032「君を想うひとは誰だろう」
その女に出会ったのは、佳苗と連絡が取れなくなって暫くしてからだった。
都内では有名な占い師だといい――心の中に潜む望みを暴き、叶えてくれるのだという。
ある時組まれた特番で見事に出演者の秘めた悩みを言い当て大きな反響を呼んだらしい。弥里は知らなかったが、喫茶店の店長がオカルト好きだったのでそういった話を休憩中によくしていたのを聞いて知ることとなった。
会えなくなって久しい――身に燻る思いをどうにか発散しようとそういう場所にも行った。しかしやはり弥里の心を潤してくれるのはあの人しかいないのだと実感するばかりで、余計に乾いた。
だから、藁にも縋る気持ちで――頼った。
「……都内の会員制のバーで鍵を受け取るんだ」
「鍵?」
「会うための、鍵。……鍵を受け取ると後日ポストに行き方が投函されてくる」
「ふうん」
「……いつも行き方が違うらしい……場所も」
「……ま、下手にアシがついちゃあまずいこともやってそうだしな」
凛龍が弥里の話を聞きながら相槌を打つ。
ポストに投函されていたのは赤い便箋に黒い文字で『あなたは選ばれました』と書かれた手紙と地図だった。
地図の通りに向かうと人気のない場所にやってきて、黒服の男がふたり立っている。男たちに手紙を見せると彼らは背後の扉に声を掛け、返事があると入ることを許可される――一連の流れは今回と似ていた。しかし、似ているだけだ。
(……なにもないところに突然現れた)
塀に囲まれるほどの巨大な屋敷。
特徴的な見た目の、動物を携えた二人組の男。
案内役には獣の耳が生えた女。
――なにもかも常軌を逸していた。
彼女のマニアックな見た目もさながら、それが妙に似合っているように錯覚するのも、少女が官能的な『女』という側面と無垢な『少女』という側面、両方を持っているからだろう。
事実、弥里は彼女を見た瞬間心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥った。美しいとか綺麗だとかそんな言葉を超越した雰囲気を、眼前の少女<紅姫>は纏っている。
「それで出会ったんだね、<紅姫>に」
出会った<紅姫>は三十代半ばほどの女だった。髪の毛も身を包む衣装も目も全てが真っ赤だった。
真っ赤がゆえに<紅姫>と呼ぶのかと弥里が納得するほどに、女は赤を纏っていた。強烈な赤の印象が相貌を曖昧にしていた。
非凡な顔立ちにも平凡な顔立ちにも見えた。頭から被ったベールのせいで、神秘的に思ったのかもしれない――部屋は暗く、ふたりがやっと入れる程に狭い空間だった。
机を置いて向かい合わせに座る。女の正面には水晶もなければカードもなかった。あるのは奇妙な形をした宝石だった。
「奇妙な形をした宝石……ですか」
「……ハートのような、歪んでいるよう、な……塊、みたいな?」
「ふうん、宝石ねえ……」
女はおもむろにその宝石を掌に乗せて、その上に弥里の手を乗せるよう言った。言われた通り弥里はそれに手を乗せて程なくして――女は突然目を見開いて言ったのだ。
「貴方は今、邪魔に思っている者がいる……そして、その者をどうにかすれば自分が幸せになると思っている……」
「……!!」
心を読まれたと、その時は思ったという。しかし今になって冷静に考えれば誰にでも当てはまるであろう凡庸な文句だった。雰囲気に呑まれていたのと必死だったせいもあったと弥里は回想した。
そこからはなし崩し、佳苗のことや佳苗が既婚者であることで身を焦がす恋をしている――と弥里は自発的に言ってしまった。
「それでお金払って円満離婚するようにって、望んだんだ」
<紅姫>の言葉を、弥里は首肯した。
成果はあっという間に現れたから――本物だと信じた。次何かあればまた頼ろうとすら思っていたのに。
結局望みは叶えられてなどおらず、佳苗は元の主へ戻ることを決意してしまった。
「お金、ねえ……」
<紅姫>が足を伸ばした。見れば見る程彼女は煽情的だったが、下品ではなかった。
「……悪いかよ」
不貞腐れるように言った弥里に、<紅姫>は首を振った。
「ううん。釣り合うのだったら俺はお金でも命でも賭ければいいと思うよ、でも」
「……なんだよ」
「本当……心の底から望むことって――お金に換えられる価値があると思うかなあ」
「……!」
「俺は金の亡者が、とかお金にこだわるは、とか言うつもりはないよ。お金が手段になろうが目的になろうが――使えるものは使うべきだ、そう思うでしょ?」
「……そりゃあ……」
「人間もね、使える人間がいるんだよ」
「……え?」
<紅姫>の声から温度が消えた。
「たとえば――寂しい気持ちを紛らわすために抱かれる、とか」
「……なっ」
「君は根本的に自分の立ち位置というものを間違えて認識しているようだ」
少女が――<紅姫>が、自身の首から伸びるそれを揺らしてみせた。リードには充分長さがあるので足を伸ばして首が締まることはなさそうだった。
弥里が言葉を待った。
「夫婦の問題に、単なる他人である君が安易に首を突っ込むものじゃないよ」
――夫婦の問題に勝手に口を出さないで!
弥里の頭で佳苗の絶叫が反響した。
「夫婦というのは契約なんだよ。会社で雇用されるのに君はいろいろ書類を書くでしょう? それとおんなじだよ。他人であるふたりが夫婦という繋がりを得て、様々な制約を受けても愛し合うと誓った契約――だからこそ不倫は契約違反だから咎められる筋合いにある」
「……け、契約……?」
「約束なんて生ぬるいものじゃない、指きりげんまん嘘ついたら……? ふふふ、馬鹿馬鹿しいね。――夫婦というのはそれよりもずっと業が深いんだよ。不倫は契約違反という状況を楽しむ娯楽の一種さ、脳内麻薬でくらくらしているから正常な判断なんてできやしない」
「な……何が……言いたいんだよ……」
ようやっとそれだけ、弥里は言うことができた。
嫌な汗をかいている。何かに触れてしまいそうな予感がするのに、止めることができなかった。
「うん? あのね」
<紅姫>が紅凱を引き寄せてその首筋に触れた。太く筋の張った男の首――指先で喉仏の形をなぞるその仕草にどくんと鼓動が大きく鳴った。
「君は、ただ遊ばれていただけってこと」
血がのぼった頭が体に何か命じた。
振りかぶった拳は届かず、そのまま地面に伏せられていた。顔をもろにぶつけた――鼻から血が出て、床の絨毯を汚した。
「っ、!」
「なんでしょうねえ、ひとって。見ない事実をいざ見せつけられると暴走する――あの子も同じでしたけれど」
「……見ない方が幸せだと知っているからだろう。……誰も不幸にはなりたくない」
弥里は紅凱と紅錯に押さえつけられていた。
「ああ、でもこれはね、俺の主観的で客観的な意見さ。――佳苗自身は遊んでいるなんて毛ほども思っちゃいないだろう。でもね、彼女は春良を心から愛している、でも拒絶されてしまって行き場がなかったから丁度いい君のもとに収まっただけ。手に入ったわけではないんだよ。――君を選んだわけじゃないんだ、弥里」
弥里は――何も言えなかった。
楽しそうに笑うとき、彼女の目の奥にいるのはいつだって弥里を見ていなかった。彼女の目に映るのはただひとり。夫の幻影の映った弥里という器を愛していただけに過ぎない。
「お……俺はぁ……ッ!!」
「お母さんの代わりはどこにもいない」
さらりと、<紅姫>が弥里の核心をついた。
当人は背後から自分を抱き締める凛龍を愛おしそうに撫でている。
「……お母さん?」
紅錯が<紅姫>の言葉を復唱した。
「そう、お母さん。――彼が愛したのね、紅錯。彼の実母なんだ」
「禁断の関係というやつですか」
特に驚きもせず、紅凱が続ける。
弥里は唇を噛んだ。
感情を抑えるために噛みすぎて血の出たことがあった。
そんな姿をあの人に見せると、「痛みが消える」と言って口づけてきた。
――それが異常だなんてこれっぽっちも思わなかった。
◇
父はすでにいなかった。死んだのではない――母の愛し方を見て、気味悪がって離婚したのだ。
弥里にとって母とは親であり女だった。弥里の『普通』だった。
自分の恋人だと自覚したのは高校に上がってすぐだった。何度も体を重ねた、何度も唇を貪った。でも母からは決して他人に言ってはならない関係だと口止めされていて自慢したくてもできなかった。
そんな最愛の恋人が、若い男と消えたのは大学進学の決まった寒い冬の季節だった。
もう充分ね、と言って恋人は消えた。若い男は海外の男で、日本人にはない見た目の随分美しい顔立ちをしていた。その相貌だけを妙に覚えている。
「弥里の母はたぶん誰に対しても性的欲求を持つということが『普通』の女性だったんだろう。親子ということはきっと関係がなかった。異性という一点だけで、弥里を愛したんだね。……でも、異性なんていくらでもいる、それこそ千差万別。相性や金回り――様々な要因で弥里よりも良い異性がいたからその手に収まった。……ただそれだけ」
「……それだけでも、俺にとっては最悪の裏切りだった」
振り絞るように弥里が言った。
突然のことで心の整理がつかず、せっかく受かった大学も中退した。
「だから――今度は! もう誰にも裏切られないって、そう――!!」
「残念だけれど他人は裏切る生き物だよ」
澄んだ声で<紅姫>が断言した。
「……ッ」
「他人というのはね、弥里。いとも容易く心が移ろう存在なのさ。だからこそ契約を交わすんだ、裏切られないように、裏切られたらそれ相応の制裁があるように」
「……そんな……じゃあ俺は一体何を信じたら……」
項垂れる弥里を見てはあ、と溜息をつく<紅姫>。彼女は弥里を押さえる二人に言った。
「離してあげて。あと力強すぎ、加減してくれない? 弥里の鼻から血が出てるんだけど」
「おっと、失礼。<紅姫>以外はどうにも難しくて……」
「……」
ふたりが弥里を解放した。肩を落としたまま弥里は上体を起こした。
「……何を信じたらいいって?」
<紅姫>が自分のもとに戻ってきたふたりに労をねぎらうように頬に口づける。彼らは選んでいる――彼女のものになる契約を交わしているのだ。
「そんなの決まっているじゃないか、君の心なのだから……君が君を信じて決めるんだ」
「俺が……決める?」
「佳苗と元に戻りたいのか、それとも――まだ彼女を求めるのか」
「……え?」
「彼女は死んじゃいないからね、君が会いたいと望むのなら俺はそれを叶えてあげることができる」
弥里がはっと顔を上げた。見つめた<紅姫>の目には夜空が広がっていた。満月のない、静かな夜が弥里を見下ろしている。
孤独に震えた寒いあの日を思い出した。
ぬくもりの消えた部屋。
何もかもが冷たくて――弥里はあたたかさを求めていた。
「……ほんとう、に?」
「うん、本当に。お金はいらないけれど代償は必要」
「……何が、必要なんだ」
「――『魂』」
「……魂……」
「君がこの世にあるために絶対的に必要な楔。君が誰かに想われているのなら楔を外されても君はこの世のモノであり続けることができる」
「……だれかに……おもわれて……」
「君を想うひとは誰だろう? 君を捨てた最愛の女? 君を代わりにした最悪の女?」
「……」
弥里は思い出す。自分を想うのは一体誰なのか。
自分が最も愛していたのは誰だったのか。
母を愛していた。母を語る女を愛していた。愛を語る裏切り者を愛していた。
でもそれよりも愛していたのは――
「……はは」
弥里は気付いてしまった。
自分が本当に愛していたものを。
だから、彼は望むことにした。
「……<紅姫>、俺を望みを叶えてくれる?」
「いいよ」
「俺の望みは――」




