029「置いていかないで」
炊事洗濯など基本的な家事は全て佳苗がやる。好きではあったので特別苦痛ではなかった。弥里は以前の夫の言動を気遣って、あれこれ手伝おうとするが不器用なのか大概失敗してしまう。必死に謝る姿は可愛らしくて佳苗は許してしまっていた。
「佳苗さん最近遅いけど何かあった?」
夕食のとき、唐突に弥里が訊ねてきた。その顔は心配しているようで、疑っているようにも見える。離婚して日が浅いのでもしかしたら前の夫と会っていると思っているのかもしれない。
彼の憂鬱を打ち消そうと極めて明るく佳苗は返答した。
「ちょっと息抜きできるところを見つけたの。女の人がいるところよ」
「女の人がいるところ……?」
「えっと……なんていえばいいのかな、ガールズバー? ……いいえ、ちょっと違うわね」
「……ふうん」
がちゃん、と茶碗が乱暴に置かれる音がした。何か落としたかと目線を弥里に戻すがそこに彼はいなかった。彼は佳苗のすぐ横にいて、茶碗を持ったままの彼女を抱き締めた。
「えっ、弥里?」
「……どこにも行かないで佳苗さん」
「……え?」
「俺、ひとりは嫌いなんだ。……寂しいんだよ。俺も早く帰られるように努力するから、ね?」
「だ、大丈夫よ。何言ってるの? 言ってるでしょ、息抜きだって――」
「俺がいるのに?」
弥里が佳苗を見つめた。捨てられる寸前の子犬のような目だった。
「……み、弥里?」
「息抜きする必要なんてもうないでしょ? あんな怖い旦那がいなくなったんだから!」
「……何言ってるのよ、弥里」
「お願い佳苗さん、俺を置いていかないで。俺もう佳苗さんしかいないんだよ」
震える声で弥里がそう縋りついてきた。それは恋人や旦那というよりも異なる――母に愛を求める子どもだった。佳苗はふと脳裏に姫眞の言葉が蘇った。
――心の問題を解決できるのは、心の持ち主だけ
佳苗と付き合い出してからの弥里は明らかにおかしかった。はしゃいでいるのかと思って佳苗も気にしなかったが、会う頻度が高くなるにつれ拘束時間が段々と延びていた。帰ろうとすると必死に引き止められ結局一晩を共にする。そんなことが多くなり、当然朝帰りになった。そのことが春良に発覚して芋づる式に弥里との関係が明らかになった経緯がある。
「……ねえ弥里」
「……なあに?」
「弥里は、家族いるの?」
「……え?」
「家族。親とかきょうだいとか――」
「なんでそんなこと訊くの?」
弥里の語気が僅かに強まった。
「……弥里?」
「なんでそんなこと佳苗さんが訊くの。俺の家族なんてどうでもいいでしょ?」
「ど、どうでもよくなんかないわよ、だって――」
「佳苗さん、俺、佳苗さんに髪の毛伸ばしてほしい」
「は?」
いきなり話題が飛んだ。佳苗は面食らって黙ってしまう。
佳苗は春良と付き合う前からずっと顎あたりまでのボブヘアだった。色を染めたことのない黒い艶髪は佳苗の密かな自慢だった。しかし艶髪を保つケアが非常に大変なので、髪は伸ばさないと決めていた。
「ちょっとなに? いきなり」
「俺、髪短いのキライなんだ」
「ちょっと弥里、子どもみたいなこと言わないでよ」
「……なんで? 旦那と別れたのにどうして?」
「……弥里?」
寂しいあまりに弥里はこんなことを言っているのだろうか。それとも本当に疑心を募らせているのだろうか。佳苗はわからなくなって、弥里を見る。下の向いた弥里の茶髪を染めた黒髪――緩くウェーブしているのはパーマをかけているかららしい。お洒落なのだと弥里は言っていた。佳苗はトイプードルみたいね、と褒めたことがあった。
「……置いていかないで」
泣きそうな弥里を見ていられなくて、佳苗は彼を抱き締めた。弥里が背中に手を回してきて、力強く抱き付いた。
◇
(六時半――大丈夫、間に合うわ)
佳苗は弥里に「今日は早く帰るから」と約束して、時間を気にしつつも――『人魚の壺』に来ていた。早い時間だったが、店は開いていた。弥里の就業時間は午後八時。しかし大体ずれ込むので、アパートに帰るのは九時頃だ。その前についていかなければならない。
佳苗は昨晩の弥里の言動を掻い摘んで姫眞に話した。彼女は昨日と同じ恰好で違う酒を飲んでいた。
「うぅーん、なんか……ちょっと子どもっぽくない? 佳苗さんついてけてる?」
「正直驚いた。まさか髪の長さを言ってくるなんて」
「まあ、俺好みの女にしたいって欲望は誰にでもあったりするからなあ」
姫眞がカウンターで何やら背中を向けて作業している豪縋に視線を向ける。手元を覗くと軽食を作っているようだった。
「俺もね、この格好、旦那の趣味なんだよ」
「えっ」
思わず佳苗が豪縋を見る。彼は無反応だった。
「……それって」
「俺が『あなたが一番好きな俺にして』って頼んだの」
「あなたが?」
「そう、俺が」
佳苗は言動と衣装が若干ちぐはぐだな、とは思っていた。一人称は『俺』で口調も少年のようなのに、恰好は艶やかな女。彼女の不思議な魅力が違和感を消していたが、疑問に思わなかったわけではない。だが人の言動にいちいち文句をつけるような性格ではないので、気にも留めずに会話していた。
「何着てほしい? とか髪の毛長い方がいい? まとめた方が好き?とかいろいろ聞いた」
「……献身的、なのね?」
「どっちかっていうと依存的、かな」
「――俺も格好も同じだがな」
豪縋が言いながら、皿に半分に切ったBLTサンドを乗せてカウンターに置いた。
「同じ、って?」
「俺がね、この服着てほしいってお願いした。ホントはスーツが一番かっこいいんだけど、それは俺が独り占めするってことで二番目に着てほしい服着てもらった」
「そうなの……なんだかすごく素敵ね、それって」
佳苗がふたりを交互に見ながら感想を漏らした。
ふたりは互いの要求を呑んで、それに納得して過ごしている。やはり夫婦なのではないか――と佳苗は思った。
「求めすぎてもいけないし与えすぎてもいけない」
姫眞がカウンターに置かれたBLTサンドの半分を佳苗に差し出す。見事に二等分されていた。
半分にされた片方を咀嚼しながら姫眞が続ける。
「等価交換、ってやつかな? 自分がしてほしいことがあるなら、相手のしてほしいことをする。気持ちも擦り減るものだから」
「……等価交換……」
「そう。漫画で有名になったね、俺もあの話好き。でも日常生活って同じこと。夫婦生活――は、俺はちょっとわかんないけど」
「……でも付き合うってそういうことだと思う。あげたりもらったりして……」
「佳苗さんは弥里くんに何かあげた?」
「え?」
「それか弥里くんになにかもらった?」
「……もらった、もの」
佳苗が弥里から貰ったのはやさしさだった。
水に飢えた毎日に見つけたオアシス――それが床屋弥里という存在だった。
無邪気で子どもみたいな、何にでも目を輝かせて自分のことのように佳苗を心配してくれるやさしい子。体を重ねることを考えたのはそのやさしさをもっと深く知りたいという欲求が生まれたからだ。
我ながら愚かなことを考えた――今になって振り返ればそう思う。やはりそこに生まれる感情は『後悔』だった。
「でもやさしさって割と道端に落ちているよ」
「……っ」
「やさしいって表面上だったら誰でもできるよ」
「……姫眞さん」
「――佳苗さんって都市伝説とか噂好きなひと?」
「え?」
また、話題が飛んだ。既視感を覚えながら佳苗は俯きかけた顔を上げる。
「『桜雲館』の<紅姫>って噂、どっかで聞いたことない?」
「……い、いえ。……ないわ」
弥里からもそんな話を聞いた覚えはなかった。
「望みをね、なんでも叶えてくれる神さま――じゃないや、女の子なんだけど」
「……望みを?」
「そう。人が持つ深層の欲望を」
「しんそう、の……」
「深いところにある、己の命運を変えるかもしれないっていう――望み」
「……」
「佳苗さんが本気で悩んでいるなら彼女が手を貸してくれるかも」
「……」
姫眞はからかっているようには見えなかった。真剣な眼差しに、佳苗はごくりと喉を鳴らす。
「あれ、ってか。――もう九時になるけど、佳苗さん時間大丈夫だっけ?」
「え!」
しまった、話に夢中で時間を全く気にしていなかった。
時計は午後八時五十分を指し示していた。




