031「理解されない関係」
愛の形はそれぞれ。
愛し方もそれぞれ。
たとえ他人に理解できなくても――夫婦には理解できるものがある。
◇
「……え?」
弥里は絶句した。
絶句せざるを得なかった。
「……なん、て?」
「うん、私――再婚することになったの、春良さんと」
「……うそ」
「嘘じゃないわ。……でもあなたにはいろいろお世話になったしお礼をしたいと思うの」
「……おれい?」
佳苗は珍しくはしゃいでいた。こんな佳苗を見るのは初めてだった。
その薬指には捨てたはずの約束が輝いている。弥里にはそれが彼女を縛る首輪のようにしか見えないのに。
「ええ、春良さんとも考えたのだけれど……私たちと一緒に住むっていうのはどうかしら?」
「……は?」
再び――弥里は言葉を失う。
何を言っているのだろうか。不倫相手と一緒に住む?佳苗はどこか頭を打っておかしくなったのか?弥里の想像を越えた発言が受け入れたくないのに鮮明に入ってきた。
「だって弥里、ひとりぐらしできないのでしょう? ひとりになるとパニックになってしまう、って言っていたわよね?」
「……い、言ったけど……」
「それじゃあ一緒にいればいいわ。春良さんもいいって言ってくれているし……」
「なんで……? なんで、今更やり直そうなんて……?」
佳苗は自分がおかしな発言をしていることに気付いていない。寧ろ名案とでも言うような口調だった。弥里の質問に、佳苗は答えた。弥里の心をずたずたに切り裂く解答を。
「当然よ――だって、私は春良さんを愛しているのだもの」
それは弥里にとって二度目の裏切りだった。
「……弥里?」
「……なんで? ……望みは、叶ったんじゃ……?」
「弥里、どうしたの?」
「……っ!」
弥里は問いかける佳苗を置いて家を飛び出した。
自分は確かに願いを叶えたはずだ――金を払って。大枚をはたいて、望みを叶えてもらったはずなのに。
どうして――彼女もまた自分を裏切るのか。
不条理に満ちた光景に弥里の心は悲鳴を上げていた。とにかく会わなければ、会わなければいけない。
<紅姫>に――あの赤い女に!
「おやおや、そんな急がれてどちらへ?」
不意に声を掛けられた。
無我夢中に走っていたからどこをどう走っていたかはわからない――気が付けば、弥里は見知らぬ道に迷い込んでいた。声を掛けたのは鉄道員のような恰好の銀髪の男だった。二股に分かれた尾を持つ猫を撫でながら柔和に微笑んでいる。
「……は?え?」
「どうもこんにちは、初めましてで、ございますよね?」
「……え、ええ……」
「そうでしょうねえ、あなたはこちらにいらっしゃるの、これで初めてですからねえ」
「……え?」
いやに『初めて』を強調する男に違和感を覚え、弥里はまじまじと彼を見た。金の瞳をした垂れ目、通った鼻筋、薄い唇――どこをとっても美しいという文字がぴったりと嵌る相貌だった。日本人だとはとても思えない顔立ちである。
(……あの人もこんな若くて綺麗な男に……)
よぎった思い出に下唇を噛むと男は首を傾げた。
「俺の顔に、なんかついてます?」
「あ」
「……皇龍、無駄口はその辺にしておけ」
男を注意したのは隣にいた別の男だった。揃いの格好をしているがこちらは髪の毛は黒く、目が赤かった。足元には白く大きな犬が寛いでいた。
「無駄口だなんて失礼な! これはスキンシップ、というものでございますよ」
「じゃあお前は過剰なんだよ馬鹿」
「影嗣はすぐ馬鹿って言う……馬鹿って言う方が馬鹿って教えてもらってないですか?」
「お前いい加減にしろよ」
にわかに喧嘩腰になる男――影嗣に皇龍は両手を上げて降参という態度を取った。
「……あの?」
すっかり忘れられていた弥里が割って入ると「ああ! そうでした、うっかり!」と大仰に皇龍がリアクションして、弥里の手を引いた。整った顔立ちが眼前に迫って、弥里の心臓が思わず跳ねた。
「わっ」
「<紅御前>がお待ちですよ」
「べ、べに……?」
「会えばわかります」
皇龍が弥里を放り、そのタイミングで影嗣が扉を開いた。転びかけながらも態勢を整え後ろを向くともう扉は閉まっていた。
「案内に従ってお進みくださーい、ちなみに。お金は要りません」
「……え?」
金が必要ない――?
しかしもう答える者はいないので、仕方がなく弥里は先へ進むことにした。
◇
赤い扉を開けると、そこに待っていたのは狐の耳を生やした女だった。布を繋ぎ合わせただけの上半身と深いスリットの入った下半身。どこもかしこも過度な露出をされているのは、彼女に尻尾が生えているからなのだろうか――と弥里は考えてしまった。
着物に似た服装に長い金髪を後ろに流し、先の方で緩く結んだその姿はなんとなく神社の巫女を想像させた。
「いらっしゃあい」
女が身を乗り出して弥里を見る。紫色と緑の目が好奇心に輝いていた。視線が居心地が悪かったので弥里は顔を歪ませる。
「……なんだよ」
「そっちが来はったかあ……ま、でもそうなるよねえ」
「は? あんた何言ってんの?」
「気にしない、気にしなーい。はーい、ではどうぞ~」
終始意味不明な事を言っている女に不信感を抱きつつも弥里は皇龍に言われた通り、彼女の後を追うしかできなかった。
薄暗い廊下にはこれみよがしに夫婦の仲睦まじい姿を描写した吊灯籠が下げられていた。単に寄り添うだけのものもあれば濃厚に絡み合うものもある――吐き気がした。
程なくして先行していた女が立ち止まった。襖があり、そこには桜吹雪だけが待っている。
「<紅>はーん、お連れしましたえ」
「――はあい」
少年と少女の相半ばにした声が、返答する。女が横にずれて、旅館の女将のように膝をついて襖を開いた。視界が明るくなった。
「やあ、はじめまして」
背後で襖が閉まる。――その音も聞こえない程に弥里は少女の姿に衝撃を受けた。
「俺が、<紅姫>だよ」
笑う少女は、赤い女のそれとは別物だった。まさにこの世のモノとは思えぬ芳香を放っていた。
髪の毛は白く、団子状に結い上げている。留めている簪には二羽の鳥が寄り添う飾りがつけられていた。
赤い首輪から伸びたリードが胸の谷間を通って足首の足枷に接続されている。
明らかにサイズの合っていないカーディガンを素肌に纏い、足元は真っ白な二―ソックス。下半身はフリルのレースで装飾された下着だった。
弥里にとってはかなり刺激的でマニアックな格好だった。
「ああ、わかる? 悪趣味だよねえ」
弥里の視線の意図を理解したのか、<紅姫>と名乗った少女は自分を観察した。
「てかなんで首輪なの?」
彼女は右側に座っていた男に問いかけた。彼は白い縁の眼鏡をしていて、長い髪を赤い紐で結んでいる。柔和な笑みのまま問いに答えた。
「とっても可愛らしいですよ<紅姫>♡」
「……首輪が?」
「首輪を含めた全てが♡」
「……」
少女はそれ以上何も言わず、黙り込んだ。背後に座っていた銀髪の青年が目元を手で覆い深いため息をつき、左側で無表情に正座した男は一瞥しただけで何も言わなかった。
「まあいいや」と気を取り直し、少女が弥里に向き直る。
「やあ、君と会うのはこれが初めてだね」
「……そ、そりゃあ……あんたみたいなその……ヘンタイ、っちくな恰好の子に会うのははじめて、だよ……」
「ごめんね、紅凱は変態だから衣装も変態になるんだよね。まあ、夫の趣味だし俺も好きだから合せてあげてるけれど……」
「……ん?」
夫?今、この娘は夫といったか。
聞き間違いかと弥里が少女を見返すと、彼女は笑った。弥里の心を見透かしているかのように。
「俺と彼らは夫婦なんだよ」
「……!!」
少女は変態だと言った男の頬に触れた。その手には三つに交錯する形の指輪があって――指輪があるのは左手の薬指だった。それは証――約束した証明だ。
「あの変態の名前は紅凱。紅の凱旋門と書く。そして彼は紅錯、紅の錯覚と書く」
少女は左側で背筋を伸ばして正座する男を手招きした。彼は足を崩して近づくと、首筋に口づけた。ちゅ、という短く小さなリップ音が鳴る。
「そして彼が凛龍。凛々しい龍と書く。龍は、画数の多い方の龍だね。彼らはみんな俺の大切なひとなんだよ」
後ろにいた青年に振り返ると、彼は頭を抱いて唇を寄せた。
三者三様に彼女へ愛を伝えている――夫婦という繋がりで、結ばれている。
「……!!」
――弥里、彼は私の大切なひとなの
――わかってくれる?
弥里の記憶が鮮明にその声を呼び出した。自分を裏切った、自分が愛したただひとりのひと。
愛してはいけないと周囲に反発されたが弥里にはそんなこと関係がなかった。
血の繋がりなどどうでもよい、そう思うほどに彼女は美しかった。情欲を抱くほどに彼女を欲していた。
「……」
「愛していけないひとなどいないけれど――理解されない関係というものはある。君にも彼女にも」
「……っ」
「俺のこの関係だってあまり理解されやすいものじゃないさ、でも関係ない」
少女が――<紅姫>が言う。
頬に触れていた紅凱がにじり寄って、彼女の腕を取った。そして手首に口づける。
<紅姫>がその行為を見送ってから、身を捻って前に戻し、後ろにいた凛龍がその体を背後から抱きとめる。紅錯は小さな彼女の肩に頭を預けた。
「それで? 俺以外の<紅姫>は一体どんな風に君の望みを叶えたの?」
赤い女が笑っている。
赤い女が嘲笑っている。




