061「奪われたら」
白を黒く染めるように。
<紅姫>との出会いで、斗亜の日常はがらりと変わった。
ブレスレットを身に着けていると心が落ち着く。ケダモノの目を意識しないで済んだ。守られているという自己暗示に過ぎないのかもしれない。けれど拠り所を得たという意味では、斗亜の今までとは大きく違っていた。
それからというもの、斗亜はなんでも<紅姫>の言う通りにした。
そのための金も必死になって稼いだ。人の目など気にしている暇はなかった。
黒ではない髪の色をした方が魔除けになると言われたので、髪を染めた。
大人しい恰好の方が狙われると言われれば、露出の高い派手な恰好に変えた。
その度に両親や友人から怪訝な顔をされ、「どうしたのか」と訊ねられる。斗亜はそれが鬱陶しかった。日常を取り返そうとしているだけなのに、異様なものを見るような視線に耐えられなかった。
その目はケダモノたちと同じで気持ちが悪い、斗亜は外泊をするようになった。
日常という檻を壊され、無秩序な場所に放り出された斗亜は<紅姫>という楽園を得たのである。
徐々に自分自身を取り戻す感覚があった。
何も気にせず、何かに囚われることもない自由な世界――喜びに、斗亜の心を焦がさんとしていた炎はいつの間にか消えていた。
消えていた、はずだった。
「あれえ? アンタ……あの時の」
三人組の男だった。
若い青年がじろじろと自分の体を舐め回すように見ている。嫌な心地がしたので、斗亜は自分を庇うように一歩後ろに下がった。
大学生くらいだろうか――いずれも髪の毛を染めていてあちこちにピアスが光っている。チャラついているという言葉が似合う浮ついた風貌の男たちである。
「……えっと……?」
「すっげーカッコ! なに? 路線変更ぉ?」
「かわいーじゃん、俺今すぐヤりてえ」
「……ッ!」
その会話と声で、斗亜は殴られたような衝撃を受けた。
はっきりと記憶が呼び起こされる。頭の中の危機を察する赤いランプが今頃になって点灯する。
あの時の、日常を破壊した怪物どもだ、と。
はっとなって斗亜が手首を見る。数珠はきちんとぶら下がっていた。
(なのに……どうして)
斗亜は状況が理解できず、竦む足をなんとか動かして逃亡を図るが――遅かった。
ごく自然に肩を抱かれる。はたから見ればナンパをされている女にしか見えないだろう。横目に四人を見る通行人の目はいたって普通だった。異常を感じている者は誰もいない。
(きれいになって……)
足元から平穏が崩れ去っていく。
斗亜は眩暈を起こしていた。
「っおっと!つれなくすんなよ。そういうカッコするってことは……忘れられないんだろ?」
まるで体中を舐めるような声音に、鳥肌が立った。
都合の良い身勝手な解釈だと頭は分かっているのに、言葉は恐怖で喉をつっかえてなにも出てこない。
三人とも怯える自分を楽しむように会話していた。
「うわ、キッショ。お前キメ顔でロクでもねー」
「はあ? てめえだって同罪だろーが」
思考が停止していた。
逃げたいと思うのに、体は動いてはくれない。
三人ともそれに気を良くして、人気ない路地まで斗亜を引っ張ってきた。逃げようと足に力を込めても慣れないヒールで滑って上手くいかなかった。
奥まった場所にやってくると肩を抱いていたひとりが放り投げるように斗亜を壁際に追い詰めた。
「あの頃より育ったんじゃね? つうかまだ俺たち以外とヤったことねえの?」
「オレもうガマンできね~即刻いれていい?」
「まじ早漏……ちょっとは愉しめよ」
「……い、いや……」
全身が粟立つ。
逃亡しろと喚く本能に逆らって体は動かない。
抵抗しない斗亜に、三人ともにやにや笑っている。
「どうした? ん? ホントーは俺たちに会いたかったんじゃないの?」
「そんなカッコしてさ~超エロイ。俺もうムリ」
「キモイ、マジで」
(怖い。怖い。怖い怖い怖い)
(逃げたい。逃げたい逃げたい今すぐ――逃げないと)
がたがたと震える足は立つこともできず、目の端に涙が滲んだ。
ひとはどうして肝心な時ほど頭が冷静で、反して体は動かぬものなのか。
野生動物なら――この時点で既に死んでいるというのに。
知能を得た故か、或いは心を得た業なのか。
「あれ、泣いてんの? そういうカッコしてるお前が悪いんじゃん」
「そーそー! そんなカッコしてたらさあ? ヤってくださいって誘っているよーなもんじゃね?」
愉快そうなケダモノたちの鳴き声。斗亜は必死に抗うが、全ては後の祭り。
布きれで身を隠す程度では、彼らの劣情を煽るばかりだった。
(どうして……)
(私は……)
抵抗するための力がなかった。
何故力がないのだろうと斗亜は不思議に思った。
――日常は壊されているのだ、だから。
再構築するために力がいる。
(……なんで私……)
考えれば容易に辿り着く答えだったのに。まだ、斗亜の世界は戻って来ていなかった。
戻ってきたと錯覚していたのは斗亜の落ち度だった。
(奪われたら……奪い返さなくちゃ……)
歩むべき道は複数に分かれていたが、その瞬間斗亜の目の前にあったのは一本の道だけだった。
果てない暗黒の海を漂う中で、目印となる灯台を見つけたようなひらめきだった。
(こいつらを……)
武器はない。力もない。
斗亜はあまりにも非力な存在だった。
ソレジャア、イッキマース
脱グノ早スギダロ
待テヨ――俺ガ先ダロ
声は近づき。
事は進んでいき。
しかし斗亜は既に恐ろしいとは思っていなかった。
心に宿るのはただ、憎悪。
憎しみの渦が、斗亜を憮然とその場に留まらせていた。
害獣を、駆除せねば――殺意にぎらつく瞳が、ケダモノの目を捉えた。
(コロサナクチャ……)
そう思った瞬間だった。
「――とぉう!」
真っ暗闇に落ちかけた視界に、何かが迸った。
青白い稲光――斗亜に手を伸ばした男の首筋で断続的に発生していた。
男の体がびくり、と痙攣してそれから横に倒れた。陸に打ちあげられた魚のように、未だにびく、びく、と小刻みに震えている。
突然のことで背後のふたりも動揺し、衣服にかけていた手を止めていた。
「……あ? 赤雷?」
「……う、うぁ……あ……」
「お仕置きだヨ!」
そう言って仁王立ちしているのは――スタンガンを手にしたハロウィンだった。




