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桜雲館の紅姫【完結】  作者: 可燃性
玖のこと『浄化の炎は灯ったか?』
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058「信頼も信用も」

 乳白色のお湯に身を浸しながら、斗亜は物思いに耽っていた。

 斗亜はひとりっこ。それこそ大切に育てられた一人娘だった。


 姉や妹がいたのなら同じ気持ちを共有できたのかもしれない。

 死にたいなんて考えることもなかったかもしれない。


 あの日からずっと「こうだったら」「ああだったら」と戻りもしない時間について考えることが多くなった。未来への希望はぱったりと途絶え、そこにあるのは絶望だった。

 果てしなく尽きることのない希死念慮――生きているのが、あまりにも不自然だった。


(……)


 ふとした時に考えてしまう。自分が失ったのは単に純潔だけではなく、女という価値そのものではなかったか。それを顔も知らぬ隣人たちに問うたびに共感された。


『あの日以来好きな人ができない』

『ひとのことを好きになれる気がしない』

『みんなが敵に見える』


 確かにそうだと思う。賛同する度に、癒えることのない傷口から血が流れた。


(私はもう……きれいじゃない……)


 男たちに汚された過去は永遠に消えることがない。体中がその時の感触を覚えているのだからタチが悪い。ならばいっそ、酒でも飲まされ酩酊状態になっていた方が楽なのかと言われれば、決してそうではない。


 不幸中の幸いという言葉があるが、この状況においてそのようなものは、ない。

 不幸でしかない、絶望でしかない。何を以ても幸いなことなど何もなかった。


「……」


 だから頼ったのだ――<紅姫>に。

 自分が何故ここにいるのかを思い出して、斗亜は危険を冒してまで街へ出た本来の目的を不意に思い出す。


(会いに……行かなきゃ)


 明日こそは。

 今回は失敗したけれど、もう大丈夫だ――斗亜の根拠のない自信だった。否、そうして自らを鼓舞しなければ歩くことさえできなかった。


(きれいになるためには……そうするしかないもの)


 汚れのない自分を得るために、斗亜は自らの殻を破る。それが最善だと教えてもらったから。

 だが本当に最善だったのだろうか。疑問を抱き、その問いを投げかけるものはここにはいない。

 歩く足を止めることができるのは、――本人だけである。


 ◇


 リビングに戻ると知らない人影がハロウィンの隣に座っていた。

 フリルをふんだんにあしらい、裾や袖のあらゆる場所にレースを縫い取った衣装はまさにドレスと言って相応しい様相だった。俗に言うゴスロリの衣装である。

 ヘッドドレスには控えめな薔薇の装飾がなされていて、真っ直ぐ伸びる黒髪は艶やかで美しい。

 ハロウィンはだいぶはしゃいでいて、身振り手振りを交えて何かを話していた。斗亜はその親し気な空間に立ち入るのに気が引けてリビングに入る扉の前で立ち往生していた。ハロウィンが存在に気付いて手を振った。


「あ!!」

「……?」


 ゆっくりと人影が振り返る。

 黒髪と同様に、相貌もまた、美しい。赤い瞳が宝石のようで、透き通るように真っ白な肌は精巧な陶器人形のようだ。緩やかに微笑み、頭を少しだけ下げた。首元にレースのチョーカーをしている。緻密な刺繍だった。綺麗だな、と目をやって気付く。


(……え?)


 喉が随分と凹凸していた。痩せている女性だとよく血管などが浮いて見えることがあるが、それよりもずっとごつごつと出っ張っている。その特徴は、男性によく見られるものだった。

 あたたまったはずの体が一気に冷えた。


「アワワ、ワワ! しまった! しまってしまったのだ!!」

「うん? どうか、したか?」

豪禅(ごうぜん)、申し訳ないのだ! その子、オトコが苦手なのだ!」

「……え」


 豪禅、と呼ばれた男はハロウィンの説明に戸惑っていた。部屋の出入口は斗亜の立っている場所ひとつだけ。だが斗亜は日に二回も男に遭遇してしまった恐怖で身が竦んでしまい、動けなかった。ハロウィンの知り合いなのだと頭でわかっていても、本能が危機を察知して逃げろと訴えてくる。風呂から上がったばかりだというのに、すっかり体は冷えていた。


「すまない……どうしようか、部屋を移ろうか?」

「いいい一旦、イヴの部屋に行くのだ? 姿を消さねば斗亜が怖がるのだ」

「そう、だな。イヴ?」

『はーい、聞こえていたわよ。ひとまずぜんちゃんはこっちに……』

「――何事じゃ」


 固まっている斗亜の肩に無遠慮に手が乗った。

 弾かれるように何者か確認するとそこにいたのは女だった。それだけなのに、体温が下がっていくのがぴたりと止まった。安心感で、涙腺が緩んだ。


 ざんばら髪に、露出過多な格好をしている。腹は薄くはっきりと六つに割れており、へそにはピアスがされていた。にやりと笑うその姿は魔女のようだった。


「……あ」

「おぉん? ああ、……ぬしかえ? ハロウィンにええことさせたっちゅうんは」

「……いい、こと……」

「わての嫁がぬしになんかしよったか?」

「ち……違う……んです……その……」


 蓋を開けようとすると体が再び冷える。しかし事情を説明しないといけない――斗亜の良心が口をこじ開ける。


「……お、男のひと……苦手、で……」


 それだけを、やっと振り絞るように。

 気分を害するだろうかと懸念したが、女は豪快に笑い飛ばした。


「かっかっか! 男が苦手、か。まあ男っちゃあ、男じゃな。……褥じゃ随分女らしいが」

「か、(かや)……。よしてくれ……」


 明け透けな物言いに豪禅が頬を染める。苦言を呈したのはスマートフォン越しのイヴだった。


『榧……。初対面の乙女相手にセンシティブな会話しないで』

「あーすまんすまん。だからイヴが岩戸隠れしとるんか」


 榧という女は少しの間思案した後、「――豪禅、そういやつまみがねえ。影嗣(かげつぐ)呼んで買ってきやれ」と言った。その言葉に噛みついたのはイヴだった。


『ちょっと! またウチで酒盛りする気なの?』

「ええじゃろが、ここの家賃がどこから出ていると思っとるんじゃ」

『それと酔っぱらっておっぱじめるのは別の話でしょうが! ハロの情操教育上よくないからやめてって言っているのに……』

「知らねえよ」


 イヴの文句を無視して、榧は斗亜の方へ視線を移す。


「顔さえ見なけりゃ大丈夫か?」

「え……」

「客人を気ぃ悪くして帰らせちゃ、ハロウィンの厚意が無駄になるじゃろ。ぬしにゃあいい気分で帰ってほしいんじゃよ」

「……あ……ありがとう、ございます……」


 どうして赤の他人の自分に良くしてくれるのだろう――斗亜は不思議に思いながらも彼らの提案を受け入れた。

 一部始終を見ていた豪禅は立ち上がり、傍らの小さな可愛らしいバッグからスマートフォンを取り出し電話を掛けた。


「ああ……そうだ、済まない。夜中に……ああ」


 短いやりとりを繰り返した後、豪禅は斗亜の方を見る。


「……それじゃあ」


 一言残し、豪禅は部屋を後にした。静まり返ったリビングで口火を切ったのは榧だった。


「さあて。ぬしもちっとは落ち着いたかえ?」

「……あ……はい……」

「こっちの都合で悪ぃが、ちっとばかし野暮用で日本に離れることになっての。明日の早朝すぐに発たねばならねえ。だから引き継ぎ諸々ついでに会いに来たんじゃ」

「……」


 そんな大切な場面を台無しにしてしまった。斗亜は激しい後悔に苛まれた。

 刹那的とはいえ、恩人に対してとんでもない無礼をはたらいたと肩を落とした。


「……あの……」

「うん?」

「……すみません」


 斗亜が謝ると女は一瞬きょとんとしたが、すぐに口を開けて大笑いした。


「かっかっか! なんじゃ、わてが怒っているように見えたか? そりゃあ悪ぃ悪ぃ。誰しも怖ぇもんがある、怖ぇもんがあるのは悪ぃことじゃねえよ。危機を回避するためには必要な能力。ぬしはそれをちゃあんと働かせただけじゃよ」

「……」

「良いも悪いも見た目じゃわからんからの、いい顔した獣なんざいくらでもおる。だからそれでええ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 快活に榧は言って、大股でリビングへ入っていった。


「それにしてもイヴよ」

『なによ』

「ぬしはちっとハロウィンを甘やかしすぎじゃな」

『はあ……? アンタが言うの、それ。アンタの方が十分甘やかしすぎだわよ、どろどろだわ。いつか大事になるくらいの甘やかしね』

「は?」

『……ただの戯言よ、聞き流して』

「ふうん? ……おい」

「えっ?」


 突然話を振られて、斗亜は目を剥いた。

 榧は手をひらひらと振っている。


「ぬしも早う寝ろ、夜更かしは肌に悪いからの」

「斗亜、おやすみなのだ~」

『……おやすみなさい』


 三人に言われて、斗亜はぎこちなくお辞儀をしてその場を後にした。

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