039「これでやっと」
豪邸の裏手に回った少女が扉を開く。
見た目の派手さとは裏腹に内部の彩りはほとんどなく、歴史の教科書などでよく見るような竈や米櫃などが雑多に置かれていた。台所のようである。
「ここは裏口よ、普通はこちらからひとは入れないわ。でもわたくしは『門番』ではないから――『正門』からお通しすることができないの」
「……なにここ」
「見ての通りよ」
少女はそれ以上なんの説明せず、間を抜けていく。その後を追うしかできないあくるは鼻腔を微かに通り過ぎる味噌の香りになんとなく幼少を思い出していた。
母の料理が好きだった。たくさん食べるあくるは可愛いね、と父が言った。狭い家だったけれど、あたたかみがあって幼いあくるにとっては天国のような場所だった。
けれど、それは仮初である。
真実とはもっと、泥のように真っ黒な場所に存在している。
食べた栄養素を全て蓄えた体は丸く育った。そのことを近所の、顔も知らない年配の男が「太っているなあ」と何気なく言った。その時あくるは言葉の意味を良く理解できなかった。けれど確かに悪意のようなものは感じていた。そのまま飲みこむと喉のあたりがいがいがするような嫌な気分だった。
不意に蘇った思い出を振り払うためにあくるは、前を歩く織々に声を掛けた。
「ねえ、私をどうする気なの」
「あなたの愚かな望みを叶えていただくのよ」
ちらりとも振り向くこともなく、織々が答えた。少しだけ苛立ちながらあくるが反応する。
「はあ? なにそれ」
「あなたが<紅姫>さまのお話を聞いて、気が変わらなければね」
「望みが叶う? それじゃあなに、私の過去を全部消してくれるってこと?」
「そうよ」
さらり、と不可能であろうことを織々は肯定した。ぎょっとなったが、じわじわとその単語の意味を理解するとあくるの口元が自然と綻んだ。
(過去を……捨てられる……?)
にかわにあくるに希望の光が差す。こんな惨めな思いを全て消してしまえるのならどんなにいいか、あくるは想像しただけで興奮した。あくるは小さく胸の前でガッツポーズをして下唇を噛んで、こぼれそうになる歓喜を押し殺した。
台所を抜けると廊下に出る。長い長い――果てのないように思える廊下だった。
壁には均等に並んだ燭台の上に蝋燭が立てられていて、仄かな光で真っ暗な廊下を照らしていた。あくるは少女の後を無感情にくっついて歩いていた。
全てを消してくれるのならなんでもいい、この瞬間でさえ邪魔だと思っていた。
静かに廊下を歩くふたつの足音――途中、少女がぴたりと足を止めた。
桜吹雪の舞う襖だった、じいっと見つめてから数秒少女は声を上げる。
「<紅姫>さま? いらっしゃるかしら、織々です」
少女の名乗りに、ほんの少しだけ物音がした。それから、
「――はあい」
と中性的な声が応答した。
少女織々は襖を開く。床一面を毛足の長い赤の絨毯が覆い、家具も赤を基調としたものが多かった。室内を見回していたあくるは答えた主と思われる人物と目が合った。欄干にもたれている姿は人形のように美しかった。
彼女は首元に赤いレースのチョーカーをしていて、下半身には紐で編まれたような見た目の下着。上から薄手の着物を羽織ったその姿は少女のようにも成熟した女にも見えた。
長く白い髪の毛を尻に敷いて座る彼女は緩やかに微笑んだ。
「やあ、はじめまして」
彼女の背後で赤い花が舞い踊っている。薔薇でも梅の花でもなさそうな――見たこともない花だった。宵闇に流れていく様はふきすさぶ吹雪のごとくだった。
「俺が――<紅姫>だよ」
やわらかな声が耳朶を打つ。
あくるは自然とその場に座り込んでいた。
◇
織々が猫の姿に戻って、彼女の――<紅姫>の膝の上へ向かった。ちょこんと乗っかった猫の頭を、<紅姫>は撫でた。
入り口から見て左側には箪笥類、右側は再び襖だった。描かれているのは春画である――題名こそわからなかったが、男女が絡み合っていることだけあくるは理解できた。
「君はどうして過去を消したいと思うの?」
<紅姫>が訊ねるので、あくるは視線を落として答えた。
「……いらないから」
拗ねるような彼女の返答に<紅姫>は笑った。
子どもを見守る母のような慈愛の瞳だった。
「いらない? どうして?」
「……暴かれたくない秘密よ、捨てれば暴かれずに済むでしょ」
「そうだね、最初からなかったことにすれば簡単だね」
火のない所に煙は立たぬ。
過去の自分がいなくなれば、今の自分だけが本物になれる。
あくるはそれが最適解と思えて仕方がなかった――だから早くそれを適用してほしいと思っていた。
急く心を見透かしているのか定かではないが、<紅姫>の言動は緩やかだった。
急転直下の展開だというのに、彼女の口調はやわらかくあくるが何を言っても動じない雰囲気がある。
「なんでもいいじゃない、ねえ早く私の」
「俺は整形って、自分をすごくよく知っているひとが成せる魔法だと思っているよ」
あくるの言葉を無視して<紅姫>は言う。
「は? なに? そういうのいいから……」
「君はたぶん自分のことをよくわかっているんだと思う」
「いいって言ってるでしょ、早くして!!」
「――うるせえな」
そう言って右側の襖が開いた。
隙間からこちらを見て一瞬驚いたのは、銀髪の青年だった。
裸身である――あくるは思わず思いっきり目を背けた。
「……あ? ……<紅姫>さん?」
「君たちのお腹が空くのが早かったんだよ、仕方がないからここに呼んだの――何か問題があったかな?」
<紅姫>の言い様は僅かに刺々しい。だが、取り立てて責めるような口調ではなかった。文句を言いたそうだった青年を牽制するような物言いだった。
「……うっす」
「着替えておいで凛龍。あと、ふたりを叩き起こして」
「……わかりました」
不承不承といった風ではあったが、凛龍と呼ばれた青年は再び襖を閉じる。
中で「起きろこら、おい!」という怒号が聞こえた。
「ああ、ごめんね。本来であればここに客人は呼ばないんだ」
「……ここ?」
「ここは寝室――身を休める場所。まあ俺の場合、休むというより働くんだけどね」
肩を竦めて説明する<紅姫>に、あくるは黙っているしかできなかった。
否、妙な茶々をいれて話が停滞するのを恐れていたから黙っていた――と言う方が正しい。
あくるは焦っていた。
このままの状態が継続してあらゆる場所に自分の秘密が流布されたら?
かつて過去を嘲笑った者たちにまでそれが伝わったら?
捨てたはずの過去に足を引っ張られるという感覚が、あくるにはどうにも気持ちが悪く耐え難かった。
「――焦っても何もいいことはないよ」
心の表面を撫でるような声で、<紅姫>が言った。
ぐ、と奥歯を噛み締める。
「急がば回れ、というでしょう? 急いては事を仕損じる、ともいう。焦りは禁物さ、冷静でない判断は最良な結果はもたらしはしないから」
「……いい加減にして」
自分が弄ばれているような感覚だった。
自在に操られるままの操り人形――出鱈目に動かされている姿を観客席から笑われているような居心地の悪さに、あくるは声を上げた。
「君は」
「私の望みを叶えてくれるって話だったわ、違うの?うざい御託なんかいらないの、いいからさっさとしてよ」
早口にまくしたてるあくるに猶も<紅姫>は冷静だった。
澄んだ瞳は夜空の色をしていて、静寂の中に一切の感情を見せていない。
「会話は選択肢の幅を広げるための足掛かり、無駄な話をしているつもりはないのだけれど――君にはもう考える余地も余裕もなさそうだね」
「うるさいっ――早くしろ!」
あくるは立ち上がって<紅姫>に近寄ろうとしたが、強い力で後ろから引っ張られて態勢を崩した。尻餅をついた彼女を見下ろしたのは寝起きと思われる顔をした男だった。
金色の瞳と紅の瞳――その両方が冷たくあくるを見ていた。
「……え?」
男は何も言わないまま視線を前に戻す。その先には<紅姫>がいて、彼女の周囲にはふたりほど人が増えていた。白い縁の眼鏡の男と先程襖から現れた銀髪の男だった。
「わかったわかった。焦らないで、ちゃんと叶えてあげるから……ただ代償はいるよ、それでもいいの?」
<紅姫>が降参だという風に両手を上げて溜息まじりに言った。
『代償』と言われてもあくるの険しく、焦る表情は変わらなかった。
「構わない、辛い思いならアンタの倍はしてきているもの」
「そう」
果たしてこの時、あくるの示す『辛い思い』とやらが<紅姫>の経験した辛酸と同程度であったかは知れぬ。しかしあくるには他人の傷の痛みなどどうでもいいのである。
大切なのは――自分が苦痛を感じるかどうかだけ、この世の不幸とは即ちあくる自身が経験し体験したものが全てだった。
「究極の自己中心的……だからこそ君は君自身の汚点を許すことができないのかもしれないね」
「はあ?」
「いいや、なんでもないよ。――代償というのは君の『魂』。死にはしないよ、君はひとをたくさん傷つけてきたようだから消えることはないと思う」
「言っているイミがわかんないんだけど。タマシイ? なにそれ」
「生命の根源、実存の象徴……まあいろんな言い方ができるけれど、早い話が致命傷にはならない程度の大切なモノって意味合いかな」
「あっそ、わかったからさっさとしてくれる?」
横柄な彼女の態度にふたりの男が眉をひそめたが、手を出すことはなかった。
彼女の『代償』は恐らく『魂』くらいで済むものではない、とわかっているからかもしれない。
<紅姫>は猫を撫でながら唱える。
<契りは交わされた>
唱え終えると同時にあくるの胸の中心から、丸い球体が抜けていく。少しだけ熱さを感じるそれが『魂』――光る球体は<紅姫>の口元へ向かうと彼女の小さな口腔内に仕舞われた。
<汝が『魂』を以てその望みを叶えよう>
「……ああ、これでやっと私」
安堵から、笑みがこぼれた。
その様子を見て、<紅姫>が呟く。
「変わることができるよ――全くの別人にね」
憐憫を含んだ言葉は、もうあくるには聞こえていなかった。




