038「消えてなくなっちゃえばいい」
電話帳に入っている電話番号に片っ端から連絡を取ったが、繋がらないか繋がってもすぐに切られるかいずれかだった。水見の根回しかもしれない――仕事のできる女だった。嫉妬深い気はしていたがここまで根が深いとは思わなかった。
あくるが誰もいない公園に辿り着いたのは、太陽の傾きかけた橙色の時間だった。疲れて座ったベンチの隣で、「魔法が解けてしまったのね」と声を掛けられた。
「……?」
声のした方を見ると、少女がいた。
紫陽花色の長い髪をふたつに振り分けて、猫の耳のようにとがった髪飾りでまとめている。首元にはレースのチョーカー、体を包むのはあちこちにフリルをほどこした真っ黒なワンピースドレス。背中についた大きなリボンが尻尾を連想させた。
「……あなたって……」
「にゃあお」
彼女は拳を作ってそれを前後に動かした。猫が顔を洗うように。
直感する――夢で見た猫だ、と。
可愛らしい少女だった。とろんと眠そうな瞳は紫色の『宝石』のようで、夕日に輝いて不思議な色合いを見せている。
「……やっぱり、可愛いじゃないの」
あくるが下を向くと、「あら」と少女は首を傾げる。
「わたくし、言ったじゃない。皇龍さま以外に言われる『可愛い』なんて要らないって」
「……え?」
「あなたに言ってもらう『可愛い』なんて必要ない。皇龍さまからいただくものがわたくしの全て……ああ、でも彩羽からは言われたいわ、『可愛い』って」
少女はあくるが気落ちしている姿など見えないかのように語り出す。
「……黙っててくれない、今私……」
「『可愛い』って文字を変えると『可愛そう』になるわね。『可愛い』ものって同時にとても弱く見えるからかしら?確かに子猫や子犬なんかはすぐに獣に食べられてしまいそうで可愛そうね」
「……うるさい……っ」
「あなたはどうかしら? 食べられてしまいそうかしら? ――あなたはとってもまずそうね」
「……だまって、……っ!」
「食べる気が起きないわ、スパイスのかけ過ぎは厳禁だって言ったでしょう?」
「黙ってって言ってるでしょっ!?」
あくるは、また――叫んだ。
少女は言われた通り口を噤む。きょとん、とした顔は子猫のようだった。
「……もういや」
「……」
「……どうして……どうして駄目なの……」
『可愛い』を欲した。傷つかないために。
血が出なくたって、引っ掻かれた程度のことだって、痛いものは痛いのだ。
ずきずきと痛んで、あくるを苦しめた。だから痛くないように――あくるは自分に魔法をかけた。
あらゆる手段を使って、自分を守った。
守ってきた傷口が一斉に開いてしまった。
溢れ出す赤い血液が、全て涙に変わるような思いだった。
どろどろと零れていくのは今までの自分を形作るなにもかも――暴かれたことで栓が抜けてしまってもうあくるにはどうすることもできなかった。
「……なんで……なんで、駄目なのよぉ……」
――涙が頬を伝って地面を濡らした。
涙は女の武器だとどこかで聞いた。確かに涙目になれば状況が好転することが多かった。だからあくるは涙すらも利用して生きてきた。
自分が傷つくことのない方法を模索してきたのに。
たったひとつ、開けてはいけない箱を開けたことで――壊れてしまった。
鼻をすすって嗚咽が漏れた。うまく息が吸えず、引き攣った呼吸がこぼれる。
「……っひ、ぅ……うぅ……」
「――何も駄目なことなんてなくってよ」
駒鳥が囀った。
少女がベンチを降りてその場で一回転する。レースが風に靡いて揺れる様は、天使の羽が羽搏くようだった。
「え……っ?」
少女は踊る。
煌びやかな陽光のシャンデリアを浴びながら。
それは幻想的な光景すぎて、あくるは一瞬にして彼女に目を奪われた。
翳る顔立ちも人形のよう、透き通る素肌は暮れる日に染まって実に美しかった。
「綺麗になるのも可愛くなるのも手段も努力も誰かに否定されるものではないわ」
フリルが揺れる。レースが揺れる。
風に舞い踊りながら、少女はステップを踏んでいた。
「否定はされないけれど――理解されにくいこともある。それってきっと持っていないものだから。けれど持ち得ない『宝石』の輝きをどうやって知ろうというのかしら。持っている『宝石』でひとは輝くしかないのよ」
「……『宝石』?」
馬鹿馬鹿しい、とあくるは鼻で笑う。
少女はふわりとスカートを膨らませて静止した。じいっと見据える目は獲物を狙う猫のようでもあり、無垢な少女のそれでもあった。
「……持っているひとはいいわね」
「持っているわ、あなただって」
「持ってないわよ、だから――」
「ひとは誰しも『宝石』を持っているものよ」
「持ってないわよ!!」
叫ぶ。
最後に残ったのは宝石箱の片隅で、少しばかり虹色に輝くものだから物珍しいと仕舞われていた小石だった。
必死に磨いて『宝石』になれたと思ったのに――「これは本当はただの石なんですよ」と宝石商に笑われて全ては終わってしまったのだ。
しかし、少女のきょとんとした顔は変わらなかった。
「なによ……なんなの、その目は……」
「……」
「なに!? 持っている人間だったらなんだって慰めを言えるわ、ええ、いいでしょうね!? 顔をカンタンに! すごくカンタンに馬鹿にされるこっちの気持ちなんてわからないでしょうよ!!」
ひとと違うことを『個性』といって受け入れなさい、と言う。
あくるはこの言葉が幼少の頃より大嫌いだった。
そんなものはおままごとの関係性なら成り立つ普遍的な世辞に過ぎない。この世の中、『個性』という言葉に隠された悪意で自分自身は傷ついている。
『個性』だのなんだの言いながら、いざとなれば容易く拒絶するのが『他人』だったから。
「……あなたは」
「いい加減にしてよ!! なんなのよ!! 顔変えたぐらいで、なんでこんな思いしなきゃいけないのよ!!」
「ねえ、あなた」
「うるさいうるさいうるさいうるさい!! 可愛いヤツらなんかにわかるもんか! 私の気持ちなんて――」
「煩いのはあなただわ、少し黙ってくださらない?」
「……ッ!」
少女のやや強めの指摘に、あくるが口を噤む。
「『宝石』というのは造形の話ではないの。思い出――過去の話よ?」
「……は? 過去……?」
「ひとは誰しも過去を持つものだわ、だって今があるのですもの。あなたにだってあるでしょう、過去。それがわたくしの言う『宝石』よ?」
「……はぁ?」
感情が途端に落ち着いた。
解釈違いをしていたらしい――が、どうもしっくりこない答えにあくるは顔を歪ませる。
「なんで、過去が『宝石』なのよ……」
「どんな形であれ思い出だもの、きらきら輝く今を照らす光……大切なものだわ」
「……」
過去。振り返りたくない自分の残りかす。
あくるは押し黙った。
過去の自分に報いるために施した魔法。しかしかつての自分が今ある魔法を蝕んでいる。
悪はどちらか、明白だった。
「……大切なんかじゃない」
「え?」
「……ぜんぜん、要らないわ。あるからいけないのよ、私の過去なんて……」
「あら」
「今の私を否定するものはぜんぶ……っ! 消えてなくなっちゃえばいいのよ……!」
振り絞るように吐き出した呪文。
きっとそれはあくるが最後にかける魔法だった。
「――そう、捨てたいと思うのね」
少女の声が響く。
あくるは茫然と頷いた。残りかすがへばりついているから、自分はこんな惨めな思いをしているのだと半ば確信に近い気持ちでいた。
壊されたのは心の均衡だったのであろう――正気とも狂気ともいえぬ、あくるの天秤は揺らいだままだった。
「ええ……できるものならね……」
「――わかったわ、構わなくってよ泥棒猫さん」
「……は?」
何を言われたのかわからなくて、あくるは顔を上げる。
そこに広がっていたのは――屋敷だった。
赤い屋根の豪邸。今さっきまで公園だった面影などどこにもなく、当たり前のような顔をして聳え立っている。
「捨てるなら覚悟なさい。それは貴方諸共捨てることを意味するわ」
陽光は完全に隠れ、あくるの周囲を黒く薄い膜が覆っていた。
天秤が傾く。空っぽの皿へ――ぐらり、と。




