053「ばいばい」
ナイフの刃は届かなかった。それよりも先に香織は床に押し付けられていた。
押し付けている人物には見覚えがある――紅錯だった。赤と金の瞳が無感情に香織を見つめている。
「……あ、あんた、<紅姫>の――」
「やあ、鈴香」
声に驚いて振り返ると、開いた扉に<紅姫>とふたりの男、そして文美と七葉が立っていた。七葉の存命に鈴香は更に驚愕する。
「え……!?」
「刺し所が悪かったんじゃない? もう少しちゃんと狙いなよ」
嘘をつく<紅姫>に文美が何か言いかけたが、彼女を腕に収めている紅凱に強く睨まれて口を噤んだ。鈴香が絶句し動揺しているところに、香織の罵声が響く。
「っすずかぁっ! おまえ、っやっぱり、おまえっがぁ!!」
「……ママ?」
「おまえ……よくもぉ、わたしからぁっ、! 二度もぉ!!」
「……え?」
「あきはる、っさん、まで! たぶらかっしてぇえ!!」
「な……?」
母の言うことが、わからなかった。手足を滅茶苦茶に動かして暴れる彼女を、紅錯は腕の一本だけで押さえていた。
「鈴香、なんだっけ。君、何のために『魂』を使うのだっけ?」
「……え?」
「お母さんを救うため、だっけ?」
「……そ、そうよ。こうなったママと一緒に消えるの」
「えっ!?」
鈴香の解答に、七葉が目を剥く。
「すず……そんなっ!」
「ムリなのっ!」
鈴香が首を振る。
「ムリよっだって! 本條のこと、あたしずっと――ななっちのせいだって思っちゃうもん! ママの味方であるためにはななっちを……ななっちのせいにしないと……!」
「……すず、あんた」
文美が紡ぐ言葉に迷ってそれだけ言った。
母の味方であるためには、本條を殺した七葉を悪とするほかない――きっと母もそう思うから。香織の陣営で生きる以上、自分の立場は七葉の敵である。
だからこそ、七葉を憎む心を鈴香は捨てきれなかったし、さりとて大事な人を、憎み続ける苦しみにも耐えられなかった。
だから全部なかったことに、全てが消えてしまえば万事解決だと、そう思った。
「……すず……」
七葉がかける言葉を失う。
困惑が満ちるその場で<紅姫>がふああ、と欠伸をした。
「――それで、どうするの?」
ひどくつまらなそうに<紅姫>が問う。それは鈴香への問いでもあり、文美と七葉への問いでもあった。
言い合いをしたところで、結論は出てこない。誰もが互いを大切に想っている以上事態は前へは進まない。それでも、決断は強いられている。
「お母さんと消える? 可能だけれどその場合――君はふたりに忘れられるまで彷徨い続けることになるよ。ひとり消すのにはひとりぶん、ふたりならもうひとり必要」
「……ママの『魂』があるでしょう」
「彼女の『魂』を消すのにどうやって使うのさ?」
「は?」
「は? って。『魂』は対価なんだから、消すという望みを叶えるためなら使えないよ? ――君の望みは誰かに望んでもらうしかない」
「……っなによそれ、ふざけんじゃないわよ!!あんたそんな一言も――」
鈴香が叫ぶ。
「少しは頭使って考えろ、小娘」
と<紅姫>の声が駒鳥の囀りが、にわかに鋭くなる。纏う雰囲気ががらりと変わった。
「俺はお前たちのことなんかどうも思っちゃいない。俺のことは信頼するな――信用しろ。『魂』さえくれればなんでも叶えてやる――死んだ人間を生き還すこと以外はな」
「……っ」
「お前たちの『魂』分で俺は何を叶えりゃいい? 教えてくれよ」
「……あたしの『魂』……で」
「お前の『魂』で?」
「……ママ、を……」
「お前の母親を?」
「……」
消して。
言いたいのに言えなかった。出掛けて行く母に「行かないで」と言えなかったあの時のように、喉につかえて吐き出せない。
母と共に消えられるなら――どんなに幸福だろう。変わり果てた母でも、鈴香にとっては唯一だ。
それこそ神様のように。
香織はどんなに邪険にしても鈴香を家から追い出すことはしなかった。頼りにしてくれていた、たとえ金を稼ぐ道具としての価値だったとしても。香織にとって鈴香は娘のままでいられた。
「……ママ……」
「うぅ、ぅぅうぅうう」
獣のように唸る香織。歯をむき出しにして口の端から泡を噴き出している。がりがりと指先から血を流しながらもがく彼女を、一体誰かが愛せるのだろう。
(あたししか、いない)
結局鈴香の天秤は大きく傾いた。
真っ直ぐ<紅姫>を見る。
「……あたしの『魂』でふーちゃんの記憶からななっちを消して」
「……!!」
「ちょっと、すず……!?」
焦る文美と言葉を失う七葉。
七葉にとってふたりは存在の礎である。無論、文美と鈴香以外にも友人はいる。
けれど、同じ友人でも仲の良さというのは違う。七葉にとって自身が苦しんだ秘密を唯一共有できた友だちだ、失えば大打撃であることは間違いない。
「あたしもななっちを忘れる。……そしたらななっち、あたしのこと、恨んでくれる?」
「……そ、そんな……そんなこと……できないよ……」
「なんで? ひどいことしているのに? まだななっちはあたしのこと好きでいてくれるの?」
「だ……だって……」
七葉に好きでいてもらうよりも恨んでもらった方が、鈴香にとっては都合がいい。
だってそうすれば心置きなく七葉のことを――嫌うことができるから。
「……む、無理だよ……そんな、すずを嫌う、なんて……」
「へえ、ななっちはやさしいだね。――これでも?」
――ヒュッ
何かが横切り、銀色が閃く。紅凱が身を翻して避け、後ろで控えていた凛龍が素早く庇うように前に出た。
「――ッ!!」
赤い液体が部屋の灰色の床を汚した。文美が脇腹を押さえて蹲っている。
「っ! ふーちゃんっ!?」
「……ッう……すず……あんた……」
「――ねえ、これで嫌いになってくれる?」
「……すず……」
「……ばか、じゃないの……!」
かなり深く切りつけたらしい、腹を押さえている文美の指の間からぼたぼたと血が垂れていた。
「ばか? ばかはふーちゃんたちじゃない……なんでここにいるの?」
「……あんたが……ッ、馬鹿な事、言うから……じゃない……ッ」
「馬鹿な事?」
「殺すかも……、っなんて……馬鹿なこと……!!」
「――ああ、そうだった」
鈴香の目が七葉を捉えた。七葉が身を震わせる。
蛇に睨まれた蛙のごとく、とはまさにこのことである。
「殺し損ねちゃった……殺さないと。――ママの敵だから」
「……っ、す、すずっ! 私、!」
「――死んでくれる?ななっち?」
逆手に血のついたナイフを握り、それを掲げた。
「ひっ――」
「……じゃあね、――楽しかった」
「や、やめ……すず……っやめて……!」
「……っ!」
下唇を噛んで鈴香はそれを振り下ろした。――その時だった。
「――<紅姫>っ私の『魂』で! 願い事叶えて!!」
文美の声だった。鈴香の行動が寸前で止まる。
「――あいつを、あの女を……っ、消して!!」
「……!!」
指をさす先にいるのは勿論――香織だった。
紅凱に抱えられている<紅姫>がにやり、と笑った。
「へえ? いいの? 君の『魂』でそんなことを叶えてしまって」
「いいわよっ! ここですずを失うよりずっとマシだわ!」
「良く考えた?」
「うるさいっ、考えた!!」
「本当に?」
「本当よ!! あの女さえいなければすずは……すずは苦しまなくて済むのだもの!!」
「……ふうん」
「――だめっやめて、叶えないで!!」
割って入ってきたのは鈴香だった。
「だったら――だったら、あたしの『魂』であたしも消してよ!! そうすれば」
「何馬鹿言ってんの、あんたが消えたら意味ない!」
「うるさい、ふーちゃんは黙ってて!!」
「黙らないっ!」
「――ふたりとも、やめてっ!!」
口論になるふたりを七葉が立ち上がって叫んだ。文美の腹から猶も血が流れている。心なしか文美の顔は白くなっていた。争ったせいで息も荒い――一刻を争う事態だった。
「やめてよ……お願いだから……」
「なな……」
「ななっち……」
ふたりとも呆然と泣き出しそうな七葉を見遣った。
「……ふたりともいなくなっちゃったら私どうすればいいのかわかんない……大切なふたりなの……私にとっては命なんだよ……」
「……」
「……」
七葉が<紅姫>を見つめた。夜空は冷たい輝きを放つばかり――誰にも同情していなかった。
「……ねえ、膠」
「――なあに」
「……あなたは本当にこれでいいと思っているの?」
「うん?」
「……あなただって、三人とも選べないから全部大切にしたんでしょう?」
「……」
「大切って……特別ってたったひとつじゃないって膠が言っていたじゃない……だったらすずがお母さんを大切で私たちも大切だって思う気持ちはわかるんでしょう? 選べないってもどかしい気持ち、わかるんでしょう? ねえ、だったら――」
静寂。そして、
「――あはははははっ」
<紅姫>膠がおかしそうに笑った。無邪気な子どもの笑顔だった。
何がおかしいのかわからず、目を丸くしている七葉に彼女は言う。
「はは……っ七葉って……本当に面白いね?」
「えっ?」
「だって俺の情に訴えかけてくるなんて――やっぱり、俺の格好を見て寒くないって聞いただけあるよ、センスがある」
「膠、私は……」
「俺はね、君が思うよりもずぅっと、薄情だよ」
「……え?」
「君たちにとって俺がどんな存在かはわからないけれど――俺にとって君たちは決まっているんだ」
「……決まって……いる?」
「うん――君たちは、単なる『餌』であり盤上の駒なんだよ」
「は?え?……『餌』……駒……?」
「うん」
膠の表情は至って普通だ。何ら変わりない――それが、七葉にはひどく恐ろしく思えた。
「君たちの価値はそれ以外に存在しない。だから俺から同情を買おうとしても無駄だし無意味だし時間の浪費だからやめた方がいいよ」
「……うそ、うそ……だよね?」
「なんで?」
「だって――あんなにやさしく……してくれたじゃない……あれも……」
「駒が壊れてしまわないように、『餌』が腐らないように、丁寧に扱っただけだよ。防腐処理みたいなもの」
「……っ!!」
七葉がショックを受ける背後で、文美の顔から段々と血の気が引いていた。危うい生命の天秤がゆらゆらと揺れる文美に、鈴香も動揺してうまく行動が起こせなかった。自分がしてしまったことの重大さを、今更になって噛み締めている。――七葉が仲裁に入ったおかげで冷静になってしまったのだ。
狂気に駆られていればそんなことも思わなかっただろうに。
(……殺さないと……)
しかし、体は動かない。動け動けというのに反して鉛のように重かった。
「……そいつ、死ぬぞ」
言ったのは膠を庇う凛龍だった。顎で指し示す先は文美――七葉は慌てて駆け寄った。
「ふ、ふーちゃん!」
「……っ、はぁ……あ……やっ、ぱ……『悪魔』……」
額に脂汗をかきながら、荒い息の合間に文美は膠を罵った。
膠は笑ったままである。
「お好きにどうぞ」
「……いい、から……っ私の……願いを……」
「願いじゃなくて――望みね。欲望を、俺は叶えてあげている」
「な、なんでも……っ、いい……っつうの……っ!! 私の……欲望、は……っふたり、が……平穏……ぶ、じで……いること……! だから……!!」
「だから? どうするの?」
「あの……っ、女を……!!」
「彼女を?」
「……消し……っ!!」
(やば……視界が……!)
多量の血を流しているせいで、意識が朦朧としていた。
一瞬の出来事で身を守ることもできず、文美は鈴香の刃を受けた。かなり深く――傷つけられているのが文美にはわかっていた。
「なあに? 消すの?」
「け……し……って……」
「いいの?」
「……い、いい……って……」
「やめてっだめ! だめだってば!!」
「すず……っあんたぁ……!!」
「――まとめてくれない?」
膠がほんの少し苛立った声を上げた。
「ねえ、いい加減にして。誰が望みを叶えるの? ねえ、どうしたいの? 鈴香もはっきりしてくれる?」
「……っ、わ、たしは……きまって……っ」
「あ、あたし……は」
「言わないなら文美の方を叶えるよ」
「ま、待って――あたしは……!!」
「なあに?」
「あ、あたし……あたしは……」
続きが言えない。
言葉がつかえる。
そうしているうちに――判決が下された。
「――ゲームオーバー、時間切れ」
膠がそう言って、唸り続けている獣を見据えた。
「文美の望みを叶えてあげる」
「ま、――っ!」
「大丈夫だよ、君も消えるから」
「……え?」
どういう意味だ、と問う前に行動は実行される。
「<契りは交わされた>」
文美の胸から淡い光を放つ球体が解き放たれ、膠の口元へ近づく。それをすっかり口に含むと、栗鼠のように頬袋を動かし、大袈裟に嚥下した。
「――<汝の『魂』を以て望みを叶えよう>」
「ああ、今回は私の役目でございますね」
ゆるりと微笑み、紅凱は腕の中の膠を凛龍に託した。彼は懐から懐中時計を取り出す。空中にそれを放り投げ、彼が唱えた。
「<第弐結界>紅凱。<紅姫>がため、彼の者の尊厳を略奪す」
放った懐中時計が巨大化し、天井にへばりつく。盤面の針がぐるぐると回転し始めると、その場の空気が一気に渦を巻いた。竜巻の中心にいるような激しい風に文美も七葉も鈴香も――自分を守るのに精一杯だった。視界が奪われ、何も見えなくなる。
「こ、膠――!」
風の中、文美が膠を呼んだ。
「鈴香と香織は一体なんだったけ」
「え?」
「親子って、どういう繋がりか――わかる?」
「……そっれ……どういう……!!」
「本当に親も子も、になっちゃったね」
「……はっ……?」
「ばいばい――鈴香。君は結構役に立つ駒だったよ」
膠は文美には答えず、鈴香に別れを告げた。
文美の意識が――風の中で、途切れた。




