033「今がいちばん幸せ」
大将=紅蓮
総大将=紅錯
「おっつかれさんでしたー!」
姫眞がグラスを掲げて叫んだ。
傍らで同じくグラスを掲げた<紅姫>がオレンジジュースを飲む。姫眞が喉を鳴らして飲み干すと、「いや~でも」と話を始めた。
「まっさかなあ……メンヘラ君が『裏切られて可哀想な自分』がいちばん好きだったとは……。えぇーと? その場合って消えへんのんですか?」
「うん、ちゃんと楔になってくれるよ。自己愛だって立派な愛だからね、自分のことを大好きなのは大切なことさ」
「なるほどぉ」
言いながら姫眞が豪縋が用意したつまみを頬張った。クラッカーにチーズやトマトなどを乗せてオリーブオイルで味付けをしたものだ。シンプルだが甘いカクテルには丁度良い塩気だった。
「自分は佳苗はんの方がいくかな~と思ったんやけど……違った」
「君もわかってたんじゃないの? あの子は行かないって」
「うん?」
「佳苗が完全に春良に洗脳されているから……望みなんてないってことを」
姫眞が笑って「旦那ぁ、おかわりぃ」と二杯目を頼んだ。「飲みすぎるなよ」と注意をしながらも豪縋は手際よくカクテルを作り始めた。
「押して駄目なら引いてみろ、をまさか戸籍にバツつけてまで実行する人がいるとは思いませんでしたけどね~」
佳苗は性格的に自己評価が低かった。極めてネガティブというわけではなかったが、完璧に近い春良と結婚したことでその性質が顕著になったのである。
佳苗は春良を裏切らない――さながら忠犬のごとく。
手綱を掴まれている頃はとても安心していたが、春良に否定されるようになってから佳苗は不安になった。どうすれば『飼い主』に喜んでもらえるか、彼女は策を見出せなかった。
路頭に迷いかけていた憐れな『迷い犬』を拾ったのが弥里だった。
やさしくされるのに『犬』は尻尾を振って喜んだ。ついついじゃれ合うのが激しくなって、噛み付いてしまって――歯形を付けた責任を賢い『犬』は取らなければ、と思った。
そこで『飼い主』に粗相が見つかる。『飼い主』は当然『犬』の粗相を叱りつけて躾けた。『犬』は精一杯、期待の応えようと励んだが、何故か突然『飼い犬』は首輪を外して『犬』を自由にしてしまった。
『犬』は捨てられたのだ。
だから、拾われた。裏切られて愛に飢えた『可哀想な王子様』に。
「禁断の関係を経て結果裏切られてひとりぼっち……ある種特別な経験だった、彼を王子様にしまうほどのね」
「うぅ~ん……ありがちやと思うんですけど」
「さあ、世の中を知らないんじゃない?」
「カワウソ」
姫眞は出された二杯目に口をつけた。
「そういえば」
豪縋が<紅姫>の空っぽになったグラスに気付いてオレンジジュースを注ぎながら問う。
「あ、ありがとう。……うん?」
「床屋弥里は一体何をあなたに望んだのです?」
「ああ、それね」
<紅姫>がオレンジ色で満たされたグラスを揺らした。
「――俺をこの世で一番可哀想にしてくださいって望んだの」
「え?」
「えぇ……」
ふたりがそろって顔を引き攣らせた。
「それは……どういう?」
豪縋は深淵を覗くがごとく恐る恐る問いかけると、つまみを咀嚼しながら答えた。
「佳苗と春良夫妻のもとで愛玩用として飼われているよ。――自我を失ってね」
「……わぉ」
姫眞がそう感想を漏らした。
あれを人と呼ぶか犬と呼ぶか――<紅姫>にはわからない。
どちらにしても、弥里を見た者の中にこう思う者は多いだろう。
――不倫の果てに心が壊れてしまった可哀想な男の子
彼が望んだ最も悲劇的な幸福である。
もう人らしい自我は残っていないので、本人がそれを幸福に感じているかどうかすら怪しいが――もう、どうでもよいことだった。
――可哀想な王子様が『犬』になって、『犬』もまた望みを叶えて『王妃』になった。
憐れで不幸なお伽話はそうして終わったのだから、それ以上加筆する必要はない。
「膠さんが『魂』を食らうとそれがお花の旦那たちの力になる……んでしたよね」
「うん、そうだよ。――別に彼らのことを名前で呼んでも構わないんだけど……姫眞」
「いやあ、ちょっと性分で……」
「強制はしないけれどね。それで、それがどうかしたの?」
「この場合って誰がどうやってメンヘラ君のお望みを叶えはったんかなって」
「ああ、それね」
<紅姫>膠は頬杖をついた。緩いカーディガンで胸元が見えそうだったので豪縋はそれとなく視線を外した。
「今回は紅錯の担当だよ」
「うぇ、でも総大将って怨恨とかそういう……悪いモノ担当やなかったですっけ」
「そう、悪いモノを祓う……というより壊す。――弥里の人格を紅錯が丸ごと潰したんだよ」
「……はわわ」
「あれでいて紅錯は乱暴者だからね。情け容赦なく粉微塵にするの。凛龍みたいに加減ができないから一部分を削ぎ落とすだったりっていう慎重な作業はお願いできないんだ」
「ほへえ、見た目からは想像できひんわぁ」
「豪縋と結構似ているんじゃないかな――大きいっていうのも含めて」
豪縋がそらした視線を元に戻した。その目に驚愕と混乱と若干の気恥ずかしさが含まれている。姫眞が膠の言葉を理解して、
「およよ?」
と声を出して目を瞬かせた。それから豪縋を咎めるような目で見るので、膠が「ああ、違う違う」と訂正した。
「別に不義を働いたから知っている訳じゃなくって……紅蓮がね、前に言っていたんだよ。あいつはあれでいてかなり巨根で俺も驚いたって世間話みたいに」
「あぁ……大将か……」
「……あいつ」
「『鬼神』って基本的にみんな無駄に立派なモノを持っているから自分のそれより大きいモノを見ると結構見ちゃうらしいよ、俺はどうでもいいんだけど」
その時ドアベルが鳴った。三人が視線を動かすとそこにいたのは噂の紅錯――ではなく、同じ顔の紅凱だった。にこにこと愛想の良い笑顔を浮かべている。
「あれ、迎えは紅錯が来るって聞いたけど」
「最近膠君が私に冷たいので紅錯に代わっていただきました」
「……冷たくしているつもりはないのだけれど」
紅凱は膠に近づくと小さな体を壊れものを扱うように抱きあげて、ぎゅうと力強く腕の中に閉じ込めた。彼は構ってもらいたがりで寂しがり屋だ。孤独が長かったせいもあるだろうし、人格が乗っ取られていたこともある。誰よりも膠の傍にいることができたのに、誰よりも遠い位置にいるしかなかった。
だからこそ――現状、とても甘えん坊で我儘だった。
凛龍と衝突するのも我慢している期間が同じくらいに長かったから、もどかしさの部分で分かり合えるからだろう。境遇が似ているがゆえにぶつかる――同族嫌悪のようなものだ、と膠は理解している。
抱き締める力があまりに強かったので、膠が苦言を呈する。
「紅凱、痛い」
「……」
紅凱は何も言わないし力も緩めない。不貞腐れた子どものような顔をしている。
「はいはい、わかったから。この前はごめんね?君が凛龍と喧嘩をするから仲裁するにはああ言うしかなかったの」
「……」
「拗ねないでって」
その様子を姫眞が微笑ましそうに見ながら言う。
「膠さん、幸せそうやんね」
言葉を聞いた膠が一瞬目を瞠ったが、すぐに笑って返した。
「そうだね。今がいちばん、――幸せかな」
たとえそれが、大きな犠牲を払って得た幸せでも。
膠が生きていて一番幸福であることは変わりなかった。彼女の答えに、紅凱が泣きそうになりながら頬を寄せた。
「姫眞は?」
「え?」
「姫眞は――幸せかな」
問い返されたのが意外だったのか、姫眞は豪縋と顔を見合わせたから言った。
「そら勿論。……たとえ洗脳されているのだとしても」
意地の悪い笑顔だった。
「それでも……幸せなら問題ないね」
「そのとおり」
膠と姫眞がお互いに笑い合った。
「膠君、行きましょう」
「うん」
紅凱が膠を連れて扉へ近づいていく。そのまま振り返ることなく外へ出て行った。
ドアベルが余韻の音を立てる。
「――お前は俺に洗脳されたとでも?」
静かになったバーで、豪縋が空になったグラスを片付けながら不満を漏らした。姫眞が「何をおっしゃる」と言いながらクラッカーをつまんだ。
「……っん。あんたに抱かれたっていう既成事実を作らされた挙句、退職も許されなくて、その間何度もあんたに呼び出されては無理矢理に抱かれて、男だってんのにいろんなところをいろんな方法で開発されて――それって洗脳じゃないの? ブレインウォッシュ――頭ん中見事にあんた一色にされたよ」
「俺はお前が『絶対にあんたなんか好きになってやるもんか』というものだからそれを試しただけだが」
「あー、はいはい。そういう俺様理論ね、オッケーオッケー」
姫眞が肩を竦めて芝居さながらの大袈裟な反応をした。
「ま、別に今となってはいいんだけど。俺、超絶今幸せだし」
「お前も意外と旺盛だしな」
「……それは……そうだけどさ……」
言い淀みながらグラスの底に残った僅かなカクテルを飲み干す姫眞。それからカウンターにへばりつくように倒れ込んで、豪縋を上目遣いに見た。
「ねえ、旦那。俺酔ったかもしれなーい」
「……それ、ノンアルコールだぞ」
「しらなーい、酔ったからうごけなーい」
「……やれやれ」
豪縋がカウンターから出てきて、倒れ込んだ姫眞の体を抱き起こす。横抱きに移行すると姫眞が腕を首に絡ませた。
「……ほら、やっぱり旺盛なんじゃないか」
「旦那がそうやって仕込んだんだから仕方がないじゃん。あんたのせいでひとりでもイけないって俺めっちゃ可哀想じゃない?」
「そうか、それは済まないことをした」
「思ってもねえのに謝るんじゃねえ」
姫眞が豪縋の額を弾いた。
「……姫眞」
「はーい」
「……お前が欲しい」
真剣な赤の眼差しに、紫色と緑色の眼差しは呆れていた。
「はいはい、どうぞ。召し上がれ? 永久保証の私だからぁー」
「……なんだそれは」
「え、うっそ、豪縋さん。あんな有名な曲知らないわけ?世の中知らなすぎだよ」
言いながら、豪縋の店の奥へ消えていく。
彼らの姿がなくなったあと、店はもうどこにもなかった。
◇
お話はこれで、おしまい。
可哀想な王子様は犬になって、とても不幸せで幸せに暮らしました。
犬は王妃様になってもうなにもわからなくなるほど幸せになりました。
王様はいちばん幸せに暮らすことができました。
めでたしめでたし。




