04「君はどうしたい?」
どっと疲れの溜まった七葉はそのままお風呂にも入らずに眠っていた。朝起きて慌ててシャワーを浴びる。
(現実だ)
間違いなく、昨日の体験は現実だった。夢ではないと頭がはっきりと覚えている。
――君には見えていても見ていないものがある
<紅姫>はそう言っていた。一体何の話か、七葉にはさっぱりわからない。
(私にはわからないことだらけだな……)
『先生』に関することならきっと知らないことも多いだろうけれど、だからって見ていないわけではない。けれど――『先生』のことをくまなくすべて、知ってしまうのが恐ろしいと思っているのも事実だった。
全てを知ってしまえば致命的に何か失う気がして、怖かった。
(気のせい……だいじょうぶ……)
七葉は言い聞かせる。
そうしていないと、今までの全部が嘘になってしまいそうだった。
◇
学校の様子は何も変わらない。噂好きの鈴香がいろんな噂を持ってきて、冷静な文美がクールに返すだけの何気ない日々。彼女たちにも自分と同じような秘密があるのだろうか、彼女たちに相談することができれば、自分の心のこの妙なわだかまりは消えるのだろうか。
そう考えた時期もあったが、『先生』との約束を破るわけにもいかず、七葉は隠し続けていた。隠し続ける期間が長ければ長いほど、わだかまりは膨らんでいく。錘のように胃の底に沈んで気持ち悪かった。それでも――失うよりはマシだ、と思っていた。
「なな、あんた大丈夫?」
その声は文美の声だった。姐御肌の友人、いつだって自分の異変に気付くのは文美だった。
「……え?」
「すっごい顔色悪いよ? 具合悪いんじゃない?」
「えぇ? ななっち、だいじょーぶ!? 保健室行ってきなよ!」
「……あ、え……だ、だいじょうぶ。平気だよ」
「いやいや平気ってカオ、してないから。行ってきなよ、先生には言っておくからさ」
「うんうん、ふーちゃんにサンセー!」
ふたりに押し切られて七葉は抵抗できず、大人しく言う通りに保健室へ向かった。事情を話してベッドに横たわる。カーテンに仕切られた小さな個室で、胎児のように丸くなって七葉は考えていた。
(『先生』、今どこにいるんだろう)
(何しているんだろう)
ひとりになるといつも『先生』のことばかりだった。考えれば辛いのは七葉なのにどうしてもやめられなかった。出張を告げられてから一度も『先生』からの連絡はない。これもまた、『先生』との約束のひとつだった。
――会いたくなるから連絡禁止
そんな風に笑いかけられては七葉もうんとしか言えなかった。本当は電話をかけたいし、メールやメッセージなどを交わしたいと思っている。でも約束を破って嫌われるのが怖くて、できなかった。
誰にも言えない秘密が体中を蝕んでいく。
「……せんせぇ……」
会いたいよ。寂しいよ。抱き締めて。キスして。
どうして自分がひとりなのか、七葉にはわからなかった。両親が亡くなって祖父母もいなくて、ひとり暮らしの家に帰っても『先生』からの連絡があるからひとりじゃないと思えたのに。
今はそれもなくて、本当に七葉はひとりぼっちだった。
(どうして私をひとりにするの……)
どうしようもない寂しさが怒りになって、でもそんな自分が嫌で。
自己嫌悪を抱えながら七葉は目を瞑った。涙が静かに流れていった。
◇
結局、七葉は早退することになった。
ぐるぐると胃の中で巡る気持ち悪さがとれなくて、午後の授業を受けられる気がしなかったからだ。まだ日の高い帰路を辿る先にあの屋敷があることを、七葉はどこか心の拠り所にしていた。七葉の心は『先生』によって救われたはずなのに。
「……あ」
『桜雲館』はそこにあった。『門番』ふたりの間から、誰かが出てきた。若い女性だった。女性はぺこりとお辞儀をすると七葉の方へ歩いてくる。顔色は悪く、今にも倒れそうなほどにやせ細っていた。
(……え?)
ふわりと、風に乗って香ったのは『先生』がつけている香水だった。――まさか、偶然だろう。どこにでも売っているような香水だろうから、たまたま同じだっただけだ。
七葉はそう思うことにした。
メンズの香水を、香りがいいからと使うものも多いだろうし、と頭の中で付け加えて。
皇龍が七葉に気付いて愛想よく笑って手を振ってくる。
「お帰りなさい、七葉さん」
「……あ……ただいま、……おう、りゅう、さん?」
「はい、皇龍と申します。天皇ののうに、難しい漢字の方の龍ですね」
「……はあ」
「あ、影嗣ってすごく説明しづらい名前ですよね、紙に書いた方がいいかもしれません」
「……うるせえ、他人の名前に文句つけてんじゃねえよ」
言われた影嗣が嫌そうに顔を歪めた。対する皇龍は「まあまあ、そう短気にならずに」とどこ吹く風である。刹那、影嗣のこめかみに青筋が立った。
「てめえが言ったんだろうが……」
「はいはい、後で話は聞きますねえ~……とりあえず、お帰りなさい。七葉さん、お立ち寄りになりますか?」
「……あ……えっと……」
「お顔色が悪いようなので少し休んでいかれては? 俺たちがいるので<紅御前>もお手すきですよ」
「……そうですね」
皇龍の饒舌さに押し負けて、七葉は頷いた。正直、また<紅姫>に会いたいと思っていた。会って話をすれば何か、見えるかもしれないと。
「それではどうぞ。また姫綺さんがご案内してくださいますからね~」
門が開く。七葉は導かれるように足を進めた。またがしゃん、と煩く音を立てて閉じる。その瞬間この空間が外と断絶された気持ちになるのはきっと気のせいではないだろう。
「あらあら、まあ。お顔色が悪いですよ? 大丈夫ですか?」
出てきた姫綺は開口一番、七葉の体調を慮った。
「<紅姫>様のところへご案内した後に、何かお飲み物をお持ちしましょうか?」
「……え、いえ……そんな……」
「生姜湯など、お嫌いでなければ」
「い、いえ……そんなご迷惑を」
「全く迷惑などではございませんよ。蜜で甘くしておきますからあとでお持ちしますね」
やさしい姫綺の声と共に七葉はぴょこぴょこと動く狐の耳を見て、
(やっぱり、本物なんだ……)
と妙なところで現実を感じていた。
「さあ、参りましょう。お足元、お気を付けて」
「……ありがとうございます」
七葉は促されて土間を上がる。
――勿論、履き物は脱いで。
◇
昨日とは違う道順、のような気がした。
屋敷は全体的に暗く、天井からぶら下がる星や月の形をした明かりだけが頼りなので道がわかりづらかった。催したらどうするのだろう、と頭の隅で考えながら先頭を行く姫綺が立ち止まった。
以前は廊下沿いに襖があったが、今日は正面の襖が出現している。やはり道順が違うらしい。
「<紅姫>様」
昨日と同じ声が、襖の向こうから応答する。
「はあい」
姫綺が襖を開き、どうぞと道を開けた。
「!」
<紅姫>の格好は昨晩とは大きく異なっていた。
本棚の並んだフローリングの部屋だ。背の高い本棚が囲んでいる中心に、<紅姫>がいた。
彼女の格好は紐、だった。あれは衣服とは言わない。紐を纏った<紅姫>は上から柄の違う着物を羽織って、直に絨毯の上に座っていた。彼女の周囲には瓶詰にされた金平糖と飴玉が置かれていた。髪の毛もベールのように下ろしておらず、平安時代の貴族のように先の方だけ赤い紐で束ねている。
「……え? な、なに……は?」
素肌に着物もかなり過激だったが、今回の衣装もかなり過激だった。女の七葉でもどこに目をやっていいかわからない。その恰好で男三人を侍らせているので、何も知らない者が見れば彼女が性的に奔放な性格をしていると勘違いするのではないか。七葉はいらぬ心配をしていた。
「やあ七葉。……どうしたの? 顔赤いけれど」
「……えっだ、……なにそれ!?」
思わず七葉が指をさす。指摘された<紅姫>は「ああ……」と言って胸の部分に交差する紐を引っ張った。そんなことをしたら隠しておくはずのものが見えてしまう、と七葉は顔を手で覆った。
「知り合いの悪趣味でね。別に俺は服なんかいらないのだけれど」
「し、知り合い?」
「そう、知り合い。いろいろと世話になっているから無下に断ることもできないし……仕方がなく着ているんだ。まあ、みんなそれとなく嬉しいみたいだから結果オーライだね」
「う、うれしい……?」
ちらりと男たちの様子を見る。
男たちは本棚の前で整然と並んでいた。銀色の髪の青年凛龍は後ろで腕を組んだまま視線を外し、白い縁の眼鏡をかけた男紅凱はにこにこと笑っていて、彼と同じ顔で眼鏡をかけていない紅錯は相変わらず無表情だった。
「視線に困るなら俺の目でも見ておけば?」
「……自覚はあるのね……」
「この格好で外に出歩こうと思わない程度にはね」
言いながら<紅姫>は瓶の中の飴玉を口に放り込んで転がした。
「体調悪いんでしょう? ほら、生姜湯」
<紅姫>が顎を指し示す方を向いて七葉は目を見開いた。そこにはもう姫綺が湯気を立てる湯呑みふたつ、おぼんに乗せて立っていた。
「い、いつの間に……」
「姫綺は準備がいいから。蜂蜜が入っていて美味しいよ、姫綺の作るものは市井の子たちが大好きなんだ」
「……しせい?」
聞き慣れない単語を問い返すが、<紅姫>は説明しなかった。姫綺が七葉と<紅姫>双方の前に湯呑みを置いて足音もなく部屋を出て行った。
<紅姫>が口をつけるのに続いて、七葉も口をつける。
(……あったかい)
じんわりと染みわたるあたたかさと、少しだけぴりりと感じる生姜の辛み。しかしそれと見事に調和した蜂蜜の甘味。
――そういえばいつだって行為に耽る直前、『先生』は飲み物を差し出してくれた。
緊張で喉が渇いているだろう、と気遣ってくれてのことだった。
けれどその時とこの生姜湯は違う。心のなにか、黒いわだかまりを溶かしてくれるようなそんな気分にさせた。
「隠すことに慣れていないと秘密は苦しいよ。――ふたりだけの秘密って特別な気持ちにさせるけれど……特別な関係じゃなくて言える約束事だと思わない?」
「……え?」
本当に思いついたように、<紅姫>が言った。本棚に背を付けて立っていた凛龍が腰を浮かせて、<紅姫>の後ろに座る。足の間に挟むように広げて、顎先を彼女の脳天に置いた。
「ん……? ちょっと痛いよ凛龍」
「……すんません」
言われた凛龍が顎を離した。
「……えっと」
話の続きを探す七葉よりも先に、<紅姫>が言う。
「特別ってなんだろうね?」
首を傾げる<紅姫>。背中を倒して凛龍にもたれた。
「それは……他とは違うって……意味で……」
「ただひとりって意味ではないよね」
「!」
七葉は大きく目を見開いた。
「俺にとって三人とも特別で大切なんだ。――これっていけないことだと思う?」
柔和な笑みを浮かべた紅凱が腰を上げて右側に近寄った。そっくりな顔で対照的に無表情な紅錯もまた、同じように左側を陣取る。
「い、いけないこと……では……」
「でも世間的にはあんまりいい目ではみられないね、君が最初びっくりしたみたいに」
<紅姫>の指が動いて、紅凱の髪の毛をすくった。
「……何が、……言いたいの?」
「君にとっての大切がひとつでも、誰かにとっての大切がひとつじゃないってことが往々にしてあり得るってこと」
「……『先生』が他にもああいうことする人がいるって言いたいの?」
「いるかもしれないって――君が、思っているんだよ」
――<紅御前>は『魂』の記憶を見ます
皇龍の言っていた言葉が不意に思い出された。
彼女には今、七葉が思っていることが見えているのだ。
「それが不安。でも秘密だから誰にも言えなくて苦しい。……楽になる方法はひとつだけ」
紅錯の指をすくって、<紅姫>が口づける。
「彼自身に確かめること」
どくんっ
鼓動が大きく、馬鹿馬鹿しい程はっきりと――跳ねた。
冷や汗が滲んだ。
「でも、君に今その覚悟がない。会いたい気持ちと確かめたい気持ちがせめぎあって、体中が熱い」
「……やめ、……て……」
「燻った熱はどこへ放とうか? 自分で慰めてみる?」
「ぃ……や……」
「どうして君の体には熱がこもるの?」
「……や、……いや……!」
「誰がそんな風にしたの?」
「……いや!」
七葉は立ち上がった。
ぶるぶると体中が震えている。心臓が早鐘を打っていた。気持ち悪さよりも恐ろしさが全身を包んでいた。指先から段々と冷えていくのがわかった。
「遠距離恋愛って好きであればあるほど、体に熱がこもるから誰かに慰めてもらいたくなりやすいのかなあ……俺はしたことがないからわからないけれど」
「……離れたりしねえんで、そういうのやめてください」と弱弱しく凛龍が言った。「ごめんね、冗談だよ」と<紅姫>が謝って彼の頬に短く唇を寄せた。
「……わ、私は……」
「七葉、体を交わすことなんて容易い。それこそ男なら出すだけだからね」
「……『先生』は……」
「気持ちよければどうでもいい、なんでもいい。――そんな風に思ってセックスする連中だっているさ。悪いことではないけれど、悪用されることの方が多い思想だ」
「ちがう、……『先生』は……ちがう……ッ!」
「どうしてそう思うの? それは君が確かめたの?」
「だ、だって……『先生』は……!!」
どうして信じられる。どうして信用している。どうして、疑わないでいられる。
会いたいと言えば会ってくれるから?それとも『好きだ』と――
――好き?
「……い……われて……ない……」
七葉は気付いてしまった。
自分が見ていなかった事実に。知らないふりを続けた現実に。
『先生』は一度だって七葉に『好き』とか『愛している』とか言ってはいないのだ。
『気持ちが良い』とか『可愛い』とかは頻繁に言うけれど、肝心の心に触る言葉はなにひとつだってもらっていなかった。
「……言われていないんだね」
「……言われてない……私、一度も……」
「……そう。……言わない愛情もあるけれど、この場合は少し違うみたい」
「……『先生』は……私のこと……好きじゃない……」
「……」
崩れ落ちる七葉に、<紅姫>が紅凱を支えに立ちあがってふらつきながら近づいた。倒れるようにその場に膝をついて、七葉を見る。
「七葉、君はどうしたい?」
「……私は……」
決めるしかない。七葉はひとりぼっちだから。
――自分のことは自分で決断する以外ない。
夢から覚めるためには、自分の頬を自分で叩くしかないのだ。
いや、違う。これは夢ではない。夢を見ていたいと思っているだけで、本当は。
「……『先生』の気持ちを……知りたい……」
傷だらけになる選択だとしても、それを選ぶしか今の七葉にはできなかった。
後戻りをするには、歩きすぎてしまったから。