036「嫉妬ぐらいするものよ」
(〝可愛い〟だけであんな風になれる)
幼い頃のあくるにとって、それはファンタジーのお話を見ているような気分だった。
◇
身内の言う『可愛い』が仮初だ。あくるはそれを小さい頃に痛感した。
あんなものは戯言に過ぎない――文字通り、戯れに放つ子どもの機嫌を取る一番いい文句だった。
小学校の歯に衣着せぬなどという言葉すら知らない同級生の男の子があくるに放った一言。
――このブス!
『可愛い』しか浴びせられていなかった彼女にとって衝撃的な発言だった。自分に向けられるあらゆる悪意の中で、最も色の濃い真っ黒な悪意の塊だった。
『可愛い』女の子たちは自分を見て笑っているだけ。罵られる自分を道化師のように見て憐れみながら笑っていたのだ。
あくるの人生が『女の敵』を目指そうと思った、最大のきっかけだった。
『可愛い』が全てなら、そのあらゆる『可愛い』をあくるが総なめにしてしまえばいい。真っ黒を全部ピンク色に染めてやればいい。あざといくらいに、目に痛いくらいに――自分が一番可愛いのだと世の中に証明するために。
可愛くて全部がピンク色な私――あくるは段々そういう風に自分を作り上げた。いくら友人が「無理あるよ」と笑っても、彼女は全く意に介さなかった。
中にはたった一言だけだ、という者もいた。所詮子どもの語彙力のない暴言だと。
(……そんなの知らない)
言葉が刃にもなることをあくるは知っている。あの時、あくるの心を無遠慮に傷つけたのは言葉を放った彼らだけではなく、笑って見ていた彼女たちもだ。
(何を言われようと変わってなんかやらない)
彼氏を奪って罵られても、仕事を押し付けてうざがられても――『可愛い』のであれば全て、許される。
そう思えば思うほどあくるはどんどん『可愛い』という概念に縛られていった。無論気付いてはいる、でも『可愛い』ことで生きるのが楽になるのなら、縛られていたところで構わないとも思っていた。
――このブス
ふと背後に気配を感じて振り返って見れば、そこにいるのはあくるだった。
ブスと罵られて真っ黒に染まったあくるが、真っ黒な目をして恨めし気に言う。
――無駄よ
はっとなって起き上がったあくるは全身に汗をかいていた。知らない部屋――ここは皇龍の住む家である。
「……っん?」
あくるは部屋に侵入者がいることに気付いた。猫だ、確か皇龍の飼っている愛猫だった。
毛並みは黒に見えていたがどうやら違う、つやつやした肢体を覆うその毛の色は紫色だった。しかも長くしなる尾は二本に分かれている。一瞬まだ夢を見ているのかとあくるは目を疑った。
「夢――ということにしておきましょうか」
猫が、そう言った。あくるは少し遅れて「え」と反応した。
紫色の猫が、喋っている。
「……え? あれ……? 私……」
「構わなくてよ、そのままで」
「……」
猫は窓辺に座っている。レースのカーテンが揺れるその場所に佇んでいる猫は、神秘的だった。やはりこれは夢なのだとあくるは思った。夢の中で悪夢を見ていたのか、と。
「可愛い、綺麗、美しい……いずれも女性に対しては大変な賛美の言葉ね」
「……そう、ね」
あくるは後の二つは言われたことはない。言うのであれば恐らく、今眼前にいる猫のようなことをいうのだろうとぼんやりと考えていた。
猫は美しい。紫色の毛並みによく合う同じ色の大きな瞳。まるで宝石のようだった。
「けれど世界って、そうそう手が届くものではないのよ」
「……え?」
「あなたの見ている世界とわたくしの見ている世界は全く異なるもの。――猫だから、とかそういう意味合いではなくて」
「……」
思ったことを見透かされてあくるは言葉に詰まった。
人と猫じゃ天と地の差だろう――夢の中でも思考がしっかりしていることにあくるは感心していた。
「あなたにとって誰に言われる『可愛い』が世界で一番なのかしら」
「……え? だれ……に?」
「そう」
猫が座った態勢から緩やかに寝そべる。その一連の仕草も、美しかった。
「わたくしにとっての世界で一番は皇龍さまから言われる『可愛い』。それだけで十分よ――それ以外の方から言われる『可愛い』なんてお世辞でも要らないわ」
「……じゅうぶん? それだけ、で?」
「ええ」
あくるは考えたこともなかった。百人いれば百人分の『可愛い』があればそれでいい、当然そう考えている。言われれば言われるだけ、自分にかけた魔法が相手を魅了しているようなそんな得意げな気持ちになった。
「……それは、あなたがもともと『可愛い』からよ」
『可愛い』の魔法をもともと手に入れていて、魅了するのに不自由をしたことがないから言えるのだ。猫なんてにゃお、と鳴けばそれだけで人が寄ってくるだろう。真っ黒な時期のあくるがにゃお、なんて言ったら気味悪がられるだけ――怪物を見るような目で、遠巻きに笑われるだけだ。
「わたくしが『可愛い』? うふふ、猫だから?」
「そうよ――もともと『可愛い』を持っているあなたたちなんかにわかるもんか……少し人より体重が重いだけ、造形が違うだけ、たったそれだけで否定される……!」
あくるは拳を握った。
目が人より小さいだけで、鼻が少し上を向いているだけで――それだけでみんないとも容易くあくるに刃を放ってくる。
ずたずたにされていることを、生まれながらに『可愛い』を持っている者たちが笑う。
「……だったら変えるしかないじゃない、全部……作り変えるしか」
「だからあなたは自分に魔法をかけたのね」
猫が言う。あくるは視線を床に落としたまま何も言わなかった。
テレビで見た――整形番組。世の中に傷つけられた少女たちが顔を変えるだけできらきらと輝く夢のような番組だった。魔法だ、とあくるは思った。
重い代償があったとしても、思う通りの顔に作り変えることができる。でも作り変えると人は嫌な顔をする。親から与えられた体になんてことを――なんて言う人もいた。
あくるにはわからなかった。
(だって可愛くないと傷つけられるのよ)
傷つくのは嫌だった。
痛い思いなんてしたくない。
だから、魔法をかける。時間をかけて、自分を変える。
シンデレラは存在する――自分の中に、魔法使いを生み出してお姫様になった。
「……何よ、猫も整形なんか駄目だって言うの?」
「言わないわ、そんなことを言うのはナンセンスというものよ。だって綺麗になるための手段をどうして他人に選ばれなくちゃいけないの?どんな魔法も存在するなら、手引書があるなら、覚悟があるなら――試すべきよ」
「……」
「けれど、あなたは魔法をかけすぎてしまったみたいだわ。心にまでその魔法を施している……スパイスと同じ、加減はするべきね」
「……うるさい」
「うふふふ――これは意地悪。わたくしだって嫌なのよ? 皇龍さまの隣にわたくしじゃない女の子がいるなんて」
ふたつに分かれた尾を振って猫が言った。
「……あなた、猫でしょ」
「そう、今は猫だわ」
「……は?」
「魔法をかけているの、今のわたくしは皇龍さまの愛猫。愛されている猫よ。わたくしはどんな姿であろうとあの人に愛されているわ、あなたとは違って」
「……どういうことよ」
「知りたい?でも――教えてあげない」
「……ちょっと……!」
「もう少しだけおやすみなさいな、きっと知る時はすぐにやってくるから――」
窓辺にさす日の光がひどく強くなって、あくるは眩暈を起こした。
猫の――笑った顔がぶれて、少女の顔になる。微笑む少女は人形のように美しい。
「……だ、れ……」
ぐらりと世界が揺らいで、あくるは再びベッドに身を横たえた。
◇
「嫉妬してんじゃねえよ」
猫が降り立った庭で、寛いでいた大きな白い犬がそうぼやいた。
「あら、どうして?嫉妬ぐらいするものよ」
「皇龍さんがなびくわけねえだろうが」
「なびくなびかないとか――そういう問題ではないの」
猫がつんとそっぽを向く。しかしすぐに体の向きを変えた。そして犬の、その真っ白な体に身を預けて丸まった。ふわふわの毛並みは白い草原のようだった。
「……なんだよ」
「彩羽ったら本当に女心がわからないのね、女の子なのに」
「はあ?――織々、おまえ猫になってからますます意味不明になったな」
「まあ、ひどい! 彩羽だって、わんちゃんなのに寝てばかりじゃないの。それじゃあ猫と変わりないわ」
「別にいいだろうが、オレはもう『闘犬』じゃねえんだし」
犬はそう言って、交差した前足の上に頭を置いた。
「充分寝たのではなくて?」
「……影嗣さんたちが帰ってきたら起きるよ」
「本当に前よりずっとお寝坊さんだわ、彩羽」
「……平和ってことだろ、いいことじゃねえか……」
「……」
そのうち犬の寝息が聞こえてきて、猫は空を見上げた。
「平和……そうね、平和。何もなくて、穏やかなせかい……」
猫は寄り添うように目を瞑った。
爽やかな風が二匹の間をするりと抜けていった。




