041「そうか」
釘が心臓を貫いている。
ずきずき、と痛みを訴えて鳴いている。
抜くことなどできない。何故ならそれは罰だから。
――ああ、許してくれ
許しを乞うても、相手はもういない。
水底で眠った彼の声はあぶくとなって消えてしまった。
◇
(……どこで間違えたんだ)
早川太志は思う。
変わり果てた息子と対面して太志は呆然とその場に立ち尽くしていた。妻の純江は泣き崩れて遺体に縋り、「許して純太ぁっ」と動くことのない息子に謝り続けていた。
息子の純太は川で発見された。生前の姿――出て行け、と怒鳴ったあの日と全く同じ姿で、しかし顔はあの日と全く違う、とても安らかで一瞬眠っているのではと目を疑うほどに綺麗なままだった。
警察も「水死体とは思えない」とこぼすほどに、純太の遺体は美しかった。
純太は昔から大人しく、そしてやさしい子だった。
誰かを傷つけるような子ではなかったし、怪我をしてもあまり泣かない子だった。自分から「痛い」とか「苦しい」とかを積極的に訴えない子どもでもあったので、常に純江が気にかけていた。
少々甘やかしが過ぎるのでは、と時折太志は心配にもなったが、純太はそんな父の懸念とは裏腹に傲慢になることも我儘になることもなく――幼い頃のそのまま、素直でやさしい青年に育った。
そんな純太が茉奈と付き合っていることを知った時、随分驚いたものだ。なんでも純太の方から告白をしたという。大人しい子どもだとばかり思っていたのでいつの間にか逞しい男に育っていたことに、太志は思わず感動を覚えた。
茉奈は活発で愛らしい少女だった。純太と並ぶ程に背が高く、それでいてモデルのようなスタイルは目を引いたが、――しかし中身はどこにでもいる普通の少女だった。
茉奈は純太のやさしい部分に惹かれたといい、純太は茉奈の明るい部分に惹かれたとお互いに照れながら言っていた。微笑ましいふたりの姿を純江と一緒に涙を堪えながら眺めていた。
――だが、どこからかそこに綻びが生じた。
日に日に学校へ向かう純太の顔が暗くなっていたことはわかっていた。けれど訊ねても生来の性格ゆえか純太は「なにもないよ」としか言わなかった。茉奈を頻繁に連れて来ていたのに、それもぱったりと途絶えてしまった。おかしい、と思っていたあの時に行動を起こしていれば、と後悔している。
半ば強引に聞こうとも思ったが、質問攻めにすればするほど純太は貝のように口を閉ざした。親に迷惑を掛けたくないと思っているのか、自分の弱い部分を見せたくないのか――彼の口からこぼれるのはただただ、「大丈夫」「なにもない」だけだった。
(……どんなに嫌がっても聞いてやるべきだった)
妙なところで遠慮して、それきり純太に何も聞かなくなった。そこから全てが崩壊していたのかもしれなかった。
「――すみません、ここ、早川君の家ですか」
夜、突然訊ねてきたのは人当たりの良さそうな青年だった。風宮篤と名乗ったその青年は、純太と同じ高校で先輩だという。そして彼の傍らには純太と比べものにならないくらいに疲弊し、落ち込んだ顔の茉奈がいた。面食らって立ち尽くす純江に風宮は言った。
「突然お邪魔して申し訳ありません。……聞いていただきたいことがございまして」
深刻そうな彼の表情に純江は動揺して、太志を呼んだ。話だけでも聞いてやろうと招き入れて――耳を疑うような告白をされた。
「実は早川君なんですが、俺と茉奈の関係を疑って茉奈にひどいモラハラ……というか、言葉の暴力をかけているようで。それで相談されていたのですが……それもまた彼を怒らせてしまいまして……」
「うぅ……」
その日、純太は塾で帰りの遅い日だった。
茉奈の演技とは思えぬ姿に太志も純江も風宮の言うことをすっかり信用してしまった。実の息子を信用せず、他人の――それも見知らぬ男の言い分に耳を傾けるとは今思えば随分と愚かなことをしたものだ。
しかし、良い子だと思っている上、当事者である茉奈の言い分を頭ごなしに否定することはできなかった。
「……わ、わかった。息子には私達の方から話をするから……」
「……すみません、ご両親には言わないでおこうと思ったのですが……。茉奈が最近あまりにも疲れているので……」
お願いします、と風宮は頭を下げた。茉奈も鼻を啜りながら「ごめんなさい……」と力なく謝った。ふたりが帰ってしばらくした後、純太が帰宅した。太志はすぐ純太を食卓へ来るよう言った。彼は相変わらず真っ黒な目をしていたが、大人しく父の言うことに従った。
席についた純太にまず訊ねたのは純江だった。
「純太……あなた、最近茉奈ちゃんとうまくいっていないの?」
「……え」
「今日、風宮さんという方がいらっしゃったのよ。……茉奈ちゃんと一緒に」
純太の目が大きく見開いた。
「それで、あなたからひどい暴力を受けているって……」
「……」
「純太、本当なのか?」
太志が言及すると純太は明らかに動揺していた。目があちこちを見て焦点が定まらなかった。その反応に夫婦そろって「まさか」と思い、その顔を見合わせた。
「純太、本当のことを言ってちょうだい」
「……」
「純太」
「……うそだよ」
消え入るような声で、純太は言った。しかし声は震えていた。
「純太……本当のことを言うんだ。父さんたちは怒らないから」
「……」
純太は口を噤んでしまった。
思えばあの時、純太の動揺は風宮が家にまで来てしまったということに対するものだったのだろう。まさか家族にまで――と彼は思ったのだ。予想外の行動に、彼自身ひどく戸惑ったに違いない。
死んだ後になって真意がわかるとは――自らの愚かさに呆れてしまう。
「純太……まさか、あなた……本当に……」
「……寝る」
震えた声のまま純太はそう言って立ちあがり、逃げるように二階へ上がった。
その行動に夫婦は疑いの目を向けざるを得なかった。純江が泣きそうな顔で太志を見るので、彼女の肩を抱いて身を寄せた。
◇
翌日もまた風宮と茉奈がやってきて最近の純太のことを話した。ストーカー紛いのことをしている、と風宮はより一層深刻な顔をして打ち明けた。茉奈は純太の異常行動に心身ともに参ってしまい、学校を休んでいるのだという。これ以上になると警察を頼らざるを得ない、と風宮が言った。
「け、警察……!?」
「本当にすみません……。茉奈と俺は幼馴染でして……ふたりのことなのでそっとしておこうと思ったんですが、妹のように可愛がっているこの子がつらそうにしているのをとても見ていられなくて……」
「ま、待ってくれ。息子には私達が――」
「でも、早川君、何も言ってくれなかったんですよね?」
「……!!」
「……やっぱりか」
風宮のそれが芝居だとは、思わなかった。ごく自然に、彼はそう言った。
「え?」
「……早川君、最近ご両親の追及がひどいって常日頃から愚痴っているんですよ、鬱陶しいって」
そこで言葉を区切った。心底言いづらそうに――風宮は言った。
「――殺してやりたくなる……、って」
愕然とした。良い子だと思っていた純太がまさか――親に殺意を抱くなどと。
「そ、そんな……!!」
「このままじゃ、貴方がたにも被害が及ぶかもしれない……他人の俺がここまで言うのは差し出がましいのですが、身の安全のため……一度、早川君を親戚の家などに預けられた方がいいかもしれません」
「……っ」
風宮の言っていることは一見すれば正しい。しかしよくよく考えてみれば茉奈と幼馴染というだけで、家庭の事情に首を突っ込みすぎだった。だが、風宮の真に迫る表情と茉奈の怯える姿も相俟って、お互い冷静な判断ができていなかった。「警察」という単語を出されたことへの動揺もあったからだろう。
風宮の助言を夫婦に真剣に話し合い、帰宅してすぐの純太を捕まえて、席に座らせた。
「……純太、俺達は本当のことが知りたいんだ」
「……」
「純太、お願いだから妙な事を考えるのはやめて」
純江の懇願を聞いて、純太が顔を上げた。その目を見て、彼はひどく驚いていた。
(きっとあの時、俺達が既に正気ではないことに……純太は気付いたんだ……)
「……父さん?母さん?」
「純太、頼む。茉奈ちゃんのことを追い詰めるのはやめてくれ――風宮さんとの間にはなにもないんだよ」
「……!!」
「純太。どうしてしまったの、あなたあんなにやさしくていい子だったじゃない」
純太が目を見開いたまま呆然としていたかと思うと、唐突に立ち上がって後ずさりした。
「……父さんも母さんも……僕のことを信じてくれていないの……?」
「純太……?」
「風宮先輩の言うことを信じて……僕を疑っているの……?」
「私達だって疑いたいわけじゃないのよ、純太。ただ本当のことが知りたいだけなの」
「嘘だ……」
「え?」
太志は純太の顔を見て、絶望しているとは思わなかった。その顔は怒りに耐えているように見えていた。癇癪を起こす寸前の――子どもの顔だ、と。
思わず身構え、純江の前に立った太志の姿を見て、純太は殊更驚愕していた。
「……父さんも母さんも僕のことを信じてくれないんだね……!!」
わなわなと唇を震わせて、純太はそう言った。
その姿が甘える子どものように――、悪いことをやったのに謝りたがらない子どものように、太志には見えてしまった。
だから――怒鳴った。
「――純太!!」
「っ!」
「いい加減にしろ! 茉奈ちゃんのことだけじゃなく、俺達のことも殺そう、などと……!!」
「……っ!!」
「お前など勘当だっ、どこへでも行ってしまえ……!!」
口から勢いそのまま言葉が滑った。純江が泣き崩れた。
「うぅ……っ、ここまで……育ててきた恩を……っ、仇で……こんな形で返されるなんて……!!」
どうかしていたのは――太志たちの方だったのに。
純太をそうやって責めた。彼はふたりの言葉を聞いて、――怒ることも泣き喚くこともなかった。
彼の顔から、表情が消えた。
「……そう。……そうか」
何かを諦めたように純太は呟いた。
そして、背中を向けて、彼は言った。
「……ごめん」
それが純太の最期の言葉になるなどと、頭に血が昇っていた太志には考えられなかった。




