057「怖いものは怖い」
少女に引きずられるようにしてやってきたのは高級マンションだった。ラウンジには煌びやかなシャンデリアが下がっている。
「こっちこっち」
「えっ、え!?」
エレベーターに乗ったところで、少女はやっと斗亜の腕を解放した。そして振り返って満面の笑みを浮かべる。
「ワガハイはハロウィン=ジャック=オ=ランタン! お気軽にハロと呼んでほしいのだ!」
「……は、ハロ……え? 本名?」
「? 本名なのだ」
「……そう」
斗亜はそれ以上、何も言わなかった。
――疲れていた。全力疾走を強制されたせいもあるけれど、それよりも。
先ほどまでの自分の無謀な行動に、心が疲弊していた。
あの一件から斗亜の異性に対する恐怖心は増長されるばかりだった。バーへ向かうことができたのは、一時的に燃え広がった憎悪のおかげだった。炎が消えた今は、どうしてあんな真似をしてしまったのかと、自己嫌悪するばかりだった。
四方八方、それこそどこにでも男は存在している。当たり前だからこそ斗亜にとって外とは野放しにされたケダモノたちがうろつく危険地帯だった。
どんないい顔をしていたとしても、結局は皆その腹の底にどす黒い欲望を秘めているものだ。斗亜だってそれがないわけではない。けれど望まぬ形で露わにされると自分の中にあるものすら厭うようになる。
払拭したい汚れ。生きていれば何重にも体を覆うであろう普遍的な汚れでさえ、今の斗亜には毒だった。
(はやくきれいになりたい……)
漠然と斗亜は思っていた。
「……あの」
「うん?」
ハロウィンと名乗った少女が斗亜を見つめる。その目に宿るのはただ純粋な疑問である。無垢を想起させる澄んだ眼差しだった。
「……れ、連絡を……」
あんなことがあった手前、出かける時も出かける時に帰る時も、斗亜は必ず一報を入れていた。
「あ、そっか。そうだナ、連絡ダイジ! でもとりあえず部屋に入ってからにするのだ」
「……はい」
エレベーターが目的地に到着し、気の抜けた合図を鳴らす。扉が開くと同時に駆け出すハロウィンを小走りに追っていくと、彼女は一番奥の部屋の前で止まった。ずるずると引きずった袖を鍵穴に差し込み、回す。そんな日常的な行動を、斗亜はぼんやりと見ていた。扉が開く。中から誰かが出てきた。
誰だろう、保護者かな、うっすらと靄のかかっている思考がソレを捉えた瞬間、晴れる。
「あら、ハロ。おかえりなさい」
男だった。片目を前髪で覆った身長の高い男である。
ハロウィンと男は親し気だった。親子のようには見えなかった。
「ただいま、イヴ! あのね、ワガハイいい子したのだ!」
「いい子?」
男が斗亜を視界に入れる。目と目が合う。
斗亜は走り出していた。
◇
気が付けば目に眩しい光を放つラウンジに斗亜はいた。
人目を避けるように隅の方のソファに腰をかける。荒い息をなんとか飲み込み、無理矢理整えた。
奇妙に思われただろう、無礼に感じられたかもしれない。でも不可抗力だった。
男だと理解した瞬間に総毛立ち、本能が逃亡せよと訴える。仕方がないと思いつつも、やさしくしてくれたひとの知人にこんな態度を取ってひどいやつだ、と自責の念が生じた。
外を見れば随分暗くなっている。これから帰るのは危険に思えた。しかしここに宿泊できるような手持ちはない。八方塞がりだ、と俯き悶々とした思考に陥ろうとしたその時だった。
「だいじょーぶカ!?」
ハロウィンの声だった。はっとなって顔を上げる。
かちあった目に憤りはなかった。
「え……?」
「ワガハイがタンリョだったのだ、キミはオトコがニガテなのか?」
「……え、あ……ど、どうして……?」
「イヴに言われたのだ……いろいろな理由でオトコがキライなコもいるって……ワガハイ、ワルイ子したのだ……」
「……あ」
しゅんと落ち込むハロウィンを見て斗亜の良心が痛んだ。
この子もいろいろ考えて親切にしてくれたのに、と再び自己嫌悪が鎌首をもたげる。しかしそれを払拭するようにハロウィンは笑った。
「もー遅いから、泊まっていった方がアンゼンだって、イヴが言っていたのだ! だからいやじゃなければ……」
ハロウィンが戸惑いながら訊いてくる。斗亜は彼女を安心させるように笑って、「お願いできますか?」と言った。「もっちろんなのだ!」とハロウィンは大声で言った。
◇
部屋は広かった。ふたりで暮らしているのか、と訊ねると「そうなのだ!」と元気な回答が飛んできた。ハロウィンは底抜けに明るい娘であった。太陽のようだが、ぎらぎらはしておらず、見ていて心がほっこりするような無邪気さがあった。それを見ていると己の穢れを実感してしまい、沈鬱な気持ちになる。だが、暗くなるまいと自分に言い聞かせ、斗亜は促されて座ったソファでハロウィンがお茶を持ってくるのを待っていた。その間、斗亜は自分の鞄からスマートフォンを取り出すと、簡単にメッセージを打ち込んだ。
『友だちの家に泊まってくる』
すぐに既読のマークがついた。
『だいじょうぶなの?』
母の気遣いは当然だった。今の今までずっと引きこもりだった斗亜が突然外泊とは、場合によっては自棄になってしまって――と思われるかもしれない。
もしハロウィンの厚意を断って、また別の悪意ある異性に声を掛けられでもしたらどうなっていたか、想像するだけでぞっとする。
スマートフォンを握る手に僅かに力が入る。それから母に返信した。
『平気よ。女の子だから』
それだけ素早く打って、斗亜はスマートフォンを隠すようにしまった。
ハロウィンがコップが乗った銀色のトレイを持って戻ってきた。コップに入っているのはジュースだろうか、琥珀色の液体からはほんのりリンゴの香りがした。
「斗亜はりんご、へーきカ?」
「うん、平気。ありがと、ハロ」
「お安い御用なのだ!」
どん、と胸を叩いてハロウィンが言う。自己紹介はエレベーターで済ませてきた。斗亜の名を聞いたハロウィンは「昔聞いたことのある名前なのだ」と懐かしそうに言っていた。
手渡されたコップに斗亜は口をつけた。爽やかなリンゴの風味が鼻を抜けていく。リンゴをそのままかじったような濃厚さだった。
「……美味しい」
思わず口をついた感想に聞いたハロウィンが微笑んだ。
「よかったのだ」
ハロウィンもごくごくと軽快にリンゴジュースを嚥下していく。
飲み終わってからふとハロウィンがスマートフォンをいじっているのに気付く。誰かと連絡を取り合っているのだろう、と気にしなかった。
『――聞こえているかしら?』
あの男の声だった。斗亜の心臓が跳ね上がる。きょろきょろと周りを見回すが、男の姿はなかった。
「これだヨ」
ハロウィンが画面を見せる。画面には通話マークだけがあって、誰も表示されていなかった。
「……あ」
『声だけなら平気? 声でも駄目なら言って頂戴ね、遠慮しなくていいわ』
気遣うような台詞だった。やさしいひとだ――斗亜は、一旦男への憎悪をしまうことにして、やや緊張しながら答えた。
「……い、いえ。……声だけなら、なんとか」
『そう、よかったわ。――さっきは怖がらせてしまってごめんなさい、アタシはイヴよ。イヴ=ナイトメア』
「……イヴ、さん」
『ハロとは恋人同士なの。やむを得ない接触をすることがあると思うわ。そういうときは逃げてくれていいわよ』
「えっ」
『怖いものは、怖くていいの。それが生存本能だから』
「……」
『あと、あなたがここにいることで被る不利益なんてないからね。寧ろお礼を言いたいくらいね』
「え? お礼、ですか……?」
『――ハロをいい子にしてくれてありがとう。その子、他人にいいことをするのが好きなの』
「!」
斗亜は思わず画面を見せているハロウィンに視線を向けた。彼女はにこにこと笑っていて嬉しそうだった。見ているこちらも幸福にするくらいに。
『何かあったらハロに言って。アタシは部屋から出ないようにするから』
「……すみません」
『謝ることなんてなにもないわ。……ハロ』
「はあい」
『お風呂沸かしてあげなさい。アタシは最後に入るから、なんならふたり一緒に入ってもいいわよ』
「えっ!?」
思わぬ提案に斗亜は素っ頓狂な声を出して驚いた。
見知らぬ他人と――裸で?
そう考えた瞬間、湯けむりの白がおぞましい白濁に変わった。全身が震え始める。
「え、あ、斗亜!? どうしたのだ!?」
『どうしたの!? 大丈夫!?』
ハロウィンがスマートフォンを放り投げて青褪めた斗亜に駆け寄る。イヴも心配しているようだった。
『ハロ、背中をさすってあげて』
「斗亜? だいじょーぶ?」
「……わ、わたし……」
ひゅ、と呼吸が詰まった。
『ひどい暴力を受けた』
文章にすれば一行で終わる事実。けれどその内情に踏み込めば、凄惨な現実が待っている。言葉にすることは、心の蓋を開けることだった。字の通り、『呪文』だった。
記憶が呼び戻され、生々しい感覚が体を覆う。足を割られて貫かれる感覚、肉に埋められていく男の欲望、嘲笑う声、下卑た言葉たち――蘇った黒い汚れが斗亜の首を強く締めた。
「……っは、あ……あ……」
息がうまく吸えなかった。コップが手から滑り落ちて、絨毯の上に転がった。染みを作るのを見ながらも呼吸ができずに謝ることもできなかった。
「は、……ッ、は……っ、うぅ……」
『ゆっくり、深く……息をするのよ。ハロ』
「あい。……斗亜」
ハロウィンがイヴの声に従って、背中をさすった。斗亜はなんとか息を整え、大きく息を吸って吐きだす。何回か深呼吸を繰り返すと、視界にハロウィンの鮮やかなツートンカラーの髪を捉えられる程度には落ち着いていた。
落ちたコップを拾おうとしたが、脇からハロウィンが手を伸ばした。覗き込む形で、彼女が斗亜を見上げる。
『――ごめんなさい、変なことを言ったわね』
イヴが謝る。斗亜は声を出せず、ただ首を振った。
「……ご、ごめ……なさ……」
『いいの。アタシの配慮が足りなかったわ……相当、怖い思いをしたのね』
「……っ」
鼻の奥がつんと痛む。視界が涙で滲んだ。
「……ごめんなさい」
「斗亜、謝らなくていいのだ。斗亜はなにも悪くない。斗亜をそんな風にしたやつが全部悪いのだ」
『そう。……でも、簡単に拭える傷ではないのでしょう? 詳しくは聞かないわ、それよりもお風呂に入ってあったまるといいわよ。――ハロ』
「あい! お風呂沸かしてくるのだ。斗亜はソファでゆっくりしているといいのだ、ジュータンはワガハイに任せるのだ」
やさしいふたりの気遣いに、斗亜は首を縦に動かすので精一杯だった。




