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桜雲館の紅姫【完結】  作者: 可燃性
漆のこと『水槽の団欒』
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045「見ないふりをしていればいい」

<紅姫>が言っていた通り、時計の針は五分も進んでいなかった。太志は純江の要求の通りコップに水を注ぎ入れて持ってくると、手渡されたお守りをそっと彼女の額に近づけた。

 すると刺繍されていた文様が突然発光し、家の間近に雷でも落ちたような光が視界を覆った。目を閉じ開けたその時には、純江は呆然と目を見開いて上体を起こしていた。


「……あ……」

「す、純江……!!」

「……ぃや……」

「純江……?」


 目を覚ました純江は虚空を見つめて震え出した。何かが見えている――しかし、それが彼女の想像した妄想の産物であることを太志は既にわかっている。だが信じる者の前では、現実だ。


「いや、いやぁ、っ! 純太っやめてえ、いやぁあ!」

「純江っ落ち着くんだ、純江っ!!」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ! 許して純太、お願いよぉ! お母さんも……お母さんもすぐそっちにいくから許してえぇ!」


 髪を振り乱して暴れる純江の肩を抱いて、太志は強く揺さぶる。純太はやさしい子だ、一緒に死んでくれなどと言うはずがない。けれど純江の中の純太は償いのための死を望んでいる。現実が見えていない純江には、その純太が本物なのだ。


「純江っ目を覚ませ! その純太はお前が勝手に創り出した純太なんだ――本当の純太は俺達の死なんて望みやしない!!」

「そんなのっそんなの――わからないじゃない!! 誰が言ったのよ、純太が私たちを許しているなんて!!」

「そんなのお前の言っていることだって同じじゃないかっ!! 純太が俺たちを恨んでいるなんて一体誰が言っているんだっ!!」

「……ッ!!」


 純江が口を噤んだ。唇を震わせて、何か言おうとするが言葉は出てこない。


「……あ、あなた……私……私ぃ……」

「……純江。……これから俺の言うことを、……よく聞いてくれ」

「……えぇ?」

「……」


 まだ現実と妄想が朦朧としている彼女に<紅姫>のことを話すのは性急かと思ったが、このままでは純江は自身の思う『純太の呪い』に殺されてしまう。彼女の身を思えばすぐ話すべきだと太志は思った。ひとつひとつ可能な限り簡単に噛み砕いて説明すると、純江は乾いた笑い声を上げた。


「ははっ……なあに、それ。そんなの――あるわけないじゃない……望みを? じゃあ叶えてほしいわ、純太を返してって……純太を生き返らせてって……!!」


 見開いた目から涙がこぼれる。葬式の間も純江は人形のように固まった表情のまま、こうして泣いていた。


「それは……」

「純太は死んだのよ……あんな遺書を遺して私たちに信じてもらえなくて……だったら恨まれるのが道理じゃないの……私たちは親としての責任を果たせなかったんだもの……」

「だから果たすために……!!」

「果たすためぇ? ああ、そうよね……だってあなた、家のことはぜぇんぶ私に任せて仕事ばかりだったんですものね……簡単に言えるわよね……」

「え?」


 怒りの矛先が唐突に太志に向いた。


「不妊治療だって仕事にかまけて全然連れ添ってくれやしなかったじゃない……!! 私がどんっな思いであの子を産んだか……あなたわかってないんだわ……!!」

「す、純江……?」

「苦しんで苦しんで……やっとの思いで産んだ子を親の私が自分の手で殺したのよ……? 産んだ恩を仇でなんてひどいことを言って……傷つけたのよ……? どうして許されるっていうのよ……!!」


 がりがりと純江は頭を掻き回した。指絡まって髪の毛が抜けるのも気にせず、がりがりがりがりと掻き毟り続ける。


「純江……っ!」

「あなたはいいわよっ!! 見ないふりしていればいい……純太がやさしくて素直で……いい子だって……そう信じていればいいわ……私はあの子の母親なの……だからわかる……あの子が私たちを恨んでいることぐらい……!!」

「……」


 太志は言葉を失った。

 腹を痛めて産んだ子と育てた子。少なくとも太志と純江の間にはその格差が存在していた。太志は仕事のかたわら、純太を構うことで育てていると思っていた。だが考えてみれば彼が仕事の合間ずっと面倒を見ていたのは母親で専業主婦の純江だ。純太の成長をずっと見守り続けていたのは純江といっても過言ではない。

 だからこそ彼女は呪いを確立させるまでに己を責めている――ずっと傍にいたのに、わかってやれなかったと。


「だからそこにね、純太がいるのよ。……ずぅっと睨んでいるの……」

「……純江、それは」

「あなたはもう黙ってて!!」


 純江は怒鳴った。彼女の言うそこ、というのは横になっている布団の真正面だった。指をさす空間には勿論誰もいない。だが純江には見えているという――恨めし気に睨んでいる純太が。


「ごめんねぇ……純太ぁ……お母さんもすーぐそっちに行くからねぇ……」


 純江は四つん這いになってその場所へ向かっていく。

 涙を流したまま、光のない目で。


「……ッ純江……」

 ――必ず彼女を連れて来てね


<紅姫>の言葉は脳裏によぎる。

 彼女の元へ、連れて行かなければならない。

 だから――


「純江っ!!」


 純江を羽交い絞めにした。彼女は暴れたが構わず太志は引きずっていく。

 そして彼は願いを込めて襖を引いた。


「!!」

「――おや、修羅場ですか~?」


 襖の向こうにいたのは垂れ目の男だった。

 柔和な笑みは変わらなかった。


「っ、あ、あの……」

「え? なに? なによこれ……?」

「おやまあ、随分と御髪(おぐし)が乱れておりますよ?ちょっと失礼」


 男がどこから櫛を取り出すとてきぱきと純江の髪の毛を整える。「これでよし」と満足して彼は櫛を仕舞った。


「<紅御前>の前では綺麗にしておきましょうね」


 にこにことそう言う男に、純江は呆然としている。


「……とっとと中に入れ」


 ぶっきらぼうにもうひとりの赤い目の男が言った。

 足元の犬が退屈そうにふわあ、と欠伸をした。


 ◇


 案内役は同じだった。外見に純江がぎょっとしているのがわかった。少女――確か<紅姫>はヨルカラスと呼んでいた――がふたりを見て、何も言わず体の向きを変えた。


「あ、あなた……?」

「……」


 太志もまた無言で純江の腕をとって歩かせた。ほどなくして先程の部屋に辿り着く。一連の行動は真新しい記憶と同じ――しかし、部屋の様相は一変していた。


「俺が、<紅姫>だよ」


 そう笑う彼女が腰掛けている寝台だ。天蓋のついている寝台の上に金魚を想像させる着物を纏って座っている。床一面全てが水だった。足を踏み入れるのに戸惑っていると背後から少女が強く押した。

 ばしゃん、と水飛沫をあげてふたりが倒れ込む。着ている洋服がじんわりと冷たさを帯びて、重くなった。


「あ……っ」

「奥さんの方は初めまして。君の方はさっきぶり」

「……ここは……」

「あの世でもないしこの世でもないところ」

「……」


 純江は説明を求めるように太志を見た。太志は「さっき話した通りだよ」と教えた。


「……純太を……」


 純江が口にする。水にしゃがみこんだまま彼女は虚ろな目で目の前の少女に懇願した。


「……純太を返して」

「うん?」

「純太を返して。返してほしいの、返してもらえれば、きっと全部……いいえ、純太のために私はなんだってやるわ」

「ふうん――君の話は後でいいかな? ふたりも増えたからさすがに名前を教えないと危ない」

「……?」


<紅姫>が後ろを向いた。お守りを手渡した青年がいる――名前は確かリンリュウ、と言っていた。


「彼が凛龍(りんりゅう)。凛々しい龍と書いて凛龍ね」


 凛龍は<紅姫>を背後から抱き締め、頭上に口づける。彼女はくすぐったそうに一度目を細めてから右側を見た。白い縁の眼鏡をした男が笑みを浮かべていた。誘うように空中を泳ぐ彼女の指先をごく自然な動きで食む。


「彼は紅凱(こうがい)。紅の凱旋門と書いて紅凱」


 眼鏡の男が軽く会釈した。

 今度は左側に視線を向けた。右側にいた男と瓜二つである。しかしこちらは無表情だった。彼女の首筋に噛み付くように唇を寄せた。


「この子は紅錯(こうさく)。紅の錯覚と書いて、紅錯。――覚える必要はないよ、口にして教えることに意味があるから」

「……え?」

「結界なの、彼らは」


<紅姫>が言う。


「俺はこの世のモノではないから、『外』のモノと関わる時間が長いと俺の時間や力や体……あらゆるものが不具合を起こしてしまうんだ。だから彼らの名を呼び教えることで結界を張っている」

「……はあ」

「――それで、なんだっけ? ……純太を返して、だっけ?」


<紅姫>が首筋に顔を埋める紅錯の頭を撫でながら、先程の純江の言葉の続きを促した。純江は男に囲まれている少女に戸惑っていた。

 羞恥と混乱――感情が濁流になって、逆に純江を冷静にしていた。


「……あ、あなたは……」

「返すって? 悪いけれど死んだ人間は帰ってこないよ」

「……っな」

「『管理局』との絶対の約束事だから……純太の『魂』は『大鍋』に煮詰められて人格や記憶が全て失われて『種』になる……今ちょうど煮詰めている最中だと思うから、もう無理じゃない?」

「な……なんで……!!」

「なんでって……死んだ人間が生き返らないのは知っていることじゃないの?」

「どうしてえっ!!」


 ばしゃんっ!

 純江が水面を叩いた。水滴が純江おろか太志も濡らした。


「どうして! アンタが!! アンタが神さまならなんでも叶えてくれるんじゃないの!?」

「神さま? 俺が?」

「そうよ!! だったら叶えてよ、あたしの望みをっ!!純太がずぅーっと! ずぅーーーーっと! あたしのこと睨んでいるのよ!? たすけてよおっ!!」

「俺が神さまじゃないよ」


<紅姫>が紅凱の頬に触れる。


「……はぁっ?」

「神さまなんかいやしないさ。君たちが勝手に信じているだけで――実際には存在しない。()()()()()()()()、というのが正しいのかな」

「なによ、それ……なんなのよ……」

「それに君、言っていることが滅茶苦茶だよ。純太に睨まれていて助けてってどういう意味?」

「……あ」


 太志は気付いた。

 純江は「お母さんもそっちへ逝くから許してくれ」と懇願していたのに、今は「純太が睨んでいるから助けてくれ」と言っている。確かに矛盾している――償いたいと思う相手の憎悪から逃れたいというのは、罪そのものから目を背けることになるだろう。


「……あ……」

「君は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。親としては子に対する贖罪をしたいけれど、純江という他人としては自殺した純太という少年に対する責任を放棄したいと思っている――自分を守るために」

「……ちがうっ!」

「違わないよ」

「ちがう、ちがうちがうちがう……!!」


 水が飛び散る。聞きたくないと純江が全身で<紅姫>の言葉を拒絶していた。


「子に対する責任を負いきれないから純太を他人という枠に押し込めて自分を守ろうとしている。関係のないところで関係のない子どもが死んだ――と」

「……え?」

「それだけ彼女の感じている責任は重いんだよ」


 純江はばしゃばしゃと水を掻き回しながら「違う」と訴えている。子どもが我儘を言うように、駄々をこねるように。

<紅姫>は緩やかに足を組んだ。白い足首には赤い紐が蝶々結びにされていた。


「彼女は呪っていてほしいんだよ、純太に。彼が自分を恨んでいてほしい――そうすれば、償い方なんて決まっている。――死ねばいい」

「……ひ」


 純江が息を呑んだ。


「罪から逃れるための死は容易い。だって全部捨てていけるから」

「……ちがう……」

「責任の放棄――楽でいいね、背負うものがない人生は軽くていい」

「……ちがうぅ……っ!!」


 純江は言うが、<紅姫>はほとんど聞いていなかった。

 最期に『から紅』で束の間の幸福を手に入れた純太はその時、家族のことも友人のことも忘れようとしていた。だから思い出せなかった。それは水底へ沈む速度を上げるための枷だったから。


「……あたしは……」

「ここに風宮篤を呼んだ時もそう。篤の呪縛の中に彼はいなかった。彼は本当に最期まで誰のことも恨んでもいなかったし呪っていなかった。全てを諦めていたから。やさしい――というより無頓着だったのかもしれないね、自分の傷にも誰かの罪にも」


 純江は段々と落ち着きを取り戻してきたのか、閉口して<紅姫>の言葉を聞いていた。


「――で、君たちの望みは?」

「……え?」


 太志が彼女を見る。夜空が自分たちを見下ろしていた。


「君たちの望み、だよ」

「……の、望みなんてそんなの……」

「ちなみに俺が望みを叶えるには代償がいる」


 話を聞かずに彼女は話を進める。


「代償……?」

「『魂』」

「……たましい……」

「食われても死にはしない。人は二度死ぬ――一度目は肉体の、二度目は忘却。君たちだって交友関係は広いんだろう?早々いなくならないと思うよ」

「いえ、その、望みというのが……」


 太志には自分が抱く『望み』とやらが見つからなかった。純江もまた何のことだかわからない、という表情をしている。

<紅姫>がどこかうんざりした表情で言った。


「ねえ――いい加減さあ、()()()()()()()()()()()()()()()()、考えられないの?」

「……!!」


 その言葉に夫婦がはっとなる。そして顔を見合わせた。


「本来であれば()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()なのだけれどね。頭の中にあるのはずーっと同じだから……同じように聞いてあげる」

「……え?」

「純太の親なんでしょ? 純太を信じられなくて死なせた出来損ないなんでしょう?」

「……っあ……」

「早く――その、責任とりなよ」

「……せ、責任……」


 純江が過呼吸気味に息を吸いあげた。


「……せ、責任……親としての……」

「す、純江……」

「そ、そうよ――親なんだから責任を……」

「……あ、ああ……勿論……」

「責任……」

「親としての……」


 ぶつぶつと呟くふたりを見て、


「――呆れるほど、『純太の親』なんだね」


<紅姫>は溜息をついた。

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