030「ごめんなさい」
見たことのない顔の、弥里がいた。
怒っているわけでもなく、悲しんでいるわけでもない――けれど、強い感情を見せている。
「……み、弥里」
「早く帰るって言ったじゃない」
「ご、ごめんね。途中道が混んでて……」
「この時間で混んでいる道なんかないよ――どこ、行ってたの」
「前に言ったところよ、お話をする息抜きの場所」
「だからなんで俺がいるのにそこに行くの!」
弥里が叫んだ。佳苗がびくり、と身を震わせる。彼が一歩近づいてきた。
その姿に折檻をする春良が重なった。
「佳苗さん、俺のこと置いていくつもりなの?」
「お、置いていくなんて……そんなこと……」
「じゃあなんで俺のそばにいてくれないの?」
「い、いるじゃない」
「違う、心はいつもどこかに行ってる!!」
弥里の言葉は――真実だった。佳苗は離婚してからずっと弥里を見ているようで見ていなかった。その陰に垣間見える春良の幻覚を見ていた。
「ち、違うのよ弥里。私はね、まだ離婚して日が浅いから」
「……っこんなんだったら、記憶を消してってお願いするべきだったよ」
「……え?」
弥里の呟いたその言葉が理解できず、佳苗が訊き返す。しかし、弥里は答えなかった。
ただ自身の感情を爆発させた。
「旦那と円満に離婚できるようにじゃなくて、旦那の記憶を全部消してってお願いするべきだった!!」
「……え?」
――人の望みを叶えてくれる
何故か姫眞のその言葉は蘇った。
「……弥里、それってどういうこと?」
「……」
「お願いしたって――誰に?」
「……」
「ねえ答えて弥里!」
「――<紅姫>」
予想が的中した。
「<紅姫>っていう女に望んだんだ。……時間がかかるかもしれないって言われたけど」
下を向いたまま弥里が言い訳をするように説明した。
春良が突然離婚を申し出たのは弥里のおかげ――いや、せいだったのだ。
彼がこの『後悔』を生んだ元凶。そんな風に考えている自分に気付いて、佳苗は後ずさった。
「……どうして……そんな……」
「佳苗さんが好きだからだよ! どうしようもなく好きだから――俺は!」
「――夫婦の問題に勝手に口を出さないでッ!」
頭に血がのぼった佳苗はそう叫んだ。
(私はそこまでしてほしかったんじゃない!!)
離婚するしないを決めるのは夫婦だ、他人の弥里に考えてもらうことではない。春良に軟禁されたからといって、愛が絶えたわけではない。辛く苦しい日々の全てが不幸ではなかった。
佳苗が望んだのはやさしさだ、それさえ与えてくれれば、良かったのだ。
飢えているものは水、なら欲するのもまた水。
等価交換――与えすぎても求めすぎても、いけない。
「佳苗さん……? なにそれ、なんだよ、俺に縋った癖に――俺に、抱かれたのに!」
「煩いッ!」
佳苗は思わずエコバックを叩きつけた。中身が飛び出してこぼれる。卵が割れて、白と黄色のどろりとした液体が流れた。
静寂がおり――段々と佳苗の中の熱が引いていった。
「……ごめん……言い過ぎた……」
弥里は佳苗を想って行動してくれたのだ。彼を巻き込んだのは、他でもない自分。そんなことわかっていたはずなのに――彼のやさしさを酷い言い分で否定してしまった。
「俺も……ごめん。……ひとりにされるとちょっと、パニクっちゃって……」
気まずそうに縋ってくる弥里の目。
見ていられなくて佳苗は顔を背けた。
「……私、疲れているみたい。……ごめん」
空気が淀んだ。
どうすれば最善なのか、今の佳苗にはわからなかった。
◇
次の日佳苗はもうバーに寄らないと心に決めて家路についていた。バーのある通りではなく、少し遠回りになるが別の道を。そうすればあの青い看板を見なくて済む――と思ったのに。
「……なんで?」
遠回りした道に、青い看板が灯っていた。
ここは居酒屋の立ち並ぶような通りではない、ウインドウショッピングを楽しむような通りである。なのに、ありありとした違和感と既視感が合わさった不思議な光景が佳苗の眼前に広がっていた。
酒を飲んだようにくらくらしている――自分は今、夢を見ているのだろうか。実は今日朝起きてからずっと夢で、これもまた夢なのではないか、と。
(い、いいえ、入らなきゃいいだけだわ)
あったとしてどうしたというのだ――寄らなければいいだけの話だ。佳苗は思い直してできる限り見ないように顔を下に向けたまま歩いた。もう1mもない距離に看板の青い光が視界に入る。しかし見ないように、見ないように――
「……佳苗?」
通り過ぎようとした佳苗の足を止めたのは、聞き覚えのある声だった。
(そんな、え? どうして――)
(まさか)
恐る恐る佳苗が顔を上げるとそこにいたのは、
「……春良、さん?」
手綱を離した言い渡した夫――春良だった。
◇
「な、なんで、春良さんが……ここに」
「あれえ? おふたり知り合い?」
顔を出したのは姫眞だった。彼女は何も知らない風である。
「……あ、ああ。……俺の、元妻、で」
「およ、およよ!? まーじか! 不倫してサヨウナラした元夫婦が偶然にも!」
あまりに芝居がかった口調で姫眞が驚きを表した。
「……二人揃って思い出のカクテル飲むなんて……ほんとはお別れしたくなかったんだねえ」
「え?」
姫眞の言葉に、佳苗が春良を見る。
精悍な顔立ちは以前よりもやつれているように見えた。清潔感を大切だと毎朝綺麗に剃っていた髭も、まだらに生えたままだ。几帳面な彼であれば決してしないような剃り残しが多かった。
「……春良さん、あなたも……あの、青いお酒を?」
「……あ、ああ……君も……?」
「ええ……」
あの頃の思い出がまるで走馬灯のように――蘇った。
初めてのバーで緊張する佳苗のために春良が注文してくれたもの。アルコール度数も低く、甘みの方が強くて飲みやすかったので佳苗はあっという間に気に入った。「美味しい、美味しい」と飲む佳苗に春良は困った笑顔で「飲みすぎるといけないよ」と注意してくれた。
(ああ……やっぱり、私)
(今頃になって気付くなんて)
どんなに冷たくあしらわれても、どんなにきつく当たられても――どんなことをされても、佳苗は春良を愛していた。出会ってからずっと彼以外を愛することなどできなかった。
視界が涙で滲んだ。
「……ごめんなさい、春良さん……!」
「……え?」
春良はきょとんとしている。そんな顔も愛おしいと思った。
愛おしくてたまらなかった。
「私、私あなたにひどいことして……でもね、本当はあなたに許してもらおうって思っていたの。許してもらえるためならなんでもしようって……!!」
「……佳苗」
春良が佳苗の肩を抱く。
「……佳苗、俺の方こそ済まなかった。君は俺のためにいろいろやってくれていたというのに……俺は仕事のことばかりで……それに君にあんな仕打ちを……」
春良が懺悔するのに、佳苗が首を振った。込み上げる想いにもう蓋をする理由がなかった。
「いいの……嬉しかった……あなたに求められることがこれ以上なく幸せだったの……!」
開いた蓋から溢れ出した想いに突き動かされるまま、佳苗は春良に抱き付いた。春良の腕が背中に回って彼女を力強く抱き締める。
その様子を見ていた姫眞が後ろにいる豪縋を見て――笑った。
狐のような、笑みだった。




