051「幸せな勘違い」
「こちらどうぞ。生姜は大丈夫でございますか?」
「え、あ……はい」
(今度はケモミミ……?)
狐耳の女――姫綺を見ながら文美は生姜湯を手渡された。一旦呼吸を整え、落ち着いた七葉と文美。そして部屋には<紅姫>に付き添う三人の男。文美にとって『ゲームのキャラクターみたいに美形』な三人で、七葉にとっては懐かしい顔ぶれだった。
あの時と同じく名前を教えられた文美は「名前までゲームのキャラっぽい……」と呟いた。
「……つまり、ななはゾンビ……モドキってこと?」
文美が説明された内容をまとめると、七葉が「えっふーちゃんそれはひどいよ!」と抗議した。しかしどうしたって不死の肉体となると文美の知識ではゾンビくらいしか思い当たらなかった。
「ゾンビってどろどろしているでしょ? 私、どろどろしているように見える?」
「あ……いや……ごめん、今そういうゲームしてて」
「ふーちゃんはもう……」
「――ゾンビとは違うけれど、まあ解釈的には合っているかもね」
「ちょっと膠ぉ!」
<紅姫>の名前は膠と言った。『にかわ』と書くらしい。本来はあまり教えるものではないそうだが、七葉にはもう教えてあるし友人だから、と文美も教えてもらった。
それから――七葉がどうしてそうなってしまったのかということも。
七葉の様子がおかしいことはわかっていた。両親が小さい頃に他界していて、引き取って養育してくれた祖父母も既に亡くなっていることも知っていた。だから寂しいだろうなとは思っていたが――まさか出会い系サイトで知り合った男と肉体関係を持っていたとは。
真面目一辺倒で騙されやすそうな子だとは思って心配こそしていたものの、なんだかんだで分別があるだろうと文美は思っていたので――彼女の口からその事実を語られた時、生姜湯を噴き出しそうになった。文美だって未だ処女なのに、という訳の分からない感想を抱くほど、動揺した。
「……ごめんね、ふーちゃん」
「別にななが謝ることじゃないでしょ……でも駄目だよそういうサイトは!つうか十八歳未満は利用禁止でしょーが!」
「……ごめん……」
謝罪をする七葉を叱る文美の姿を見ながら膠が言った。
「仕方がないよ。彼女にとって孤独は『普通』だった――だからこそ、その『普通』を肯定してくれる本條が心の拠り所だった。理解されない苦しみって上っ面の慰めじゃ癒されないんだよ」
「……え」
「君にはたぶん、理解できない」
「……っ」
「大家族でいつだって賑やか、両親は共に健在。……それが『普通』の君にとって、彼女の孤独を全て理解し受け止めるのは不可能さ。だって生きている環境も見えている風景も全く違うのだから」
「……」
文美は閉口した。膠の言うことは正しかった。
文美の人生は時に荒れることもあったが、基本的には穏やかだった。両親は仕事が忙してなかなか構ってもらえなかったが、それでも誕生日やクリスマス――イベント事があると必ず帰ってきてくれていたし、長女であろうと目いっぱい甘やかしてくれた。
「――でも、私はふたりがいてくれるおかげで存在しているんだよ」
七葉が俯く文美の肩に手を置いた。
「だから私はふたりにとても感謝しているの。ひとりぼっちじゃないって、そう思えるのはふたりが私のことを想ってくれているおかげ」
「……なな」
「本條さんのことも……ひどいことされたけれど、嘘でもやさしくしてもらったのは事実だから……」
今度は七葉が俯く番だった。
ひどいことを言われて傷ついた。愛している訳では無くて単なる性欲処理の道具だった。けれど――それでも七葉は本條を消すことは選ばなかった。
「……そういえば本條さんって……」
七葉が膠を見る。彼女は生姜湯を両手に持って一口飲みこんでから言った。
天気の話でもするかのように――軽い調子で。
「ああ、彼ね――死んだよ」
翳る。
「……え?」
「罪の意識に耐えられなくなったんだろうね。看守の目を掻い潜ったみたいで自分でどうにかして首を締めて死んだみたい」
「……う……そ……」
七葉が絶句し、文美が困惑した。
「……わ、私の……せい……?」
「そう思う?」
「……」
七葉は口を閉ざした。
死んでほしいと望んだ訳ではない――彼のことをただ、助けてほしかった。
本條にはきちんと罪を償って、願わくば普通に過ごしてほしいと思っていた。けれど、あの時そこまで考えたかは必死だったせいでよく思い出せなかった。
愛されていない事実を突きつけられて、殴られて恐ろしくて――そんな中で七葉が見つけた望みが本條の救済だった。
望みを叶えた後の本條のことを考えていただろうか。罪悪感で潰されて死んでしまうなどと想像していただろうか。
していない、と七葉は思う。
そんなところまで――自分は考えてなどいない。
「な……ななが悪いわけじゃないじゃん!あ、アンタが――膠が勝手に……」
血の気が引いている七葉に狼狽しながら文美がフォローを入れた。しかし膠は変わらぬ口調で淡々と続ける。
「俺は勝手に望みを叶えたりしないよ。『魂』の『業』となる望みはそのひとの心の奥底にあるものだもの――そのひとが叶えてほしいと望まなければ俺はそれに応えない。そういう約束になっているから」
「で、でも……!」
「君が七葉を庇いたい気持ちは汲むけれどね。七葉が本條を助けてほしいと――ちゃんとした人に戻ってほしいと望んだのは事実だ。結果、彼は罪の意識を自覚し警察署へ駆け込み、そして死んだ。事実はそれだけさ。七葉が殺したかどうかは七葉の考え方によるね」
「……っそれでも……!!」
「純粋な正義は時として人を殺す絶対の刃になることもある。だからこそ正義を行使する時は気を付けなければいけない――正義は人を酔わせるから」
「……」
ずず、と膠は生姜湯を飲む。
七葉の顔を見ると明らかに落ち着きを失っていた。混乱しているのがはっきりとわかる表情だった。文美はフォローしようと言葉を探すが、見つからなかった。精々、彼女の手を握って肩を抱くぐらいしかできなかった。
「だからこそ、鈴香は君を殺そうとしたんだ」
七葉と文美が同時に膠に視線を向ける。
「……あ、生姜湯なくなっちゃった」
膠はカップを覗きながら呟き、左側にいた紅錯にカップを手渡して言う。
「お代わり頼んでくれる? 紅錯」
「……わかった」
紅錯がカップを受け取って立ち上がり、襖を叩いた。待機していたのか姫綺が顔を出し「お代わりでございますね」とにこやかにそれを受け取って再び襖が閉まった。その僅かな時間が、ふたりには途方もなく長く思えた。
「……今……」
「うん? ああ――鈴香が君を殺そうとした理由だよ。彼女のお母さんもね、本條にかどわかされたひとりだったんだよ」
「……っ!」
七葉が息を呑むのがわかった。文美も膠の言葉の続きを待っている。
「でも君と違ったのは本條に完璧に堕ちているということ。だから探しているの、本條を。本條を変えてしまった誰かを」
「……じ、じゃああの女のひとって……」
「そう。あれが鈴香のお母さん――香織だよ」
再び襖が開く。姫綺が二杯目の生姜湯をカップに入れて戻ってきた。
「――ありがとう。姫綺の作るのはなんでも美味しいね」
「あら、お褒め頂き光栄でございます。蜂蜜を少し多めにしておりますから――先程よりも甘いかと」
「ほんと? ありがとう」
そそくさと帰っていく姫綺。膠は琥珀色の水面を見つめて嬉しそうに微笑む。
その様子が――文美には、なんだか腹が立った。
「……さっきからなんなの」
「……ふーちゃん?」
険しい顔の友人に七葉が懸念を抱いた。文美は立ち上がった。男三人が僅かに動いたが、構わず続けた。
「なんなの……さっきから他人事みたいに。アンタがななの望みを叶えてすずも……あの子のお母さんもおかしくしたんでしょ? 全部アンタのせいじゃないっ! なんでそんな――平気な顔しているのよ!」
しかし膠は動じなかった。文美に指摘された『平気な顔』のまま生姜湯を飲んでいる。
「なんか――言えよっ!」
足を踏みこんだ瞬間、文美の背中に強い圧力がかかる。取り押されていると気付くのに少しだけ思考が遅れた。押さえ込んでいるのは白い眼鏡の紅凱だった。
「っ、たぁ……!」
「他人事みたいに? ――何を言っているのさ、他人事だよ」
「……は、あ?」
膠の声がにわかに鋭くなる。文美に対してではなく、取り押さえている紅凱に対してだった。
「――紅凱、強すぎ。前も注意した」
「……失礼」
紅凱は不承不承と言った風に文美を解放し、膠の右側に戻った。鬼のような形相で文美を睨んでいたがそれで怯むタチではない。ぐっと奥歯を噛み締めて体を起こした。七葉が慌てて文美に駆け寄った。
「俺は望みを叶えて『魂』を食らう――言うなれば化け物だよ。そんな俺と人間である君たちとが対等に話せると思っているの? 七葉と君が見ている世界が違うように、俺と君の見ている世界も全く違うんだ――だとしたら、同じように物を考えるってどうしてそう思うのかな」
首を傾げて訊ねる膠。その仕草は可愛らしい。可愛らしいが、恐ろしくもある。夜空は無機質なほどに冷たかった。
「――それはね、楽観的すぎる、あまりにも幸せな勘違いだよ。俺のことは望みを叶える装置ぐらいに思った方がいい、俺のことは利用するんだ。間違っても――情を抱いてはいけない」
膠が淡々と話を続けた。
「俺が情を持って望みを叶えているとでも? 違うね、これは役目だから全うしているだけさ。腹が減っているから喰らっているだけ――単なる消費行動のひとつ。『業』が深いと『大鍋』に入れた時に不都合が出やすいから、その処理効率を上げるための対策なんだよ。だから俺にとって望みを叶えることは慈悲でもなんでもない。だから叶えた先になにがあっても――俺は心を痛めたりしない」
ふたりとも言葉が出なかった。
理解をしようとする前に既に理解させられている感覚だった。
彼女の言い分には隙が無い。隙が無いと思える程に彼女の言葉ははっきりしていた。感情の濁りも淀みもない。清々しい程、温度のない言葉だった。
「鈴香は母親を愛している。好きだからこそ迷っている。どんな相手でも好きになってしまえば嫌いになるのは容易じゃない。――七葉、君にはわかるはずだよ」
「……」
悪し様に言われても、心の底から本條を憎めなかった七葉のように――どんなに足蹴にされても鈴香は母を心から憎むことができなかった。
だから、天秤にかけた。そして、わずかに沈んだ母という皿の上に乗った、その思いに報いるために、彼女は七葉に手をかけた。
「まあ、七葉を殺したところでどうにかなる問題でもないのだけれどね。それでもお母さんを喜ばせたいと思う子ども心が鈴香に行動させたのさ」
果たせていないけれど。
膠は再び生姜湯をすすった。
「……すずは、今どこにいるの」
文美が何を考えてそれを聞いているのか、七葉にはわからない。膠は変わらぬ調子で答えた。
「お母さんのところ」
「……ふーちゃん?」
「……連れて行って」
文美が<紅姫>を見据えて言った。
「ふうん? ――行って、どうするの?」
視線が交差する。沈黙がおりて数秒――文美は答えた。
「……決めてない」
「へえ」
「……でも、なんとかする」
「なんとか?」
「……私は、あの子の友だちだから」
文美の決意に膠が毒々しく、微笑んだ。




