042「夢の中で」
『――お前は何も悪くないと言ってほしかった』
スマートフォンに遺された純太の最期の望み。
太志はその遺書を見た時、自分たちが間違っていたことにようやっと気付いた。
警察の調べで、風宮が違法な薬物を所持、そして付き合った少女たちにそれらを与えていたこと、過去にも大勢の人々を死に追いやっていたことなどが判明した。当人は行方不明――しかし、恐らく生きてはいないだろうというのが、警察側から言い渡された見解だった。
彼の両親は彼のことを「よくわからない子だった」と言い、それ以上何も話さなかった。関心がまるでなかった――、実の子がとんでもないことをしでかしたという事実に動揺すらせず、他人事のように彼らは無反応だった。
剰え茉奈も、風宮に与えられた薬物によって死に至っているというのに。
「……」
真実全てを知った純江は純太の遺体と対面して以降、体調を崩して床に伏せるようになった。
しかしある日、起き上がって純太の好物を用意して食卓に並べていた。三人分の食事を作り、虚ろな目で席に座っている彼女を見た時、太志の心臓に悔恨の念が、釘となって突き刺さった。
「あら、あなた……お帰りなさい」
純江はいつもと変わらぬ調子で夫を出迎えた。
「純江……」
「ねえ純太がまだ帰ってこないの。あの子の好物ばかりにしたというのに……どこに行っちゃったのかしらねえ?」
「純江……っ!!」
彼女の肩を抱いて揺さぶる。純江は「どうしたの?」と首を傾げるばかりだった。
何かもが壊れてしまった。そして壊したのは間違いなく――ふたりだった。
ずきり、と傷口が責めるように痛んだ。
◇
純太の見つかった川に足を向けるのはこれで五度目だった。純太にも友人がいたが、風宮の根回しですっかり純太を見る目が変わっていた。だから彼のことを想ってこの場所へやってくるのは夫婦だけだった。
そう思っていたのだが――
「……ん?」
見慣れぬ男が、純太の引き上げられたあたりに立っていた。
黒い帽子に黒い外套――手には黒い紳士用の傘。異様な雰囲気を放つその男は、太志に気付くとゆっくりと振り返った。
「……!!」
男の目は真っ赤だった。罪人を燃やす業火のような色をしていた。男の足元には真っ赤な花がある。薔薇ではない――見たことのない花だった。それが一輪、水面に浮かんでいた。手向けているようにも、鎮めているようにも見える。
「……てめえは」
男が低く唸るように太志に声を掛ける。
「……あ、……あの……」
「……純太の父親か」
「……は、はい……。あなたは……?」
「……純太を信じてやれなかった――出来損ないの親か」
問いに答えずに、男は傷を抉った。ずきり、ずきり、と傷口がひどく痛む。堪らずその場に膝をつく太志から男は視線を外した。
「……俺にも経験がある。……息子を傷つけた経験がな」
「……え?」
独り言なのか――男は落とすように話し出した。
「親はもとより出来損ないだ。完璧な親なんかこの世に存在しねえ。……子どもが親を親として創るんだ。子どもに見放されりゃあ親はもう親じゃねえ」
「……っ」
「……それでも、てめえらは最期まで純太の親だった」
「……え」
それはどういう意味か――と問いかけようと口を開いたが、突風が太志の言葉を遮った。目を瞑って開くと次の瞬間には男はどこにもいなかった。
ただ水面に浮かぶ赤い花だけが、そこにあった。
◇
太志は男のことが気掛かりだった。会社で仕事をしていても、言葉が脳裏をよぎって落ち着かなかった。会社帰りに川に寄ろうと決めて、彼は仕事を早々に切り上げた。
家庭の事情を会社の上司は知っている――知っているからこそ、腫れものを扱うかのように誰もが太志に距離を取った。距離を置かれていることで、帰ろうとする彼を誰も止めなかった。いつもなら「俺と一緒に残業しようぜ」と軽口を叩く同僚も、黙って見送った。
少々息苦しかったが、当然だろうと太志は思った。
(これは罰だ)
太志は思いながら、会社を後にした。
川に行くとそこには昨日と違う男がいた。よれよれのワイシャツに色褪せたジーンズをあわせた全体的にアンニュイな雰囲気を纏う長い黒髪の男だった。その手には黒い男が手向けたものと同じ花が握られていた。緩慢な動きで彼は川に向かってそれを投げた。
風に舞っていた花が水面に着地する。微かに波紋を広げて、花は浮かんだまま静かだった。
「……うん?」
男が振り返る。その男は右目が赤く、左目が金色をしていた。口には煙草を咥えている。
「ほう、純太の父親か」
「……っ」
「会社帰りのようだが、そんなに急いでどうかしたのか?」
「……あなたは」
「ん? 俺か? 俺は純太の――友だちだよ」
そう言って、男は紫煙を吐き出した。
太志はぎょっとした。彼の、煙草を持つ右腕には刺青が覗いている。耳にも大量のピアスが光っていた。
この男と純太との接点が全く見えてこなかった。
頭に、まさか本当に純太は――などと振り払ったはずの幻覚が蘇る。
「……一体、どこで息子と」
振り絞るように太志が訊ねると、男は答えた。
「夢の中で」
茶化しているわけではないようだった。
「……ゆめ?」
「彼が望んだやさしい世界で出会った」
「……純太の、望んだ……」
「そうだ。皆にやさしくされ、あたたかく迎えられ……『お前は悪くない』と言ってくれる世界で」
「……!!」
それは純太の遺書に書かれていたことだった。
「俺はあいつに言った。『お前は何も悪くない』、と。……泣いていたよ、ずっとその言葉を誰かにかけてもらうのを待っていたんだろうな」
「……あ……」
「それで――お前はどうしてここに来た」
男が体ごと太志に向き直った。
からりと彼の履いている下駄が音を立てた。
「……え」
「何の用があってここに来た」
「……お、俺は……」
「許されるためか?忘れないためか?」
「……っ」
呼吸が早くなる。
水の中にいるように、息が苦しかった。
「――お前は何故、その心に釘を打った」
傷口が開く。血が流れて、溢れた。
ぼろぼろと太志の目から涙がこぼれる。膝をついてしゃくりあげる太志の肩に男は手を置いた。
「――『桜雲館』の<紅姫>」
「……え?」
慰めの言葉でもなんでもなく――ただ吐き出された単語に顔を上げる。男は太志を見ていなかった。遠くの方を見たまま言う。
「お前の望みはそこで叶う――どうしようもなく、親というものに囚われているお前の望みをきっとあの人は叶えてくれる」
「……どう、いう……」
「……鍵は渡した、あとは自力で開けろ」
それだけ言って男は何も説明しないまま歩きだした。
からん、からん、という下駄の音だけが妙に頭に残っていた。
◇
気が付くと太志は家に戻っていた。先程の出来事が全て夢であったかのように、不確かだった。玄関に入ってすぐ、彼は異変に気付いた。
「……!!」
――死を匂わせる不快な異臭。
太志が慌ててリビングへ飛び込むと、そこには青い顔をして倒れる純江の姿があった。太志は窓を全て開け放ち、ガス栓を捻る。それから純江を抱き起こすと、彼女はまだ生きていた。薄目を開けて状況を理解した純江は、「ひ」と短い悲鳴を上げてそれから、
「いやああああああッ!!」
錯乱して暴れた。太志が抑え込んで純江の名を呼ぶ。
「す、すみ……すみえ……っ!」
「いや、ぁっいや! いやぁあぁああっ!!」
「やめろ、純江っ、やめるんだっ!!」
ひとしきり暴れ終えた純江は焦点の合わない目で天井を見つめたまま言う。
「ゆるして、……っゆるしてぇ……じゅんたぁ……」
息子に許しを乞う妻の目には一体何が映っているのか。
太志は訊ねるのが恐ろしかった。
もしかしたら妻の目には信じてくれなかった自分たちを呪う純太の姿が見えているのではないか。
純太が耳元で「許さない」と呟いているのではないか――そんな妄想が、まるで現実のもののように思えるからだった。
「……純太……済まない……」
いくら謝ったところで答える声などありはしない。
それでも太志の耳には、純太に似た声があぶくとなって浮かんでは消える。
――どうして僕を信じてくれなかったの
太志は純江を抱いたまま、再び涙を流した。




