044「責任とりなよ」
デフォルメされた乗り物が描かれた青い壁紙、大人になっても使えるように自在に組み替えられる勉強机、大きめのベッド、私服の少ないクローゼット――純太の部屋に見知らぬ少女と見知らぬ男たちがいる。
太志が立ち尽くしていると、少女<紅姫>がその手にサッカーボールを持っていた。子どもの頃に純太と蹴り合ったボールだった。
「人の家に呼ばれたのは初めてだよ。でも新鮮だね、人間はこういう部屋に住むんだ」
<紅姫>が手元のサッカーボールを太志の足元へ転がした。爪先にこつん、とそれが当たる。拾い上げて、一瞬純太との思い出が駆け巡った。電気が走ったような感覚に太志はサッカーボールを取り落とす。ボールは床に着地する前に塵のようになって消えてしまった。
「……ここは」
「『桜雲館』。桜の雲の館と書く。この世ではないところ」
「……あの世、ということですか」
「ううん。あの世でもないよ」
<紅姫>は笑った。
彼女は純太が通う高校の制服を着ていた。周りを囲う男もまた同じく、制服である。茉奈と純太を見ているような心地がして目を逸らし、それからその場に脱力したように腰を下ろした。手に未だボールの感触が残っていて、脳裏には無邪気に笑う純太がいた。
体に力が入らない。夢の中にいるようなふわふわした心地だった。
「……何故俺はこんなところにいるんですか」
早く解放されたいと思った。傷口がずきずきと痛みだしている。
「君が強い望みを抱いているから」
「望み……それは」
「純太が帰ってくれば全部終わりだと思っている?」
「……!」
浅はかだと笑われた気がした。
「……それは……」
「終わったことの更に終わりなんてないよ。君の責任は永遠に君のもの。純太の人生は水底で途絶えたんだ――それ以上なんてないよ」
淡々と突きつけられる事実に、太志は唇を噛んだ。
「……それに思考回路がしっちゃかめっちゃかだよ?」
「え?」
「だってそうでしょう――純太がやさしい子だって言い聞かせているのに、どうしてやさしい彼が君たちを責めるの?」
「……!!」
太志は弾かれたように顔を上げた。<紅姫>の右目に浮かんだ夜空と目が合う。
「いつまでも彼が自分を恨んでいるだなんて、どうしてそう思うの? そういう子に育てたの? そういう子だったの?」
「……そ、それは……」
「俺は学校というところに行ったことがないからわからないけれど、あそこが社会という世界の模型なら逃げることも妥当な手段だと教えるべきだね。逃げることを知らない野生動物は死ぬだけだよ」
太志は何も言えなかった。
ただ<紅姫>の言う言葉を聞くことしかできなかった。息が詰まって苦しい――水中にいるように、酸素が吸えなかった。
青い顔をしている自分の顔に気付いたように、<紅姫>は愉快そうに笑った。
「息苦しい? そうだね、ここは純太の欠片だから」
「かけら……」
「誰も信じることのできない彼が唯一信じられたのは〝終わり〟だ。死ぬということだけ――終わりは平等だから、最後に縋る救済は結局のところそこになる」
「……やめて……くれ……」
「やめる?どうして?親なんでしょう? 子どもを助けられずに死なせた親なら」
「……や、やめろ……」
「責任とりなよ」
「……いっ!」
太志は胸を押さえた。
激しい動悸に冷や汗が滲む。心臓に突き刺さった釘が最奥に届いたような痛みだった。
「純太の痛みはその程度じゃないと思うけれど――でも、純太は君たちのことを恨んではいなかった」
独り言のようなその言葉に、息も絶え絶えのまま太志は顔を上げた。
「……え?」
「少なくとも純太は君たちに殺されたなんて思っちゃいない。影経が言っていたでしょう? 最期まで君たちは純太の親だったって」
――てめえらは最期まで純太の親だった
黒い男――影経の言葉が反響する。
彼は、その前にこうも話していた。
――親はもとより出来損ないだ。完璧な親なんかこの世に存在しねえ。……子どもが親を親として創るんだ。子どもに見放されりゃあ親はもう親じゃねえ
突然その意味を理解した。
純太はこんな自分でも死の間際までずっと――親として認めてくれていたのだ。
「親を親たらしめるモノは子どもだよ。子どもが俺たちを――産んだことや育てたことを通じて親として見る。そうなれば俺たちは親になれるけれど、ひとたび子どもが自分のことを敵だと思えばそれはもう親じゃなくて敵さ。そうなれば、殺しもするし逃げたくもなる。親に愛された子どもにとっては親だろうけれど、親に愛されなかった子どもにとっては敵だ。少なくとも君たちはまだ敵ではなかった――親ではいられた」
「……純太は……」
「やさしい子って利用されやすいんだよね。心の隙間が多いから」
「……っ」
「まあ、今更育て方に文句を言ったところで――純太はもういないからどうしようもないけれどね」
<紅姫>の口調は軽かった。
太志の苦しみなど見えていないかのように――彼女は淡々と話している。
「本当は……君の奥さんにも来てほしかったのだけれど」
<紅姫>が「ま、仕方がないか」と続けた。
太志は彼女のこぼした言葉にふと思い出す。純江に水を求められたので部屋を出て行こうとしてここに辿り着いたのだ。部屋を出てから随分時間が経つ――ように思えた。純江の容体が心配になって太志が立ち上がる。
「だいじょうぶだよ?」
襖を向かい合った太志の背中に、<紅姫>がそう言った。
「言ったでしょう? ここはこの世ではないところ……時の流れも全く違う場所。五分も経っていないから急いで帰る必要性はないよ」
「……妻は……」
「奥さん、あのままだと自らが描いた妄想に殺されるね」
「!!」
最悪の単語が少女の口から飛び出して、太志は目を剥いた。
冗談ではない、息子に続いて妻までも――失うというのか。
「ッ、す、純江は……!」
「君と同じ。いや、違うかな」
「……え」
「君は自分の心臓に釘を刺した。でも彼女は、自らも水の中に飛び込もうとしている」
「そ、それは……」
「悪夢を見せているのは純太じゃないよ、彼女さ。――純太は何もしていない、でも、呪われていると考えれば呪いは実在することになる。あのままにしておくとその呪いに、彼女は殺されることになるだろう」
この世に存在しないモノはない。
信じればあらゆるモノは実在することになる。実際にはそうではなくても、信じるモノの前で全ては真実だ。
純江が純太に恨まれていると考え続ければ続けるほど、彼女の中で揺るがぬ真実となって蝕み続ける。心がその重みに壊れてしまわないように、現実の世界から逃避させている結果が眠り続けているのである。
「……そんな……」
「彼女を起こしてここに連れて来て」
「ここに?」
「望みを叶えると言ったでしょう? 君たちがそろって思い描いている望みを叶えてあげる」
「……望み……俺達の……」
「――凛龍」
<紅姫>が後ろにいた銀髪の青年に声を掛けた。凛龍と呼ばれたその青年は立ち上がると、ポケットから何かを取り出して太志に手渡した。それは雷の刺繍が施された掌サイズのお守りだった。
「……暗雲を晴らす雷鳴。……アンタの奥さんの額に当てろ。そうすりゃあ目を覚ます」
「目を覚ましたら必ず、ここに連れて来てね」
<紅姫>の言葉を聞きながら太志は手渡されたそれを見つめた。握り締めて腰を上げた。
「……わかりました。必ず妻も……純江も連れてきます」
「よろしく。――夜鴉」
<紅姫>の声に応答して襖が開く。
先程の少女が立っていた。
「んぇ、帰りっすか」
「うん。いったんね」
「りょーかいっす。……じゃ、おっさん行くぞ」
言うが早いか、体の向きを変えてさっさと歩きだす少女。太志はまた慌ててその背を追う羽目になった。
鉤爪が廊下を叩く小気味のいい音が響いた。




