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桜雲館の紅姫【完結】  作者: 可燃性
捌のこと『分かり合えない三人のモノローグ』
52/134

052「大好き」

 これで母が救われるかどうか――正直鈴香にはわからなかった。けれど、七葉に対する憎しみを癒すことはできるだろうと思った。

 母親はいつか本條の死を知るだろう。そして本條のことを徹底的に調べて――七葉のことに行きつくかもしれない。そうしたら母がどんな行動をするかわからない。もしかしたら――、と思うと鈴香のするべきことは決まっていた。

 大好きな母が大切な友人に手を掛ける姿は見たくなかった。だから、代わりに鈴香が手を下した。


(……<紅姫>が教えてくれたのは……)


『魂』の使い道を決めた、と<紅姫>に告げると彼女はただ一言興味もなさそうに「ふうん」と言った。彼女は元より『魂』以外での人間への思い入れはないという。特別――面白いことがなければ。


「……あんたってまるで悪魔ね」

「一応『悪魔』は自称しているよ」

「……お似合いだわ」


 にっこりと――それこそ悪魔のように、<紅姫>は笑っていた。


「俺を『悪魔』にするも『天使』にするも――君たち次第さ。ああ、神さまはやめてね? 嫌いなんだ」

「……あんたが神さまとかジョーダンでしょ」


 皮肉を言って『桜雲館』を後にして――。


(まだ……残っている)


 友だちを刺した感覚。あたたかな体温。安心しきった顔が、絶望に歪む瞬間。

 何かもが鮮明に鈴香の掌に、体に、頭に残っている。


(……罰だ)


 全ては母のためと言い訳して行った自分勝手な行為。母はもう喜んでくれるわけもなかった。母を『女』にした本條だけが――悦びを与えることができる。それでも鈴香は母を憎むことができなかった。


(ママの味方は私だけだもん)


 鈴香の稼ぐ金を全て使い切ることがほとんどだった母は、金の無心に余念がなくなった。そんな彼女を親戚たちは蔑んだ。最初こそ情けの気持ちをあったろうが段々とむしり取るようになったのに、縁を切る者が増えた。

 今はもう誰一人として母の香織と連絡を取っているものはいない。あれだけ鈴香を心配し様々に支援してくれていた義実家ですら、もう顔も見たくないと言う始末だった。


 ――ごめんね、鈴香ちゃん

 ――もう、彰治(あきはる)の愛した香織さんではないのよ


 義母――鈴香にとっては父方の祖母――は申し訳なさそうに言っていたが、義父の目は落胆というよりもはっきりと、香織の面影を宿す鈴香を拒絶していた。

 香織という女を許し、愛しているのは自分と本條くらいだろうと思う。だからこそ、母を止める責務を果たすのだ――子である鈴香が。


 夜の闇に融け込むように佇むビル――元々何が入っていたのかは知らない。役目を終えて死んでしまった建物の様子になんとなく鈴香は今の自分が重なった。


 役目は終わった――()()()、全部終わりにしよう。


 当然エレベーターは動いていないので、鈴香は決意を踏みしめるように階段を上がった。廃ビル三階――ドアの小窓から赤い光が漏れていた。金で雇ったボディーガードが鈴香を見て顔を顰める。子どもの来るところではないぞ、というのが口に出さないでもわかる表情だった。


「……娘です。……母に会わせてください」


 鈴香が言うと、彼らは若干戸惑って顔を見合わせた。その隙を突いて鈴香は強行突破を敢行する。ドアに体当たりして中へ入ると、改装された部屋は真っ赤に染まっていて、目に痛かった。訳のわからない骨董品が並び、天井からはテグスに連なって正体不明の民芸品が吊るされていた。

 中央に赤いベールを被った女が座っている。何重にも服を重ねて誤魔化してはいるが、女の頬はやせこけていて、赤い宝石に置いた手は枯れ枝のようだ。

 母は休む時間も食事をする時間も惜しんで本條のために金を稼いでいるのだ。


「……ママ」

「……あら? 鈴香?」

「ママ、もうやめて」

「やめる? なにを?」

「こんなこと――もうやめて」


 鈴香が言うが、赤い女――<紅姫>に扮する香織は何を言っているのかわからないという風に首を傾げる。その顔はもう『やさしい母』ではない。獣だった。痩せ衰えても猶、獲物を狩る獣のように目だけがぎらついていた。


「どうして? 何を言っているの?」

「本條さんはもういないよ、ママ」

「え?」

「死んだの」

「……うそ」


 絶句しているのがわかった。それでも鈴香は話を続ける。


「だからもうママのしていることは無意味なの」

「……うそ。うそよ、本條さんが……死ぬなんて……」


 小刻みに肩が震える。黒目が揺れていた。


「嘘じゃないわ、本当よ。<紅姫>から聞いたの」

「……だれのせいよ」

「誰のせいでもないよママ」

「誰があのひとを殺したの……」

「ママ……」


 かたかたと香織の体が震え始めた。宝石を抱く手に力が入っている。


「誰がころしたのよおっ!」


 ぱりん、と音がして宝石が割れた。それから香織は猛獣のように暴れ出す。周囲を覆う天幕を引き千切り、天井から垂れ下がった装飾品を手当たり次第に破壊した。机もひっくり返して壁を蹴りつけた。音に気付いたボディーガードが部屋に入ってくるが、狂気に囚われた香織に面を食らって足を止めた。


「だれがあ! だれがあのひとをおおおっ!」

「誰でもないわ、ママ。あのひとは自分で自分を」

「あのひとがっあのひとがけいさつにっけいさつのやろうにっ!」

「ママ、聞いて。おねがい」

「すずかぁっ! おまえかあっ!」


 唐突に香織は鈴香に牙を剥いた。


「……ママ」

「おまえかあ! おまえがっ! ()()()()()()()()()!!」

「……」


 もう何も聞こえていない。

 鈴香は用意していたもう一本のナイフを取り出した。


(もうこうするしかない……)


 母は死んだ。

 やさしい母は、もうどこにもいない。

 ここにいるのは本條という男に囚われ身も心も獣になったかつての母だ。


(それでもあたしは……)

「ママは私をパパから守ってくれたんだもんね」


 思い出の中にある記憶。

 赤く染まったシーツ。血だらけで倒れる父。部屋の隅で震える鈴香。

 ――ナイフを片手に恐ろしい形相で佇む母。


 母は鈴香に大丈夫だから、と何度も言い聞かせた。母は鈴香を自分の寝室に寝かせた。

 その後、父は線路でバラバラになって発見された。酔っぱらっていて前後不覚のまま踏切に飛び込んだんだろうということで大きな事件にはならなかった。

 けれど――幼くとも鈴香はわかっていた。それが、母がやったことだということを。

 だから露見していないかどうか探るため、情報収集が上手くなった。噂好きになったのも、それが原因だった。


「だから……」


 涎を垂らして襲い掛かってくる獣。

 かつての母。やさしい母。可愛いと言ってくれる母。大好きな――母。


「今度はママのこと、私が守ってあげるね」


 鈴香は笑みを浮かべた。

 蘇る記憶の中――文美と七葉が笑っていた。


(ごめんね……)


 あと数センチ――。鈴香が足を踏みこんだ。

 ボディーガードたちは母の変貌ぶりに恐れを抱いてどこかに行ってしまったようだ。

 それでいい、母とふたりで終わりにしたいから。


「……ママ、大好き」


 ナイフの銀色が、視界で閃いた。

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