060「自分を苛む茨の道」
昨日と同じ道順で、『赤い爪』へ向かう。ボディーガードと目が合わないようにしつつ、斗亜は会員証を見せた。ふたりは無線機でやり取りを行った後、斗亜を中に案内した。
非常に狭い店内にはカウンターだけで、バーテンダーがひとりだけ、斗亜以外に客はいなかった。
「……」
「こんにちは、ようこそ。――『赤い爪』へ」
にこやかに笑う男に、斗亜は悲鳴を漏らしそうになって慌てて飲みこんだ。奥歯が軋むほど強く噛み締めて、一番扉に近い位置に座る。それは何かされたらすぐに逃げられるように、という無意識的な行動だった。
店内にはクラッシク音楽が微かに流れていた。バーテンダーはメニューを取り出した。カクテルの名前も内容も書かれていない。普段バーに立ち寄らない斗亜は迷った挙句、助けを求めるように顔を上げた。
バーテンダーと目が合う。狐のような顔立ちの男だった。
「お悩みですか?」
「……あ……えっと……」
「ご気分でお選びいただけます。たとえば、喜びであればこの赤い色のカクテル『歓喜のしずく』を」
そう言って男はメニューに表記されているカクテルを指差す。
「もし悲しく苦しんでいるのであればこちらの『哀愁の湖』を」
男の指が動くのに合わせ、斗亜の視線も移動する。男は説明を続けた。
「もし、怒りや憎しみなどを抱いていらっしゃるのであればこちらの『憎悪の海』を」
色は真っ黒だった。
製法はわからない、しかし斗亜の心に抱く感情を色で表現するなら、全く同じ色をしたそのカクテルに自然と惹かれていた。
「――これを、ください」
バーテンダーが笑って、「かしこまりました」と言った。
◇
出てきたカクテルはメニューに載っているそのものだった。真っ黒な色、食欲をそそるものではなかったが、斗亜はそれを煽った。口当たりがやさしい、見た目よりもまろやかな味わいだった。
「世間だと怒りや憎悪は悪いモノのように思われがちです」
バーテンダーが話し出す。
斗亜は自然と彼を見た。恐怖はなかった。
「負の感情というのは往々にして否定されやすい。しかし、何故でしょうか? 怒ってはいけないでしょうか? 憎んではいけないでしょうか? 聖人君子になんて誰もなれません。生きている限り、自分を苛む茨の道はどこにでもあるのだから」
「……茨の、道」
「茨の道を歩む者に対しそれを削ぎ落とす刃を持つな、というのはあまりにも酷でしょう。だからこそ、<紅姫>様がいらっしゃるのです」
「……!!」
ぎゅ、と斗亜は自然と拳を握っていた。
眼前にいるのは男なのに――自分を苦しめる仇敵だというのに――斗亜は彼の言うことを素直に聞く気になっていた。普段なら疑うだろうに、何故かすんなりと彼の言葉が心に沁み込んでくる。
それに自分を無遠慮に見てくる目が狐のように思えてもケダモノのそれと重ならないのは、店内の雰囲気か或いはカウンターという隔たりがあるからだろうか。
「べ……<紅姫>……」
「<紅姫>様はどのような願いも否定しません。あなたが思うままをお話になればよいのです」
「……思う、まま……」
「選ばれれば扉は開かれる。――その時をお待ちください」
バーテンダーが金色の鍵を取り出した。古めかしい鍵がこれから起こることを予期しているように、きらりと光った。
斗亜は鍵を見つめて、
(私……これで救われるんだ)
会ったことのない未知の存在に、全幅の信頼を寄せていた。
◇
翌日、斗亜の家に真っ赤な封筒が届いた。母に怪訝な顔をされたがひったくるようにそれを奪って、自室で開封した。中から現れた便箋にはただひとこと――『あなたは選ばれました』と書かれていた。
――選ばれれば扉は開かれる
斗亜の心が歓喜に沸いた。選ばれたという高揚感が身を包んだ。
興奮。それはまるで子どもがプレゼントを貰った時の真っ新な喜びに似ていた。斗亜は同封されているもう一枚の便箋を開いた。地図だった――住所と行き方が簡単に記されている。
「……これで」
喜びに混じる一滴の黒。
憎悪の熾火である。根源を断たねば決して消えることのない炎が、再び燃え上がろうと燻っていた。
◇
そして、冒頭へ――
斗亜から詳細な話を聞いた<紅姫>は終始何も言わなかった。彼女が涙を堪えているのに気付くと<紅姫>は素早く控えの者に指図してハンカチを持ってこさせた。ハンカチもまた真っ赤だった。
斗亜はそれを受け取って目元を押さえた。
狭いブース、赤い布が覆っている空間――真っ赤な視界なのにやけに安心するのは<紅姫>が女だからだろう。危機感を強める必要がない。息をするのが楽だった。
「……すみません」
鼻声で謝罪する斗亜に<紅姫>は首を振った。それから語り掛けるようにゆっくり話し出す。
「良いのです……あなたの心はその非道なる者たちによって汚されてしまった……。許せないことです、復讐を……考えるのも仕方のないこと。警察はあてにはなりません、あれらは法の奴隷に過ぎませんから」
「……」
斗亜はその通りだと思った。
尽力すると言っていたものの、すぐに結果は出なかった。恐怖に駆られた斗亜の半ば錯乱した証言では誰ともわからず、犯行時刻も夜分遅かったせいで、未だ有力な証言も目撃情報も得られていないのが現実だった。恐ろしくてまともに外も出歩けぬ、早くこの地獄から救ってほしい。
その想いが斗亜をここに呼んだ。
「……これを」
唐突に<紅姫>が桐の箱を取り出した。戸惑う斗亜に構わず、彼女は蓋を開ける。
中に入っていたのは赤い数珠の連なったブレスレットだった。
「……これは?」
何の説明もなく出された代物に斗亜が目を白黒させていると<紅姫>がにっこりと笑った。
心配することなど何もない、とでも言うように。
「厄払いの数珠です。――心づけは五万円」
「……え?」
幻想的な雰囲気を打ち消す、現実的な言葉。
思わず斗亜は<紅姫>を見た。
「いくら清くあろうとしても、物欲に支配されればいとも容易く腐ってしまうモノ。汚れていればいるほどケダモノたちはそれを嗅ぎ付けてきますよ」
いいのですか、と<紅姫>はさながら斗亜の一番弱い部分を指の腹でなぞるように言った。
ぞわり、と鳥肌が立つ。
きれいになりたくてここにきているのに、ここで金を出し渋ったら一層汚れてしまう。斗亜のなぞられた心の部分が<紅姫>の言葉をそう解釈した。
慌ててバッグを探り財布を取り出す。なんとか紙幣は五枚揃っていた。叩きつけるように机の上に置くと、<紅姫>は緩やかな仕草でそれを受け取った。
紙幣がテーブルクロスを擦る音が耳をくすぐった。きれいになれる、と斗亜はその音を聞きながら思った。
「これを身に着けておきなさい。そうすれば、ケダモノたちに嗅ぎ付けられることなく平穏な日常を送れます」
(……違う)
燃え上がる炎が指し示す道は日常の挽回だけではない。
斗亜がそう思って<紅姫>を見ると、彼女は見透かすように微笑んだ。
「――焦ってはなりません」
<紅姫>がそっと斗亜の手を包みこんだ。じんわりと体温が重なる。
(あったかい……)
「ケダモノを狩るには、確実な方がいいのです」
歩こうとする道と同じ色をした女の唇が弧を描く。
赤い月が、笑っていた。




