れば斗亜の物語は、間違いなく大団円であった。
膠が視線を元に戻すと、不服そうな凛龍と目が合った。ただならぬ雰囲気に膠が訊ねる。
「凛龍?」
「……良い子は今この時を以て卒業します」
「おや、ここにもケダモノ……ううん、獣がいた」
からかうように凛龍の鼻先を膠が突くと、彼はその瞬間に『我慢の限界』が来たようで――勢いそのまま矮躯を押し倒した。
首筋に噛み付く獣の頭を撫でながら、膠は満足げに微笑んだ。
もう、テレビの声は聞こえていなかった。




