035「彼女をよろしく」
その男と出会ったのは、二週間ほど前だった。啓吾から元婚約者が突然会社を辞めてその後の行方が分からない、と相談された日だった。あくるは「きっとぉ、なにか別にやりたいことが見つかったんだよぉ」と適当にあしらっておいた。
――正直どうでもよかった。死んだとかそういう面倒くさい話ではなかったのが不幸中の幸いだったと思ったくらいだった。
その日友人との約束があったあくるは、電車を乗り継いだ後徒歩で都内のカフェへ向かっていた。
『もうすぐ着くよ』
そう打っている最中、突然がくんと片足が沈む。ヒールが折れたのだ。お気に入りだったのに、と道端で恨み言を呟いているところに彼はやってきた。
「おや、お困りですか?」
柔らかな口調と同じ、柔和な笑みを浮かべた銀髪の男だった。垂れ目は金色をしていてまるで海外の俳優のようだった。肩に猫が乗っているのも画になるほどである。
男はあくるの折れたヒールを見つけると「おやおや」と言って覗き込んだ。その時、ミニスカートを履いていたので慌てて裾を押さえた。
「おやまあ、ヒールが。ちょっと失礼」
そう言って男はあくるの靴を半ば無理矢理に脱がせ、折れてぶら下がっているヒールをぐっと押し込んだ。そんなことで直る訳が――と思っている目の前で、男がヒールから手を離す。
すると、ヒールは元の通り綺麗な状態に戻っていた。嘘かと思いヒールを触ってみると、それは接着剤でもつけたかのようにびくともしなかった。
「え!?」
「俺、実は手品師なんですよね~」
キャラクターを忘れてあくるが驚くと、へらへらと男は笑った。
微笑むというよりおちゃらけているといった風である。
「す、すごい! ほんとに直ってる……!」
「それじゃ」
「あっ」
男はやる気なさげに手を振ってさっさとその場を立ち去っていく。その背中にあくるは暫くの間釘づけだった。
男とはそれきりだと思っていたが――意外にも簡単に再会できた。あくるはこの時、『可愛い』から当然だ、と心の隅で思っていた。
彼は公園のベンチに座って、鳩に餌をやっていた。肩に猫が乗っているので、すぐあの時の男だとわかった。
「あ、あのぉ~……」
できる限りの愛くるしい声で、あくるは男に声をかけた。最初に反応したのは肩に乗っている猫で、猫が気付いたのに、彼が気付いて顔を上げた。まじまじとあくるの顔を見て、「ああ」と声を上げた。
「ヒールの方じゃないですか」
「ひ、ヒールの方ってぇ……」
とんでもない覚え方をされているものだ、と思ったが素早く切り替えて言った。
「私ぃ、遙江あくるって言うんですけどぉ……」
上目遣いで自然と語尾にハートがつきそうな具合に調整して。
しかし男は全く動じず、鳩に囲まれながら淡々と答えた。
「ええ――存じ上げておりますよ」
「え?」
「俺、透視能力あるんですよね~」
男はあの時と同じ調子で言った。つかみどころのない男だった。だが、この態度が逆にあくるに火をつけた。ころっと堕ちる男もいいが、こうして手に余る男もいい。そういう男を攻略した時の達成感はたまらない。想像してあくるは頬を緩ませた。その笑顔は策士のそれである。
「あのぉ……お名前、お聞きしてもいいですかぁ?」
ベンチに『ちょこん』と座って、小首を傾げて訊ねる。男はビニール袋からせっせと豆をまきながら答えた。
「皇龍です」
「え?」
「お、う、りゅ、う。天皇の皇に難しい方の龍です」
「皇龍さん、ですねぇ」
「ええ、そうですよ」
皇龍は一切あくるの方を見ないままそう答えた。女慣れしているように思えたが、やはり女性関係が見えてこなかった。着ている服に『TAKOYAKI』と書かれているのは少々気になったが――玉に瑕というほどではない。それすら着こなしているのだからこの男は相当に見目が整っている。
「皇龍さんはぁ、なにしている方なんですかぁ?」
「とある高貴な方にお仕えしております」
「高貴な方ぁ……?」
(え、なにそれ)
「ええ、とても素晴らしい方です」
「社長さん、とか……ですかぁ?」
「そんなものよりずっと素晴らしいですね、社会貢献という意味ではどんな社長も目ではないでしょう」
(てことは大企業の会長とか?政治家?)
あくるの中で皇龍への期待値がぐんぐん上昇していく。ひけらかすようなことをしないところも大変に好印象だった。これは最高の出会いをした、とあくるはその時も心の中でガッツポーズしていた。
「あのぉ、もしよろしかったらぁ……」
実のところ、断れると思っていた。しかしあっさりと皇龍は、
「連絡先? ええ、いいですよ」
と快諾した。
◇
その皇龍の家に、あくるは向かっている。一度だけ入らせてもらい、そういう雰囲気になったが皇龍はひたすらに猫を撫でているばかりで――結局何事もなく帰されてしまった。
(確かに皇龍さんの家ってひとりで住むには広すぎる家だったわ……)
一軒家で、広い庭がついているそこそこの豪邸である。だからあくるの期待値などとっくの昔に限界突破していた。できる限り堅実的に攻略していこうとさえ思っていた。
「ここだ……」
表札は出ていないけれど、外見はきちんと覚えている。あくるは人格を整えるとインターフォンを鳴らした。すると、
『……はい』
明らかに皇龍のものではない声が応答した。彼が電話で話していた同居人だろう。あくるは可愛い顔をしてインターフォンに備え付けられているカメラを覗き込む。
「こんにちはぁ、皇龍さんに言われてきたぁ……遙江あくるといいますぅ……」
『……っち』
(え?今舌打ちされた?)
感じ悪いな、と思いながら扉が開くのを待っていると――
「……てめえか」
出てきたのは仏頂面の男だった。黒い髪と赤い目をしている。皇龍に比べると日本人離れはしていなかったが、彼もまた相貌そのものは整っている。これは最高の同居人だ、と三度目のガッツポーズしそうになった。
彼もだいぶラフな格好をしている。右肩にだけ柄の入ったTシャツとジーンズ。恰好だけ見れば皇龍とよく似ていた。
「……ったくあいつも……」
「あのぉ……」
「……っち」
(あ、やっぱり今舌打ちした)
あくるは柄の悪いイケメンとして彼のことをインプットした。男は玄関から出てくると門を開き、あくるを招き入れた。その背後を白い大きな犬がついてきた。不思議そうにあくるを見上げている。
その目は橙色――夕焼けによく似た色だった。
「わぁ、かわいいわんちゃんですねぇ~♡」
あくるが触れようとすると男が強い口調で注意した。
「触んじゃねえ」
驚いて男を見ると、彼は苛々した調子で門を閉め、さっさと歩いていってしまう。
(……なによ)
これは顔だけいい男だ、とあくるは覚え直すことにした。
「……わふっ」
背後で犬が欠伸を噛み殺すように吼えた。
◇
「あれぇ? 皇龍さんはぁ?」
「……いねえよ、部屋だ」
男は影嗣といった。影嗣は玄関でキャリーケースのホイールの土を雑巾で拭くように命じた。「はあい」と答えてその通りにすると「念入りにしろよ、皇龍にぐちぐち言われんのやだからな」と余計な一言を付け足してきた。
「お部屋ですかぁ……会いたいなぁ」
あくるが言うと、影嗣が大袈裟によく聞こえる声量で溜息をついた。
「……ん?」
「ぜっ、たいに。駄目だ」
力強く影嗣が言う。
「えぇ~どうしてですかぁ?」
「駄目なもんは駄目だ、てめえに説明する義理なんかねえよ」
「わっひっどぉ~い!」
(マジで態度サイアクなんだけど……)
あくるは心の中で、舌打ちした。
通されたリビングは想像通り広かった。65型のテレビが壁に埋め込まれていて、シアターバーも設置されている。観葉植物も効果的に配置されているので、なんだかあくるは社長夫人にでもなったような気分だった。
「すごぉい♡ 男のひとふたりだけなんてもったいないですねぇ♡」
「……てめえはそのうざってえ喋り方しかできねえのか」
影嗣が露骨に気持ち悪がりながら、あくるに苦言を呈する。しかし目的は彼ではないので崩す理由がない。時が来れば少しだけ覗かせることもある本性だが、基本はこの甘えん坊スタイルで貫き通していた。ぶりっこだのなんだの言われていたが別に構わない。自分とこの先一生付き合うことのない者の戯言など気にする必要はなかった。
白い犬はだいぶ大人しい。人見知りをするような素振りもなく、警戒するように吼えることもなく、黙って影嗣の後ろをついてきている。歩くたびにふわふわと踊る毛並みにあくるは思わず自分の手を抑えた。
「えぇ♡ うざったいなんてぇ、ひどいですぅ」
「気色悪ぃ」
「……!」
そうはっきり言われたのは初めてだった。文句を言いたいのをぐっと堪えてあくるは笑ったままを保った。
「ん?」
影嗣が階段の方を向いた。あくるがつられてそちらを向くと、
(きゃ~!!)
風呂上がりなのか汗ばんだ皇龍が階段に立っていた。公園で見かけた時とは違うアンニュイな表情をしている。
「おや……随分お早いですね」
呑気な調子も飄々とした雰囲気もなく、どこか刺々しかった。
「皇龍、お前どうした」
「……水」
皇龍はそれだけ言って階段を降りてあくるの横を通り過ぎた。
(ん……?)
花のような香りが、鼻腔をくすぐった。皇龍は冷蔵庫を開けるとペットボトルに入ったミネラルウォーターを煽った。仕草も乱雑で苛立っているように見えた。
(ギャップ……萌え!)
あくるはきゅんきゅんしながら、皇龍を見つめていると彼はあくるを見てから影嗣に視線を移した。
「……彼女をよろしく。……俺は子猫の躾に忙しいんだ」
皇龍はそのままペットボトルを片手で潰すと、ゴミ箱に放った。そして大股に部屋へ帰っていく。扉を閉める音がいやに大きく響いた。動作ひとつひとつが随分と荒々しい。
「……すごぉく……怒ってぇ、ますぅ?」
「……いや、違えよ」
「え?」
しかし影嗣はそれ以上何も言わない。
あくるの荷物を奪い取ると「てめえの部屋は」と言って案内をし始める。犬があくるを見てから誰にも気づかれないように「ふう」と溜息をついた。




