037「見つけられるといいね」
目覚めは何故か大分すっきりしていた。
久しぶりにこんな朝を迎えた、と伸びをして窓辺を見る。
(……やっぱり夢)
馬鹿馬鹿しいと思いながら、あくるはベッドを降りた。
◇
朝食の香りがする。焼けたパンの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。穏やかな朝だ、とあくるは思う。映画のワンシーンのような食卓。三人分とペット二匹分の用意がされていた。猫があくるを見て「にゃあ」と鳴いた。
「おはようございます、よくお休みになられましたか?」
朝にぴったりな笑みを顔に張り付けた皇龍があくるにそう言った。なんだか頭のぼんやりするあくるは自分を作るのも忘れて「……おはようございます」と返した。
「……普通に喋れるんじゃねえか」
ぼそっと呟いた影嗣の一言に、はっと我に返る。
しまった、本性を。――皇龍の顔色を伺うが、彼は全く気にしている素振りがなかった。これは脈なしだろうか、と思いつつ食卓につく。
ハムエッグ、サラダ――並べられた朝食はどれも美味しそうだった。
「トーストは何派ですか? ジャム? バター?
たこ焼きソース?」
「え?」
最後のひとつが妙に耳に残った。
たこ焼きソース、と言わなかっただろうか。
「た、たこ焼き……?」
「え? あれ? 普通じゃないですか? たこ焼きソース?」
意外そうな顔をする皇龍に、影嗣が追撃した。
「……大阪でもやんねえだろそれ」
「影嗣、あなた大阪出身じゃないでしょうに……知った風な口をきくものではないですよ、大阪の方に失礼です」
「うるせえ、お前だって大阪行ったことねえだろ。つうか、ジャムかバターの二択にしろっていつも言ってんだろうが」
「なぜです!? 美味しいのに!」
「お前だけだ馬鹿!」
影嗣が言うのに皇龍がむうと頬を膨らませる。子どもの喧嘩を見ているような心地だった。
ふたりは仲が良い友人なのだろう――こんな豪邸をシェアハウスするくらいなのだから相当。
そう思うと、彼を攻略するにはまず影嗣に気に入られることが大切なのでは、と気付く。彼の機嫌を取ることを優先にすればおのずとチャンスが巡ってくるかもしれない。
(ここは堅実に行くべきか)
あくるは思って、胸中で咳払いをしてから、
「だめですよぉ、ふたりともぉ。ケンカしちゃぁ」
するとふたりが怪訝な顔をしてあくるを見た。
「……え? あれえ? どうしたんですかぁ?」
「……朝から胃もたれするもん見せんじゃねえ」
影嗣がそう悪態をついてバターを塗ったトーストを頬張った。皇龍がふう、と溜息をついてから、
「たこ焼きソースでいいですか?」
とすすめてきた。
可愛く、断った。
◇
見慣れたオフィスに足を踏み入れて数秒――あくるは自分に向けられる視線に嘲笑が混じっていることに気付いた。何事かと思ったが、乗せられてなるまいと動揺を隠して笑顔のまま自分の席に座り、パソコンを立ち上げる。いつも通りのディスプレイにはメールを知らせるアイコンが顔を出していた。
開いて、あくるの体が真っ黒に染まった。
「……え?」
メール本文には大きく『衝撃事実!!遙江あくるは整形美女だった!!』と書かれていて、整形する前のあくるの顔――高校生の頃のアルバムから抜粋された写真だった――が添付されていた。宛先は全社員――誰もがあくるの真っ黒な時期を笑いながら見ていた。
「あらあ?遙江さんおはようございますぅ」
呆然とあくるが振り返ると、意地の悪い笑みをした女上司の水見がいた。水見はあくるの高校生の頃の先輩だった――しかし、こんなことをされる接点はあくるにはなかった。彼氏を奪ったことも仕事上で絡んだこともほとんどない。だから警戒していなかったのに。
(……なんで?)
何も言えず水見を見返すばかりのあくるを、彼女は一層おかしそうに笑った。
「どうしたの? あら……それって、イタズラ?」
「……なん、で……?」
「えぇ? なにがぁ?」
くすくすと笑う彼女の背後にもうひとつ影がある。それは最近配属されたばかりの新人の奈良井だった。演技のような、悲しい顔をしていた。
彼女は社内でも噂になる程の可愛い子だった。白い肌に艶やかな黒髪、天使のような相貌だと男性社員が小声で話をするのが気に入らなくて――少しばかり突っかかったことがあった。
「奈良井さんがね、あなたにひどいことをたくさん言われたってだから私、先輩としてどーしても助けてあげなきゃ、って。……でも仕方がなかったのねえ」
ファイルの写真を一瞥してから水見が笑う。その瞬間奈良井もまた、落ち込んだ顔を一瞬笑みに変えた。
あの時の、『可愛い』子たちの笑顔だった。
「こんな、ブスじゃぁ……天然美人の奈良井さんが妬ましくって……仕方がないわよねえ?」
「……!!」
――このブス
魔法が解けていく。
全部消えて、なくなっていく。
(……どうして?)
どうして――今頃になって魔法が解けてしまったのだろう。
「あたしね、あんたのこと高校の頃からずっとうざかったの」
水見が耳打ちする。あくるはほとんど流し聞いていた。
「だから、ちょーどよかったわ。……あんたが媚び売ってた鮫谷課長も騙されたーって言ってたわよ」
「……だ、まされ……?」
「だって整形してたんでしょ? そんなの――」
「――なんでいけないの!?」
あくるは叫んだ。
可愛くなることのなにがいけないのか。
どうして魔法をかけることをこんなにも、否定されてなくてはいけないのか。
――綺麗になるための手段をどうして他人に選ばれなくちゃいけないの?
猫の言葉が反響する。
可愛くなるための努力を――どうして。
「なにがいけないのよ!! 可愛くならなきゃ何の意味もないのに!! 手に入れたいものを掴み取るのがそんなにいけないことなの!?」
「……は? なにちょっと逆ギレ……?」
「うるさい!! あんたたちなんかにわかるもんか!! 傷つけられる気持ちなんか、わかるもんか!!」
あくるはふたりを押しのけて会社を飛び出した。
もうなにもかも終わってしまった――『遙江あくる』というキャラクターはどこにもいなかった。
◇
がむしゃらに走って辿り着いたのは啓吾のマンションだった。
誰かに無性に肯定してほしかった。やさしい啓吾なら、と縋る気持ちだった。
自分で捨てた癖に都合がいい時だけ頼るなんて――自嘲したが、今はそんなこともう考えていられなかった。
ぐちゃぐちゃだった。
「え?」
啓吾の部屋の前まで来ると、彼は黒服の人物に寝間着のまま引き摺られていた。必死に抵抗を試みている。
「ん?」
人物があくるの方を向いた。どこかで見たことのある顔――それは旗丹涼だった。あくるが奪った彼氏の元婚約者。涼は仕立てのいいパンツスーツに身を包んでいて、髪の毛をひとつに縛っていた。中性的な雰囲気が一瞬誰だかわからなくさせていた。
「ふうん――なあんだ、あんたら。まだ付き合ってたんだ」
涼が言う。啓吾があくるに気付いて鼻声で叫ぶ。
「あ、あくるちゃ……ッ! き、来てくれたん、だねっ、! たすけ……」
「うるさい」
涼が容赦なくみぞおちに蹴りを入れた。
「……ぐ、えっ」
「ちょっとあんた――自分の立場わかってんの?」
「りょ、涼、なんでこんなこと――」
「あんたが大負けしたカジノの元締め、うちの雇い主なの」
「えっ!?」
「『蒼氷会』。今の私の勤め先。あんたのところよりよっぽどいいわ、どんな私でも受け入れてくれるし」
「……えっ、え? 涼、そんな、反社会的――」
「うるさいっつーの!」
涼に一喝されて、啓吾が「ひ」と短く悲鳴を上げる。あくるの背後からぱたぱたと足音が近づく。音のする方を見ると、顔のついたフードのパーカーを着た少女が飛び跳ねるようにやってきた。すぐ後ろから涼と同じパンツスーツを着た女が歩いてくる。
「涼ちゃーん! 終わったぁ?」
あくるを通り過ぎ、少女が涼に言った。
「ああ、燈以奈さん……ごめんなさい。すごい抵抗して」
「あちゃあ、だめだよー。ビリビリないないしちゃうよ?」
少女がその手に持っているものをちらつかせながら言う。スタンガンだった。
ミルクフェイスの愛らしい顔の少女はにこにこと笑いながら引き摺られている啓吾を見た。
「榧ちゃんのところで楽しんだのにーお金返さないのはめっだよ! そういう悪い子はお仕置きです!」
「確か……酒も煙草もなさっていないのですよね――涼様」
女の方が涼に訊ねる。涼は「ええ」と答えた。
「内臓は綺麗なはずよ、一応体も。変な趣味の女に捕まっていなきゃ、綺麗だと思う」
「おっけー! じゃあもらっちゃおー! きれーなおにーさんの、きれーな中身はきっと高く売れるとおもうよ!」
「ま、売れなくてもどこぞの変態金持ち野郎のところで可愛がってもらえますよ」
不穏な会話をする三人に啓吾の顔が真っ青になる。あくるはその様子をただただ見ているしかできなかった。
啓吾の頭に布が被せられ、少女が容赦なくその首にスタンガンが迸らせた。暫く震えた後に啓吾は動かなくなった。女が彼を俵担ぎにして、再びあくるの横をすり抜けていった。
「ふう……」
涼が一仕事終えたと言わんばかりに息をつく。そして立ち上がるとスマートフォンを取り出して電話をかけた。
「――もしもし、ええ。今、少し手こずりましたけど……え? やだなあ、やめてくださいよ、榧さん。もうあんなやつに未練なんてありませんって……ええ、はい。……わかりました、すぐ戻りますね」
軽く笑みを交えながら話すその様はまるで別人だった。涼はスマートフォンをポケットに仕舞った。
「じゃ、私の仕事これで終わりだから。じゃあね」
「……っちょ、ちょっと!」
歩き去ろうとする涼の手をあくるは思わず掴んだ。細いが少々骨ばっている。
「なに?」
「あ、あんた……あんたって……」
「ああ、なに? 私が男に捨てられたから、グレてこういう仕事しているって? ――馬鹿言わないでよ、これは私が選んだ道」
そう言う涼の目は澄んでいた。固い意思の宿った目は――美しい。
「私が私でいるために叶えてもらった居場所よ、私は満足しているから変な勘ぐりやめてよね」
涼は本当に迷惑そうだった。
あくるは状況が理解できず、かつて惨めな目に遭わせたと思っていたはずの人物から伝わってくる生き生きとした感情に戸惑っていた。
「……私、が……私で?」
「ああそっか。あんたには――話してなかったね」
涼が突然ワイシャツのボタンを外し始めた。あくるが何事かと手を引っ込める。涼はへそまでボタンを外すと、大きく開いて見せた。
「……え?」
女性のそれではない――引き締まった男性の体だった。一体なにがどうなっているのか、あくるがわからず涼を見返すと当人は笑っていた。
「私、男なの」
「え?」
「体は、ね。家との結びつきを第一義に考えた時代錯誤な祖父母のせいで無理矢理女にさせられてて――結局心は女として育った」
「……なにそれ」
「意味わかんない? ま、理解してもらわなくても結構よ。こういうちぐはぐさ、私案外気に入ってるの」
けろりと言ってのけるその顔は清々しい。涼はてきぱきと服を整えると再びくるりと背を向けた。
「私のことを女だとか男だとかそういうことじゃなくて――ただひとりの私として見てくれるひとがいる……それだけのことで私はこんなにも救われたわ」
「……」
「あんたもそういうひと、見つけられるといいね」
余計なお世話よ。
普段のあくるならそう言っただろう。しかし魔法の解けたあくるには言えなかった。
――ただひとりの私
あくるは立ち尽くしたまま、遠ざかっていく足音をいつまでも聞いていた。




