056「なんで」
その日は本当に普通の日だった。
イベント行事はなにもない、単なる日常の延長線上。
だからなのかもしれない。自分の後ろを付きまとう影が、すぐそこまで迫っていることに気付くことができなかったのは。
◇
――メッチャヨカッタワー
――ジャアナ
――アトシマツ、ヨロシクー
口々に言葉を放って、彼らはその場を立ち去った。
後に残ったのは自分だった。好き放題に汚された自分――人という尊厳を、女という生命を、ことごとく貶め、辱められた自分だけ。
立ち上がるまでに何度も足を滑らせた。力が入らない。じんじんと訴えてくる痛みの在処を探って自分が何をされたのかを嫌でも理解した。ぼたぼたと容赦なく流れてくる白い液体に、絶望が深くなる。
本来であれば子を育むため、愛しい人と交わす行為――それを、快楽を求めるケダモノたちに貪られ、奪われた。
意識ははっきりしているのが忌々しかった。いっそ人形のように自我が壊れてくれれば、と願った。
嫌だ嫌だと叫ぶ己を、ケダモノたちは笑っていた。引き剥がされ布きれにされた衣服を抱えてひとり膝を抱えた。
何をされたのか思い出すだけで寒気がして、吐き気が込み上げてくる。口に押し込まれた異臭がまだ取れない。全身が痛い、掌にまだあの感触が残っている。
「……なんで?」
姶良斗亜はその日、最悪の形で純潔を失った。
◇
三人の悪魔は忌々しいことに覆面を被っていた。しかも暗がり、そして恐怖と屈辱でまともに惨状を理解できなかった、曖昧な斗亜の証言だけでは犯人は突き止められなかった。あらゆることを聞き出されるたび、心が引き攣った痛みを訴える。当時の詳細なんて聞かれたところで、とっくの昔に化膿してぐちゃぐちゃになった傷口が更に広がるだけで、何を話す気もなれなかった。
誰もが敵に見える、警察官ですらその根底でどす黒く気持ちの悪い欲情を抱えているのかと思うとぞっとした。
――もう思い出したくもない、全てなかったことにしたい。
何度も自殺を試みた。だが両親がその都度止めにかかるので、全て失敗に終わった。両親にとっては肝を冷やす事態、斗亜にとっては絶望的な帰結だった。
死にたいのに、死なせてくれない両親を心の隅で何度も呪った。感情の浪費だとわかっていても止められなかった。こびりついた記憶に蝕まれ、生命の息吹など枯れ果てた斗亜にとって今の自分は生きていても無意味だった。
しかし、生かされ続けた。
「と、斗亜、お願いだからっ、生きて、生きてちょうだいっ」
母が懇願する度、父が苦悩の表情のまま涙をにじませた。
斗亜の世界は真っ暗だった。途方もない暗闇に一筋の光だって見つけられない。
そんな時、斗亜が見つけたのは電子の世界――SNSだった。今やなくてはならぬ存在となった電子機器、それらを介することで見えてくるもうひとつの世界。
斗亜はそこで、同じ境遇に陥り絶望する『隣人』たちを見つけた。
『死んでほしい』
『だれもしんじられない』
『許さない』
綴られる怨嗟に、斗亜は強く共感し、ひとりぼっちではないと感じた。
孤独というのは共感に打ち消される脆い概念でもある。彼女の想いと誰かの想いが重なった時、それはもう孤独ではない。
少なくとも斗亜はそうだった。それから彼女は同じような心に寄り添ってくれる投稿をいくつも閲覧した。その度心に生きる渇望に似た、鮮烈な感情を覚えた。
――憎悪である。
幾重にも怨嗟が重なる度、どうしてこんなことをしている人間の方が生きているのだろう、と。
罪を正当に償えば表に出てくることができるなんて、不条理だ、と。
自分たちの人生を滅茶苦茶にしておいて、罪を償ったからなんだという。
誰の心も救わぬ贖罪などないのと同じだった。一度死んだ斗亜の心は生き返らない。それだけのことをしているのに、法のもとで彼らは無罪放免になる。
(あいつらは一生苦しみ続ければいいんだ)
(一生、一生涯……この呪いに苛まれて)
――許さない
斗亜は呪い続け、気付かぬうちその領域に足を踏み入れていた。
人を呪わば穴二つ。
一線超えれば戻れることはできない鬼の領域へ。
◇
斗亜が<紅姫>の話を聞いたのはSNSで知り会った友人からだった。望めばなんでも叶えてくれるという赤い女――テレビ番組にも出ている有名人だという。
『本当なの?』
『どうやら本当っぽいよ、あたしの友だちにも叶えてもらったヒトいるし』
『私、実際に叶えてもらったよ。かなりの出費になったけどマジだった』
疑問を抱く斗亜の投稿に、次々と返信が連なった。
彼女たちのことを信用していた斗亜は、あれよあれよという間に赤い女へ会いに行くことに決めていた。その精神状態が正常だったか、異常だったか。この時既に、斗亜は線の向こう側にいたのかもしれない。しかし踏み越えていることに彼女は気付けなかった。酩酊状態の彼女を踏み留めるものはなにもなかった。
赤い女に会うためには、都内のバーへ行くことが必須。そこで鍵が受け取り、更に選ばれると封筒が届くというのが一連の流れだという。
その話を聞いた斗亜は出かけなければいけない点に気が引け、一瞬尻込みもした。しかし、
(でも……それで今までの生活を取り戻すことが出来るのなら)
意を決して斗亜は教えられた場所、バー『赤い爪』に出向くことにした。
何本か電車を乗り継ぎ、ネオンサインが艶やかに彩る街に降り立つ。誘う目つきで店先に立つ女や男を見ないようにしながら、斗亜は目印の店を見つけ、その間隙に入った。
そこは会員制のバーだ。会費は月20万、初回は無料とのことだった。しかし鍵を受け取るためひいては<紅姫>との邂逅にバーへ行くことは絶対だった。だから結局、会費は払わなければならない。
給料と相違ない額に躊躇いはしたものの、斗亜の友人たちは『自分の望みが叶うなら安いものじゃない?』と背中を押した。
斗亜はその言葉を信じて疑わなかった。
日々のやりくりでなんとか貯めた20万――それらすべてを望みの存続がために使う。
全てが普通で何の変化もなく幸せだった毎日に身を置いていた頃なら、タチの悪い宗教か何かに騙されていると思うだろう。
しかしかつての日常は破壊された。跡形もなくなったその日常を取り戻すためなら、確かに破格の値段であろう。
サイトから会員登録をすると郵送で会員証が届く。それを携え、斗亜はバーへ辿り着いた。入り組んだ路地を進んだ先にひっそりと佇むバー。名前の通り赤い爪が看板を握っていた。扉の前には男がふたり並んで立っている。
(……!!)
――突然、足がぶるぶると震えた。
行かなければならないと理性が訴えるのに、本能が危険を察知して体を留めた。
ボディーガードのふたりは、男だった。男という性質を伴って存在する生物。
その事実に斗亜は恐怖を覚えていた。ふたりともこちらを見ていない。その目で認識されたら――どうなるのだろう。
気が付けば斗亜は踵を返して雑踏の中を走っていた。
(怖い怖い怖いこわい)
込み上げてきた恐怖に蓋ができなかった。我に返って周囲にいる人間全てが自分を襲う気でいるのではないかと妄想が肥大した。ぎらついた目の全てが自分に注がれているように思えた。
「あっ」
つまづいて派手に倒れた。手をつきそこねて、膝を硬いコンクリートに打ち付けた。じんじんと熱を含んだ痛みに斗亜は現実を思い知った。
(あの時も……)
光景が重なる。
ぶれる。
再現される。
誰もが自分を――
「い……いや……」
斗亜の世界が様相を変えた。見ている全てが黒い欲望に覆われた。
フラッシュバック――記憶がほんの些細なきっかけで蘇る現象。今まさに自らの足から流れ出る血液の赤を見て、斗亜のその時のことを鮮明に思い出していた。
(……やめて!!)
体を抱き、下を向く。
誰かの目を見るのももう恐ろしい。倒れて立ち上がることもできず、蹲る自分を通り過ぎるひとびとがどう思うかなんて脳裏をかすめるが、それ以上思考を深める余裕はなかった。斗亜はただ自らを必死に守った。
綱渡りの日常。
少しでも足を踏み外せば、真っ逆さまに闇の中。
斗亜は知らなかったのだ。
闇というものは、いつだってすぐ傍で大口を開けて待っているということを。
無知というのは時に残酷で、知らぬというだけで平気な顔をしてひとの心を踏みにじる。
「いや……いや……っ」
あの時の斗亜は露出の高い恰好をしていたわけではなかった。仕事帰りでスーツだった。
胸だって大きいわけでもない、肉付きだってよかったわけじゃない。
斗亜は知らなかったのだ。
――ケダモノは餌を選ばない。強いて言えば屈服しやすい弱者を狡猾に狙う。
斗亜は理不尽にその獲物の特徴に合致しただけ。
ただ、それだけ。
(……いや……)
寒い季節でもないのに、体の震えは止まらなかった。
誰かが手を差し出したとて、異性であれ同性であれ斗亜は悲鳴を上げる。
それだけ心の均衡は崩れていた。
「――だいじょーぶカ?」
と、鈴の音の転がすような声をかけられた。
恐る恐る顔を上げて目に入ったのは、鮮やかなオレンジとグリーンのツートンカラーだった。
きらきらと宝石を散らしたような輝きに満ちた瞳が、自分を見つめている。
少女だった。年のころはわからない、しかし斗亜より明らかに年下に見えた。
「……あ……え……?」
「うわわっ、ヒザから血が出ているヨ!? だいじょーぶじゃないネ!?」
少女は慌てて自身が提げていたポーチから絆創膏を取り出した。彼女は「消毒が先カ!?」などと慌てながらも、てきぱきと斗亜の傷に手当を施した。
不思議な格好だな、と斗亜は手当てをされながら思った。胴体をすっぽりと覆うツギハギ柄のワンピース、足元はスニーカー、肩掛けポーチはデフォルメされたオバケの形をしていた。
「はい、オワリ! ワガハイの見立てではけいしょーなのだ!」
少女は腰に手を当てて誇らしげに治療の完了を宣言した。
「……あ……、あの……私……」
「気にしないデ! ワガハイ、たくさんケガするからイヴに持たされるのだ」
「……ありがとう……」
少女のやさしさに斗亜は泣きそうになった。
こんなところで一体自分は何をやっているのだろう。しかも自分よりも幼い子の世話になるなんて。
急に恥ずかしくなった斗亜は立ち去ろうとしたが、少女が腕を掴み斗亜を引き留めた。
「えっ……? な、なに……?」
「痛いの、ヒザだけカ?」
「……え?」
言葉の意味がわからず、斗亜はただ少女を見返す。少女は斗亜を凝視し、何かを考えているようだった。
「……うーん」
「……な、なに?」
「ワガハイ、いい子していいカ」
「? なんて?」
「いい子する! 暗いしアブナイ!」
「えっ……!?」
言うが早いか、少女は斗亜の腕を引っ張って走り出した。
 




