040「戻りたいとは思わない」
とある会社のオフィス。
女子社員が噂話に花を咲かせている――
「ねえねえ聞いた?」
「聞いた、聞いた。遙江さんでしょ? 飛び出してったと思ったら平気な顔して戻ってきてさー」
「ねー昔の写真見て」
「『誰ですか、このひと?』でしょ、びっくりしたわー」
「ほんとほんとー」
「しかもさ、今まで略奪してきたこと全部、忘れているらしいよ」
「はあ? まじで? あんなに手あたり次第とっかえひっかえだったのにぃ~? 忘れるってなに?」
「ていうか、キャラ変わったよねあの人」
「ほんと。ぶりっこキャラだったのに……路線変更?」
「頭でも打って記憶喪失にでもなった感じだよね」
「ショックすぎて記憶飛んじゃったのかな……」
「うわ、こわーい」
その話は当人にはなんのことか理解が出来ない。
聞こえていたとしても、自分のことだとは思わないだろう。
彼女はもう、全てを捨ててきたのだから――。
◇
「過去を失えば今までの自分もいなくなってしまうのにね、愚かだわ」
出された紅茶が冷めるの待ちながら少女――織々は口を尖らせて言った。
あの後<紅姫>の神聖なる場所――ご寝所へ案内したことが皇龍に露見し、彼は死にそうな顔で<紅姫>の前に平伏した。対する<紅姫>は「寝るところに神聖も何もないよ」とフォローを入れたものの、彼は彼自身の役目を全うすることに美学を感じているため、終始青褪めた顔をしていた。
織々はそんな顔の主を見ても「女たらしだからいけないのよ」と言うだけだった。
結論――織々があくるを招いたのは単なる嫉妬心からだった。
彼女を救うためなど毛ほども考えていない。しかし、彼女は救われると思ってその手をとり、すべて失ったのである。
「過去を消してほしい」とするあくるの望みは眼鏡の男紅凱によって叶えられた。あくるの有する『時計』を最大値まで逆回転させ、壊す。そうすることで、彼女の人生の大半は削られた。
だが結果これまで積み重ねていた経験全てが灰燼に帰す。否、塵すら残ってはいない。
「でも思い出を宝石に例えるなんて素敵な考えだね、織々」
<紅姫>の賛辞にようやっと紅茶の味にありつけた織々が目を丸くする。褒められるとは思っていなかったという感情がありありとわかる顔だった。
「わたくし、おかしなこと言ったかしら」
「いいや、俺はその考えを評価するよ。確かに宝石のように色とりどりだし完全なものも不完全なものもあるね」
「でもどれも輝いている――わたくしはそう思っているの。ねえ、彩羽は……もう、聞いてるの?」
彩羽――常に影嗣の傍らにいる白い犬の名である。今は犬ではなく、獣の耳を生やした少女の姿をしていて無心でクッキーを頬張っていた。織々は話の輪に一切入ろうともせず、お茶請けを独り占めする親友の姿に苦言を呈するが、彼女の方は『苦言』とも受け取っていないようで、「なんふぁひっはは?」と返すばかりだった。
「〝何か言ったか?〟じゃないわ、彩羽。折角のお茶会なのよ、少しはマナーを」
彩羽は頬袋を満たしていた中身を嚥下すると少しばかりげんなりした表情で織々を見た。
「おまえ、口うるさくなったな」
「……まあ!」
今度は織々が不満を中身に頬を膨らます番だった。子どもっぽい彼女の姿に彩羽は肩を竦める。
「マナーだのなんだの知らねえよ。食ってもいいって言われてっからオレは食ってるんだぞ……あ、すみません、膠さん――お代わりってありますか?」
人の話を一切聞かぬ彩羽である。
対する<紅姫>膠はその様子がおかしいようで、くすくすと笑いながら「ちょっと待っててね」と背後の襖に声を掛けた。
「紅錯、クッキーのお代わりあるかな」
言うとすぐ襖が開いて、無表情の男が大股に部屋に入ってくる。見事に空っぽになった器と彩羽の食べかすだらけの顔を見て合点のいった紅錯は「……多めに持ってくる」と言って、そのまま去っていった。
「なんだよ」
「……彩羽ったらもう。……仕方のない子だわ」
呆れながらも織々は微笑ましそうだった。
ふたりの関係も生前から繋がっている。もともと仲が良かったわけではない、寧ろ似て非なる生き方のおかげで衝突は何度もしたという。
詳細に関して調べればすぐにわかることだったが、それはふたりの思い出。織々が言うところの『宝石』だ、泥棒は品がない。
「過去、現在、未来――全てはひとつの線の上にある。どんなに傷つき汚れ捨てたいと思っても、かけがえのない財産……けれど、知るには少々痛みを伴うこともあるね」
「宝石だって殴打すれば痛いもの」
彩羽はお茶請けを待つ間に寝るつもりらしく、犬の姿に戻って体を丸めていた。
誰も咎めることしない、常に気を張って主を守り続けてきた役目から解放されたのだからと積極的に寝かせてやっている方が多かった。
暫くして彩羽の立てる寝息をBGMに織々は話し出す。
「わたくしの過去も彩羽の過去も痛みを伴うわ、それにいい経験とは言えないわね」
「それはその世界を知らない者にとっての『最悪』だよ、君が生きていた世界ではあれが極めて『普通』だったさ」
「だとしてもお勧めはできません――だってひとを的か何かと思え、と年端もいかぬ子どもに教える世界だったもの」
銃を握ったのは三歳の頃。ひとを初めて撃ったのはその次の年。生まれながらに殺しの極意を教え込まれ、いかに効率的に殺戮し、迅速に任務を遂行できるかだけが全てだった織々の世界。
すっかり過去の産物に、『宝石』に形を変えたものだったが恐らく。今でも、銃を握ればその『礼儀』に則って体は勝手に動くだろう。だからこそ、『門番』の――ある種一番危険を伴う彼らの傍にいられるのだけれど。
「俺だって同じさ。同じ――というのは種族としてと言う意味だけれど。俺たちは消耗品だった、それは力としてでもあり性としてでもあった。こびりついた悪臭は当時なかなかとれなくてね、大変だったよ」
「服が血で汚れすぎたときは廃棄しておりましたわ、懐かしい」
物騒という言葉が似合うふたりの会話。
しかしそれらもまた、現在を煌々と照らす光の一部分である。
「ねえ、膠さま」
「なあに」
「膠さまは捨てたい――とお思いになることはあるかしら」
「え?」
「過去――『宝石』たちを」
時折悪夢を見る。
消費される自分を俯瞰する悪夢を。
拒絶すれば酷くなるばかりの行為に、媚びへつらい相手の喜ぶ術を必死になって覚えていたあの頃。気持ち悪い笑みを浮かべて、おぞけの誘う甘ったるい声で、好きでもない相手に愛を囁いている自分。
なにもかも鮮明に現実だった過去。どす黒い光を放つ『宝石』――膠は考えた。
その『宝石』を抱いた結果として、膠は今幸せだった。死を願うあの日々に光をさしてくれたのは紛れもなくあのふたりであり、その後更なる幸福を牽引してくれたのはあの青年だ。
真っ黒な目をした膠がいなければ、<紅姫>は存在していない。
「……いいや」
緩やかに膠は首を振った。
予期していたように織々は微笑んだ。
「戻りたいとは思わないけれどね……でも、捨てたいとも思わないよ俺は」
「……ええ、わたくしもおんなじですわ」
その時、襖が開いた。
クッキーを山のように盛った器を手に、紅錯がやってきた。匂いがしたのだろう、彩羽はバネ仕掛けのごとく飛び起きて尻尾を左右に大きく振った。
その様子があんまりにもおかしくて――織々と膠は思わず口を押さえた。
思い出は経験が凝縮した『宝石』。
抱いたそれがひとより小さかろうと大きかろうと――『宝石』である事実にはなんら変わりはない。
決して、捨てるなかれ。今までの自分を変えようと思うなら、猶の事。
今を変えるために、過去は存在するのだから。




