043「鍵は渡した」
真っ黒な目で純太が見ている。
――どうして僕を信じてくれなかったの
純太が近づいて、太志に圧し掛かった。身動きが取れなかった。
水が鼓膜を叩いた。水の中にいる――水面からの逆光で純太の顔は見えなかった。彼は上から太志を押さえつけていた。
――どうして僕を
水底の暗闇が近づいてくる。
(許してくれ……)
心に打ちつけた釘が水圧で深く押し込まれた。
◇
純江は昨晩からずっと眠っている。医者に診せたがなんら体に異常は見られないという。精神的なものだろう、という結論だった。
彼女が時々苦しそうに唸るのを、太志は横で「大丈夫だから」と声を掛けることしかできなかった。悪夢を見ていることがはっきりとわかる寝顔だった。
「……」
純江もまた太志と同じ夢を見ているのだろうか。真っ黒な目をした純太が押さえつけてくる夢。純太はやはり自分たち夫婦を恨んでいるのではないか、と考えていた。しかしそう考えるのと同時に、黒い男の言葉は浮かび上がる。
――それでも、てめえらは最期まで純太の親だった
本当にそうだろうか。
息子のことも信じられぬ親が親であっていいのだろうか。
(俺は親としての責任を……)
傷口は猶も喚き続ける。答えを出そうとすればするほど考えを留めるように痛んでいた。
「……みず……」
その時、純江が夢うつつに水を求めた。太志は「少し待っていろ」と声を掛けて立ち上がり、扉を開いて――
「!?」
仰天した。
廊下に出るはずなのに、そこにはあったのは道だった。
長い一本の道――両側には川が流れていて、赤い花が道沿いに咲き並んでいた。
絵本の世界に迷い込んだような光景だった。
「……な、なんだこれは……」
とうとう気が狂ってこんなに鮮明に幻覚を見るようになったのか――と太志は思った。振り返って部屋に戻ろうとしたが、
「えっ……!」
扉がなくなっていた。あるのはやはり、同じ赤い花の咲く道だけ。
後にも戻れず、先に進むしかなかった。川のせせらぎが聞こえる。太志は「幻覚ならそのうち醒める」と言い聞かせて、足を動かした。
一歩一歩を踏みしめて歩いていくうち、前方に人影が見えた。ふたつある――目を凝らすとふたつの人影の背後には大きな門があった。門と取り囲む塀――そこから辛うじて見えるのは巨大な屋敷の、赤い屋根の部分だけだった。
人影の輪郭がはっきり見えてくる位置まで太志がやってくると、片方が柔和に微笑んだ。金色の垂れ目をした男だった。帽子のつばに触れて直す素振りは鉄道員のようだった。
「こんにちは、どうも。お日柄も良く」
「……え……」
幻覚が語りかけてくる。自分も相当イカれてしまったのだ、と絶望に似た感情が沸き上がってきた。すると彼の肩に乗っていた猫がその前足で頬を引っ掻いた。ちりり、と小さな痛みが頬に広がった。
「っ!」
「こら、織々」
「にゃあお」
猫が鳴いてそっぽを向いた。呆然としている太志に男が頭を下げて謝る。
「申し訳ございません、躾のなっていない子で……」
「……あ、……え?」
頬には確かに血が滲んでいる。痛みもはっきりしていた。
「これは夢ではございません、あとあなたの気が狂って幻を見ているわけでも――ございません」
男が言うことを太志はさっぱり理解ができなかった。
こんな非現実なことを一体どうやって――信じろというのだろう。太志が混乱していると、もうひとりの男が睨むようにこちらを見た。真っ赤な目の男――黒い男を彷彿とさせた。
「……父さんに会っただろ」
「……え?」
「ああ、純太さんが見つかった川辺でお会いした全身真っ黒な『死神』さん――あの方、影経さんと申しましてね、影嗣……そこの彼の御父上様なんですよ」
「……息子?」
黒い帽子を目深にかぶっていたから顔はよく覚えていない。だがなんとなく――本当になんとなくだが、黒い男と眼前にいる赤い目の男は似ている気がした。
「父さんは純太が死んだその日に、純太に出会ってここに呼んだ」
「……呼んだ……」
「こちらは『桜雲館』でございます。館の主は<紅御前>。『魂』を対価に望みを叶えてくださるお方がいらっしゃいましてね」
「……」
聞いたことのあるフレーズだった。
川辺で会ったあの刺青の男が話していたものだ。
「……べに、ひめ」
「はい、その通りです――紅蓮様から伺っておりますでしょう?」
「こうれん……?」
「――てめえが純太の死んだ場所で出会った野郎のことだよ」
なんだ、あいつ名前教えてねえのかよ――赤い目の男が恨み言を続けた。
赤と金の印象的な瞳が思い浮かぶ。腕にびっしりと描かれた炎の刺青を思い出した。
「……」
「鍵は渡した、自力で開けろ」
「……えっ」
「――とっとと入れ」
影嗣が乱暴な仕草で、半ば無理矢理太志は門の中に押し込める。敷地内に入ると、がちゃん!と大仰な音を立てて門は閉められてしまった。
「案内役がおりますからその方の後に続いてくださいね~」
呑気な調子の声が太志の背中を押した。
どうにも自分がこの幻覚から覚めるにはそうするしかない、と思った。
◇
赤い扉を開けてタイルの敷き詰められた玄関に入ると、案内役と思しき少女が立っていた。
フードのついたパーカー、のような布のような――なんとも形容しがたい恰好をした彼女は太志を見るなりに「純太の父ちゃんか」と言った。
白に近い金髪、紺碧の海のような青い瞳、そして頬に浮かんだ羽根の文様。それらよりも目を引いたのは尖った耳と腰から生えた黒い翼だった。大腿部から下も、人間のそれではなく、鋭い鉤爪の鳥の脚だった。人間と鳥とを半々にしたような――太志の口から「化け物」という言葉が滑り出しそうになった――そうとしか思えない見た目である。
「……これは」
「ん? なンだよ。俺様の顔になンかついてる?」
首を捻って訊ねてくる少女に太志は何も言えなかった。しかし、彼女は先程自分を純太の父親だと言った。何故初めて会うというのに――誰しもが自分のことを純太の親だとわかるのだろうか。
「……オマエが今何考えてンのか当ててやろーか」
少女が黙り込んだ太志を見て言った。「え」という表情で返す太志に彼女はにんまり笑って続ける。
「〝なンでこいつら純太の親だってわかンだ?〟だろ」
「……」
「ま、俺様たちが純太のことを知っているからなンだけど……」
「……純太のことを?」
「そ。グダグダ長ったらしい説明とかそーゆーの俺様ニガテだから、後で<紅>さんから聞いて」
少女はくるりと背を向けると歩き出した。太志はこれ以上は考えても無駄だと理解し、何も言わずについていった。
◇
薄暗い廊下を照らし出す照明は目の形をしていた。目玉が光ってほんのりと照らしている。器用に避けながら進む前方の少女と、ぶつかりそうになりながらなんとか歩く太志。ぶら下がる照明の長さはまちまちで、太志の顔の位置にあるものもあれば、足元にまで下がっているものもある。最早障害物となりつつある光源をかわしていると不意に少女が立ち止まる。彼女の視線を追うと、桜吹雪の描かれた襖に目が留まった。
「<紅>さーん、連れてきやっしったー」
「はあい」
子どもの声が、そう答える。性別はわからなかった。
少女が襖を開き、どうぞとジェスチャーをするので太志はそれに従った。部屋の明かりが一気に視界を覆った。
「……あ」
「やあ、はじめまして」
そこにいたのは男三人に囲まれた少女だった。
蠱惑的な笑みを浮かべて、彼女は言う。
「俺が、<紅姫>だよ」
太志は目を瞠った。
そこは幼少期の――純太の部屋だった。




